●『没後25年 谷内六郎の軌跡展-その人と仕事-』
別長文週間も今日で終わり。思い出の曲について書こうとも考えたが、新年にあまりふさわしくない気がしてこの展覧会に決めた。去年12月17日に梅田の阪神百貨店で見た。



d0053294_1222248.jpgこの百貨店で展覧会を見るのは随分と久しぶりで、ひょっとすれば20年ぶりくらいかもしれない。展覧会はごくたまに開催するようだが、いつも筆者が見たいものではない。そのため、今回もほとんど期待していなかった。夜9時まで開場のはずで、当日は大阪市立美術館を見て食事した後でも充分に間に合うと考えていたが、地下鉄御堂筋線に乗って淀屋橋に来たあたりでチケットを確認すると、日曜日は8時までであることがわかった。時計を見るともう7時半、急いでかけつけても25分ほどしか見られない。それに30分前に入場口を締めるから、入れてもらえない恐れもある。また出直すにはもう日がない。大急ぎで駆けつけてどうにか入れてもらったが、25分程度では会場の雰囲気を感じて来ただけのことだ。それでも谷内の作品は昔2度ほど展覧会を見ているし、新潮文庫から出ている「谷内六郎展覧会」を5冊とも持っているので珍しくはない。だが、実際にざっと見たところ、いつになく充実した展示内容で感心した。チラシによると、250点ほどの出品とある。図録は買わなかったが、谷内の全貌がうまく紹介されていた。全4セクションの構成で、展示数はかなり多く、その気になれば2、3時間はたっぷり費やせる。今こうして書いていて最も印象に残っているのは、例の代表作となった『週刊新潮』の表紙絵だが、原画よりもむしろ1975年の実物の雑誌全点がガラス・ケースの中にずらりと並べられていて、それがとても美しかった。谷内の原画はたいてい水彩絵具で描かれるが、時に絵具に光沢があったり、またよくさまざまなものを貼りつけてコラージュしているので、それなりに立体感と呼んでいいものがあるが、これが一旦印刷されると、当然表面は凹凸がなくなり、言葉は変だが、かえって美しく見える。1点ものの本物の原画がよいに越したことはないが、印刷したものが別のもうひとつの本物に見えるから不思議だ。最初から印刷を目的として描くのであるから、谷内の仕事はグラフィック・デザインにほかならず、原画は版下であって、アラのような雑さがあったりする。印刷段階でそれらは見えないように処理することが出来るからだ。そう考えると、谷内の原画はわざわざ見るまでもなく、印刷されたもので充分と言える。それがわかっていたから、筆者はあまりこの展覧会を期待していなかった。
 1975年の50冊ほどの『週刊新潮』が、何だかちょっとした宝箱のようにとてもよいものに見えたのは、すでに30年ほどを経て、それなりの懐かしい古色を帯びていることと、あくまでも同じ版形、同じ本の題名ロゴといった制約としての定型の中において、自由に谷内が描きつつ、それらのモチーフが一貫して郷愁を誘う歳時記的なテーマに貫かれているからだ。谷内が死んで以降、『週刊新潮』の表紙が何人の原画家たちによって担当されたのか知らないが、今でも『週刊新潮』は谷内のイメージと分かち難く存在している。昭和の印象そのものであった谷内はもはや現在の週刊誌にはふさわしくないはずだが、それほどに谷内の作り上げた『週刊新潮』でのイメージは完成度が高いものであった。今ふと原田泰治の作品を思い浮かべたが、原田は谷内が登場しなければ出現しなかったかもしれない。また、原田の画面は谷内のように絵具やコラージュのデコボコした質感が皆無で、山下清の貼り絵とも違う。あくまでもアクリル絵具によるフラットなもので、それが時代の差と言えばそうなのだが、何だかあく抜きされているような、体臭のあまり感じられない物足りなさにつながっていると思えなくもない。印刷したものを見ても印象が変わらないという点においては、谷内より原田の作品の方がはるかにそう言えるが、そのことはグラフィック・デザイナーの範疇にある谷内のイラスト的仕事とは違って、どちらかと言えば本格的な画家を意識している原田にとってはあまりほめられたことではない。画家は描いた絵の表面のその最上部が命ではあっても、材質の質感が鑑賞の大きなポイントとしてもっと問われるから、その意味では原田の仕事はマチエールを何ら理解していない仕事とみなされるだろう。ひるがえって谷内はまだそういうことに関心が強くあったのではないか。それはまだアクリル絵具が万能の絵具のように大手を振って歩くはるか以前に谷内が世に出たことが大きい。即乾性のアクリル絵具は確かに便利だが、便利なものはそれだけ味気なく、何かを確実に失う。特に美に関する世界では、それは致命的な欠陥の原因になりやすい。当然そんな便利なものでしか表現出来ない世界はあるが、その便利なものは本来過去の不便さをカヴァーするために発明されるものであるから、それは今までになかった全くの新しい表現を紡ぎ出せる道具の側面を持つより、むしろ手抜きの効果にもっぱら目が行く。そして、時間はかかるが、そんなものを使わずとも過去の素材でも充分なのだ。だが新しい道具や素材の「お手軽さ」をあえて表現手法として用いる態度は当然あるから、アクリル絵具は今後もなくならない。今回は出品されていなかったが、谷内の作品に録音テープを画面の一部にクシャクシャとまとめて貼りつけたものがある。原田ならまずやらない手法だ。そのコラージュ具合は録音テープがもはや過去のものになりつつある現在、時代を濃密に封印した作品に思えるが、谷内がそれを作った時は、まだ録音テープは同時代的なものであったから、決して郷愁を喚起するために用いたのではなかったろう。にもかかわらず、谷内が使用した時点でそれは郷愁の世界に安住した。これはよほど谷内が自己の強い世界を持っていたことの証になる。
 セクション1は「画家 谷内六郎の誕生まで」と題して、初期の活動を紹介していた。これは『週刊新潮』の表紙絵しか知らない人にとっては貴重な展示だ。谷内は1921年、東京恵比寿の獣医学校寄宿舎経営の両親のもと、9人兄弟の六男として生まれた。間もなく世田谷の駒沢に一家は移住するが、谷内は幼児期に喘息を患った。田河水泡の漫画「のらくろ」に憧れて、雑誌の懸賞漫画に投稿を続け、終戦後は『民報』など、新聞や雑誌に4コマ漫画や風刺画を寄せる。本格的に活動し始めた時、数年間の入退院を繰り返すことになるが、その間に描きためた数百点が創刊まもない文藝春秋の漫画雑誌『漫画読本』に大々的に採り上げられ、1955年6月に第1回「文藝春秋漫画賞」を受賞する。ここから活躍が始まった。今回会場に入ってすぐ正面に、巻物のような横長の汽車を描いた作品があったが、これは1964年の吉永小百合主演の日活映画『風は樹と空と』のタイトル画として用いられた。ちょうどビートルズが日本で紹介された頃に当たるが、当時のTVをよく知る人は、「週刊新潮は明日発売です」という声とともに、谷内のイラストが画面に静止して現われた短いコマーシャルをよく記憶しているに違いない。谷内は戦後日本の最もよい時代とともに活躍したが、当時からして懐かしさを誘う絵を描いていたことを改めて考えてみるべきだろう。谷口は本格的に活躍した時代よりもっと昔、つまり戦前の頃の日本を理想としていたかもしれない。もしそうなら、有名になってお金が儲かるといったこととは違う、とにかく自分が好きなものを好きに描ければそれでよいと思っていたことになるが、そのことが谷内の作品をきわめて純真なものに仕立て上げていると思える。そして、60年代はまだしも、谷内のとっての最晩年である1980年頃は、ひょっとすれば懐かしさを表現する陰で悲しみの思いを強くしていたかもしれない。戦前の日本がますます遠くなるからだ。その意味で、谷内の仕事は活躍し始めた頃にすでに完成し、後の四半世紀は同じことを繰り返し続けたとも言える。『週刊新潮』の表紙絵にしても、出来ばえにばらつきがなく、どれをとってみても一定のレベルにある。何か数点大きな代表作というもがないのだ。それが悪いというのではない。偉大なマンネリは誰にでも出来ることでは決してない。そこには腹を括った覚悟が必要だ。
 戦後まもない頃、谷口家の長男の一郎は、型染めでカバンを製作して販売した。これが飛躍的に売れたため、弟たちは手伝うことになり、1949年頃、四男の四郎(この生まれ順序にしたがった命名はあまりにも安易で、今なら考えられないことだ)を中心に兄弟で「らくだ工房」というローケツ染め工房を設立した。谷内もその一員として働き、ハンカチや風呂敷に絵を染め、デパートでの実演もした。1950年に描かれた「上馬 染物むしの間」と題する、墨1色で碁を指す男ふたりを描いた素描作品があった。染めたものは染料の定着のために1時間ほど蒸し釜の中に吊るして蒸気を当てる必要があるが、その待ち時間に碁をしているわけだ。両者はらくだ工房とは馴染みの職人だったのだろう。いかにものんびりした時代の様子が出ている。顔や仕種の特徴がやや誇張され、どこかゲオルゲ・グロッスの風刺画を思わせるタッチがあるが、おそらく谷内はそうした海外の作品をさまざま見ながら、独自の画風のあり方を模索したことだろう。ローケツ染めを経験したことは谷内にとっては誰もまねの出来ないひとつの表現手段となり、その後、『週刊新潮』の表紙絵を初め、本の装丁などによく使用された。今回もそうした作品がいくつか出ていたが、ローケツ特有のローのひび割れに染料が浸透する効果をうまく用いていて、懐かしさがさらに強まっていた。また、その技術は現在のローケツ染めのプロ作家から見れば決して上手なものではない。ごく初歩的な仕事で、まずい箇所を顔料で修正するなど、荒い仕事振りが目立つ。その点は緻密で完璧な仕事を目指す原田であればまず許せないものであろう。しかし、そうして染めたものはあくまでも絵具で描く原画と同じ、印刷に必要な版下であって、結局はそれを写真撮影して使用すれば、修正箇所もあまりわからなくなる。マチエールに関心があった谷内であっても、最終的にはそれはほとんど見えない形で人々に供された。それだからこそ、逆にマチエールにこだわったとも言える。ローケツ染めは制約が多い仕事であるから、色数をごく限る場合にはいいが、『週刊新潮』にあるように、割合カラフルである水彩画の世界をそのままローケツで表現することは無理だ。そのため、ローケツは手描きでは表現出来ない偶然の面白い模様効果として、絵の背景にもっぱら使用された。また、谷内がローケツ染めをよく使用したのは、粗目の生地に染色を施すと、紙に水彩で描くのとは違って生地の織り目が特殊な効果として利用出来るからでもある。印刷されたものにマチエールもないが、谷内はとにかく絵に水彩以外のさまざまな質感を用いたかったことは確かだ。イラストレーターの仕事であっても、単に筆と絵具で描くこと以外に、純粋絵画の世界で行なわれていた流行や実験的手法に強い関心を抱いていたのだろう。そこが現在のマンガ家とはかなり違う点ではないだろうか。
 セクション2は「『週刊新潮』の表紙絵」だ。1955年暮れ、マスコミの注目を集めていた谷内は、翌年創刊予定の『週刊新潮』の編集者から小説の挿絵を以来される。完成したそれは大好評で、今度は表紙絵もという話になった。そして創刊号は発売と同時に評判になり、行李いっぱいの手紙が届いた。創刊号以降、谷内は1300点を描いた。1956年2月に発売された創刊号は、房総を走る汽車がモチーフになっているが、これはその後も繰り返し登場する。谷内は引っ込み思案で出不精であったが、編集者に誘われたり、取材をかねての家族旅行をよくし、北海道、東北、北陸、伊豆に行った。関西にはあまり縁がなかったようだが、谷内の作風からして、暖かい地方や、騒々しい印象のところよりも、鄙びて寒い地方の田舎を好んだように思える。これは谷内が東京生まれであることも影響しているだろう。東京人にとって関西は東北以北より縁遠く、興味もあまり持てないのではないだろうか。『週刊新潮』の表紙絵の題材はほとんどが子どもが主人公になっていて、谷内のイメージを形成している。また描く人物は目鼻口がしっかり描かれ、しかも大きく目立つ。これは風景中心で、常に人物を小さく点景として置き、目鼻口を描かない原田の絵とは大きく異なる。谷内の絵の子どもたちからあの目や鼻、口を取り去れば、全く面白くないものになるだろう。子どもは人物を描く時、必ず目鼻を描くが、その意味からすれば、谷内は子ども心を失わなかった。セクション3は「谷内六郎の多彩な仕事」で、まずこの最後にあったコーナーに触れておく。谷内は1971年に広島県呉市立広中央中学校にあった養護学級を訪れ、そこで埴輪を見て感銘を受けた。生徒たちの上京費用を工面して東京国立博物館などを案内し、73年には東京で生徒たちの作品の展覧会を実現した。これは美智子妃、浩宮の見学を得て大成功となり、ドキュメンタリー映画『太陽の詩』が撮影された。谷内が手がけたそのポスターには、同時上映された『二十四の瞳』の白黒写真もはめ込まれていたのが印象的であった。谷内はまたねむの木学園の児童たちの絵を奇跡の絵画と評し、やはり援助、紹介を惜しまなかった。こうしたつながりは、山下清の大人気と合わせて、日本には日本独自の素朴派の系譜があると言うべきだろう。
 セクション3の前半は、『週刊新潮』以外の小説の挿絵や、企業からの注文仕事が紹介された。北杜夫の文章に添える挿絵仕事は、1965年の『オール讀物』連載のユーモア小説「怪盗ジバゴ」から始まっていて、以降数冊の本の装丁や挿絵を手がけた。大阪在住の石濱恒夫(1923-2004)との仕事「メルヘン動物園」(1977)は、谷内が物語の元となる原画を提供し、石濱が脚本を書いたもので、墨1色のイラストであるだけに、また一風変わった味わいがある。石濱との交流は1957年の大阪のラジオ局の仕事によって始まったが、このことからは谷内が関西にも縁があって来ていたことがわかる。谷内は本の装丁においても独自のいい仕事をし、小説、ドキュメンタリー、旅行の本など100点を越す。それらがずらりと並べられだ様子はなかなか見物であった。また、銀行、証券会社、放送局からの依頼、百貨店の広報誌、カレンダー、絵はがき、演劇のポスターやパンフレットといったように、あらゆる印刷物に谷内の絵は使用された。ポスター類は消耗品のため、もうほとんど見る機会がなく、今回の展示を見ていると、もともと懐かしいイメージのイラストがさらにその懐かしさが増幅されて、前述した1975年の『週刊新潮』全冊と同じような美術骨董的価値と言ってよいオーラを生んでいる気さえした。広報誌ではたとえば「すこやかファミリー」(1979-1981)があったが、この題名からしてもうそうとう古い印象がある。イーゼル・ペイント、フランス・ベッドなど、昔鳴らした企業名も見えていたが、企業と谷内の名前のどちらが長く歴史に残るかと言えば、おそらく後者のはずで、そう思えば企業は才能ある人物に仕事を依頼しておくべきだ。セクシン4は「家庭人・谷内六郎の素顔」として私生活の一端を紹介していた。結婚は1958年、36歳の時で、相手は女性ファンのひとりであった人形作家の熊谷達子であった。1962年に長女、その4年後に長男が生まれている。谷内の顔や姿はよく紹介されているが、改めて写真を見ると、59歳で亡くなったことが理解出来るような華奢な様子が伝わる。だが、『週刊新潮』の表紙絵を25年間、1号も休むことなく続けたことからは、大変な粘りのある根性がわかる。大正生まれの凄さというべきもので、昭和ではやはりかなわないか。最後に新潮文庫「谷内六郎展覧会」の1冊から正月に因んだページを。「初荷」という題がついていて、文章も谷内で、手仕事をする人がいくら有名になっても金が儲からない理由をかなり痛烈に書いている。風刺の精神が絵ではなく、文章でしっかりと生かされていたことがわかる。
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by uuuzen | 2007-01-03 12:03 | ●展覧会SOON評SO ON | Comments(0)


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