人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●徳力富吉郎の京都版画館
都版画館を見学したことについて、先週の長文特別期間中に書こうかどうか迷いながら結局断念した。今日は思いがけず書く気になったが、その理由から書こう。



●徳力富吉郎の京都版画館_d0053294_2383234.jpg昨夜も今日の昼も建仁寺近くの戎神社に十日戎のお参りをして来た。別に商売繁盛を祈願するつもりはない。自由業の筆者は本当は商売熱心になる必要があるが、金儲けにはさっぱり縁がない。どうあがいても金運がないので、えべっさんに願うことと言えば、『何事もたいした変化がなく、無事1年が過ごせますように』だ。毎年十日戎に出かけるのは、御利益を求めてではなく、恒例の風物詩に参加して気分がいいからだ。2年前だったか、大阪の十日戎にも出かけたが、あまりの人出に驚いた。京都は十分の一以下の人出だろう。昨夜はてっきり宵々宮で露店も出て賑やかだろうと思って出かけのに、露店はすべてシートやテントを被せて閉じられていた。そのため、通りはほとんど真っ暗同然で、まるで普段よく見る夢の中を歩いている気分になった。露店以外の店はどうにかぽつぽつと開いていて、そのひとつにおばさん3人が集まってフリー・マッケットをしている家があった。普段はシャッターを閉めているらしいが、えべっさんの人出を見込んで主婦が集まって不用品を持ち寄って並べているのだ。それでも品数は少なく、また内容もしょぼくて、ほとんどほしいものがなかったが、おばさんたちがちょうど筆者と同世代でもあって、雑談をしながら、一応つぶさに商品を確認した。昭和30年代前半の日本各地や香港、台湾などの観光地の絵はがきが段ボール一杯あって、それが一番面白かったが、その中に「版画 WOOD・BROCK PRINT」と題された山吹色のタトウ紙に入った絵はがきがあった。一見して徳力富吉郎の木版画だとわかったが、中を見ると「大原三千院」と「鷹ヶ峰 常照寺」の2枚しかない。それを見たおばさんが、「それは何枚か使ったようやから、持って帰っていいわよ」と言う。せっかく大量に見た絵はがきだったが、わざわざ買うほどのものではない。一番いいと思ったものを無料でもらうのが何だか悪い気がして、聴いても一度と思えるCD1枚と、それに石鹸を何個か買った。帰り際にイギリス製のアドレス帳を手に取ってみたところ、新品ではなく、たくさんの住所氏名や電話番号が書いてあった。それをおばさんに言うと、誰々さんは中身を確認しないでこんなものを持って来たと笑いながらそれを引っ込めたが、ぱらぱらとページを繰った時、袋入りのたくさんの切手が出て来た。2000円分程度だったようだが、アドレス帳は200円だったので、そのまま買っておくと得したのに後の祭りだ。で、おばさんに「もっと別の古い切手はないんですか?」と訊ねると、あるから明日また来てとの即答。それで今朝行って来たわけだ。その顛末は別の話になるのでここには書かないが、昨夜に続いてえべっさんにお参りして、また『何事もたいした変化がなく、無事1年が過ごせますように』と願った。
●徳力富吉郎の京都版画館_d0053294_237776.jpg 前置きが長くなった。昨夜無料でもらったタトウ入りの2枚の徳力富吉郎の木版画絵はがきは、他の観光絵はがきから考えて、昭和30年代の刷りであることは間違いがない。タトウ紙裏面には、「純手摺木版 版元まつ九」とある。今時、絵はがきで純手摺木版のものがあるだろうかと思うが、現在もまつ九では同じようにして手摺りしたものを販売している。筆者が京都版画館のまつ九を訪問したのは去年11月17日のことだが、それにはまた前置きを話す必要がある。それに、どこまで書いていいのか迷いもあるが、簡単に書いておこう。まず、図書館に置いてあったか、『おもしろおすなあ 京の町~美術工芸にみる京のあちこち 京のあれこれ~』と題する展覧会が京都市学校歴史博物館で開催中であることをチラシで知った。この博物館には2、3年前に一度出かけたことがある。京都市内中央部の繁華なところを少し南に下がったところにひっそりと建つ小学校を利用した施設だ。明治2年、京都は日本初の小学校を生んだが、ここはその一校だ。展示品は以前じっくりと見ているので、再訪するつもりはさほどなかったが、チラシに印刷されているのが徳力富吉郎の日本画「伏見人形を売る店」と十世伊東久重の木彫御所人形「春風」でこれが目を引いた。伊東氏に関しては筆者は個人的に若干縁があるが、今回はやはり触れない。「伏見人形を売る店」はチラシの半分以上を占める大きさで印刷され、実に雰囲気のあるよい絵だ。伏見人形好きの筆者はまじまじとこれを眺め、実物を見ておくべきと考えた。そして、チラシからは特別講演会が開催されることも知った。「徳力富吉郎を語る」と題して、京都版画館の徳力淑子氏が11月12日に1時間半ほど語るとある。そしてその日に出かけて講演を聴いたが、それにはふたつの目的があった。ひとつは徳力淑子さんに直接お会いして頼み事をしたかったからだ。これについてもここでは触れないが、講演後筆者は淑子さんに話しかけて、とにかく快く筆者の願いを聞き入れていただいた。そして平安神宮より少し西にある京都版画館に赴いたのが5日後の17日であった。
●徳力富吉郎の京都版画館_d0053294_2395744.jpg 「淑子さん」と気安く書いているが、2000年に98歳で亡くなった徳力富吉郎の御夫人で、講演を聞くまで面識がなかった。モダンな雰囲気の、そして気さくで温かいお人柄で、2時間ほどお邪魔して対話したが、その間とても楽しく世間話を含めて話に花が咲いた。それはいいとして、講演の実現は学校歴史博物館がぜひにと淑子さんに申し込んだからで、実際のところは淑子さんは乗り気ではなかったようだ。そのため、同博物館の学芸員がリードを取って、淑子さんに質問するという形式で進んだ。電話予約した定員70名はほぼ全員出席し、メモを取るなどみな熱心であったが、講演後にいくつか質問もあった。そのひとつでよく覚えているのは、「徳力先生はお亡くなりになられたのですか?」というものがあった。2年ほど前だろうか、筆者は京都版画館のホームページを見て、そのどこにも徳力富吉郎が亡くなったとは書かれていなかったため、ひょっとすれば100歳を越えてまだ存命中だと思ったりもした。講演会で配付された年譜の最後にも、「1996年(平成8年)日本浮世絵協会より浮世絵奨励賞を受く」とあって、その後が書かれておらず、それを見る限り、誰しもまだ亡くなってはいないのではないかと勘違いしたろう。結局先の質問によって、初めて2000年に逝去したことが淑子さんから伝えられたが、その時思ったのは、長命であった徳力富吉郎は肉体は消えたが、精神はまだそのまま京都版画館にあるだろうということだ。徳力は生前9000点ほどの木版画を制作し、版木の大半は同館に保管されていて、いつでもかつてと同じように摺ることが出来るそうだが、そこが日本画家や油彩で描く場合とは違って、版画家の強みでもある。版木は財産で、それが残る限り、作者は生き続ける。京都版画館は、4階建てだったろうか、徳力家の広い敷地内にある鉄筋コンクリート造りで、工房と作品展示場を兼ねた建物だ。予約すれば入場無料で内部を見学出来る。淑子さんと2時間ほど話した後、見学させてもらったが、帰り際に宮澤賢治の「雨ニモマケズ」に絵を添えたタトウ入りの7枚セットのものや、新緑の嵐山や雪の清水寺などを摺った絵はがきを何枚か買った。もっと高価な版画もたくさん売られているが、どれも木版画という手間のかかるものである割には安い。たとえば前掲の「嵐山」は同じものを2枚買ったが、てっきり印刷だと思っていたのに、帰宅してよく見ると、2枚の摺り上がりには差があって全部手摺りであることがわかった。5色摺りだが、これは年賀状で木版画をやる人が見ればいかに難しいものかわかるだろう。それが1枚262円だ。これで儲けが出るのだろうか。「嵐山」は、昨夜ただでもらった「大原三千院」と「鷹ヶ峰 常照寺」と同じサイズで、絵具の雰囲気もよく似ている。つまり、徳力富吉郎の存命中に作って売られていた当時のまま、今でもおそらくあまり大差ない価格で売られているのだろう。
●徳力富吉郎の京都版画館_d0053294_23104189.jpg

 京都にいて美術に関心のある人ならば、徳力富吉郎の名前を知らない人はまずいない。明治35年(1902)、代々画家の家系で、西本願寺絵所を預かる旧家の12代目として下京に生まれた。大正12年に現在の京都芸大である京都市絵画専門学校を首席で卒業、土田麥僊の門下となった。昭和2年、第6回国画展に出品した日本画「人形とレモン」で樗牛賞を受けているが、この作品は赤と黄色が洒落ていて、当時のモダンな空気をよく伝える。どこか川上澄生や前田藤四郎を思わせたが、川上は徳力より7つ年長で、前田は2歳下だ。ついでに書くと、同じ京都生まれで木版画の草分け的存在であった浅野竹二は徳力より2歳年長で、同じく麥僊に画塾で学んだ。1999年に98歳で亡くなったから、徳力とはほぼ同じ年月を同じ京都で活躍した。さて、徳力は日本画で受賞したものの、かねてから木版画に関心を抱いていて、翌年は平塚運一、棟方志功らと同人誌「版」を刊行、その翌年には版画雑誌「大衆版画」を発刊している。年譜によると、1946年は「終戦と同時に版画製作所を興し、幾多の徒弟を要請して、産業的版画の量産を始め、木版手摺のエハガキを製作して全日本エハガキ・コンクールに出品受賞す」とある。日本の木版画の絵はがきを収集するレオナルド・ローダーのコレクションが一昨年京都でも公開されたが、日本の木版画のよさを安価な絵はがきによって普及させる行為はなかなか見上げたことだ。芸術家は1点ものを作ることで作品の価値を高めることを狙うのが普通だが、その点では版画はそもそも方向が違うが、徳力の場合はさらに徹底して大衆を向いていた。カラー印刷で何でも簡単かつ大量に複製出来てしまうと思っている向きからすれば、なぜわざわざ手摺りで1枚ずつ作る必要があるのかと思うだろうが、一度実物の木版画絵はがきを見るがよい。もったいなくて使うのが惜しい気がするほどで、そういう絵はがきをわざわざある人に送るところに人と人の心の通いがある。木版画はそういう意味で、何かダイレクトに人の心に訴えるものがある。手作りのものはすべてそう言ってよいが、木版画独特の温かみは、紙にむっくりした顔料が密着しているところに発している。それが鑑賞用の額絵ではなく、絵はがきというところに作者徳力の心意気がなおさら滲み出ている。もっとも、徳力は絵はがき専門では決してない。古版画の研究を生涯怠らず、寺社からの依頼仕事や企業からの注文など、多様な作品群が豊富にある。1972年には薬師寺の国宝の吉祥天像を、その風化して絹目や染みも見える状態のまま木版画で復元したが、約三百度摺りというから、わずかA3サイズほどの作品で費やされた時間と労力を思うと気が遠くなる。こうした職人に徹した仕事は、創作版画だけに関心がある作家ならばまず請け負わないし、技術的にも無理だろう。同じような仕事としては、これは当時新聞でも大いに紹介されたが、1990年に京都仁和寺の国宝「孔雀明王」を千三百度摺りによる復元があった。その実物が立派な掛軸に表装されて版画館に展示されていたが、もはや実物の国宝と区別がつきにくいものであるだろう。
 版画館の展示は若干の銅版画やリトグラフを含むようだが、ほとんどが徳力が研究のために収集した古今東西の木版画やそれにつながる作品だ。図録が作成されていないのが惜しいが、ここは木版画に関心のある人は一度は訪れるべき場所で、必ず意外な作品に出会うに違いない。筆者が特に面白く見たのは、珍しい牛玉(ごおう)の誓紙が何枚かまとまっていたことだ。有名な熊野大社のものはいいとして、おそらく今となっては入手出来ないものも混じっているだろう。浮世絵が何枚も飾ってあるその奥の壁にはポール・ジャクレーの1点があった。徳力がジャクレーの作品にまで目を配っていたのは当然としても、これにはいささか驚いた。横長の作品で、筆者が所有するジャクレーの2冊の図録には載っていない。徳力の趣味のひとつは美術骨董を収集することにあったそうだが、幅広いものを見て買い、手元に置くという行為を通じて自作の木版画を考えていたのだろう。このことは徳力の版画の本質を知るうえで無視出来ないが、古いものを実物で研究するという態度はまた京都という地に生涯住み、しかも代々続け家系でもあったから可能であった。中国の古い版画もいろいろとあって、かつて『若冲の拓版画』という本でも触れられた藍色の緻密な拓版画を見つけた時は、まるでお気に入りの芸能人にでも出会ったような気分になった。そうした古いものは、洋の東西を問わず名も残っていない人々が大量に作ったものであることが多いが、そうしたものに宿る民藝の言うところの健康美のようなものに徳力は強い関心を抱いたのではないだろうか。実際この版画館で面白いのは、有名版画家の作品ではない。無名の民衆が作ったようなものにかえって個性的で力強い印象がある。そのことから改めて徳力の版画を見ると、徳力が目指した芸術がわかる気がする。徳力の版画は当然京都を題材にしたものばかりではないが、それでも京都の風景や祭りなどを描く時、最も徳力らしいよさが出ているのではないだろうか。京都を題材にする京都の作家は、たとえば型染めでは伊砂久二雄、ローケツ染めでは皆川泰三、木版画ではクリフトン・カーフや井堂雅夫がすぐに思い浮かぶが、それぞれの作家が時代をそれなりによく表現している中、徳力の場合、画面から伝わる平明で清く透き通った感覚から、まだ京都が本当に京都らしかった戦前や戦後間もない頃を想起する。レトロ感覚と言うのではない。むしろあか抜けして今なお新しい汚れのなさだ。不安とか悲劇とか、そういうものからは遠い。講演の途中で嵐山に写生に出かけてそれを元に版画を彫って摺る徳力のドキュメンタリー映像が写し出された。そこにある徳力の姿は、いかにも良家育ちの穏やかな様子があったが、そういう人にしか生み出し得ない絵というものがある。最初に書いたチラシに印刷された「伏見人形を売る店」は、よく見ると、今なお作り続けられている種類の人形に混じって馬に乗る軍人がふたつ描かれているため、おそらく戦中かそれ以前の作品だが、筆者は伏見人形の笑みを見つめてそれを絵にした徳力の心に万感の思いで同調出来る気がする。賑やかそうでいて、実は全くさびしげなその絵は、表向きは型で量産する伏見人形と木版画の共通点に思いを馳せていながら、もっと奥では手作りでしか生みえないものに対する信頼、そして手を作ることにのみ生きる証があると信じていた徳力の寡黙さのようなものをよく示している。100歳近く生きて、9000点も作品を作ったとは、誰もがまねの出来ることではない。徳力の本当の評価は今後なされるだろう。
by uuuzen | 2007-01-09 23:12 | ●展覧会SOON評SO ON
●ヒシ(菱)のゆで方 >> << ●池を探しに

 最 新 の 投 稿
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?