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●巨大な中古レコード店と戦争孤児
文用に何を書けばいいか常に考えていて、いくつかの候補がある。取り上げていない展覧会はたまる一方であるし、ほかのカテゴリーにも書きたいことはある。それでも書く寸前になるまで決まらない。今回もそうだ。



●巨大な中古レコード店と戦争孤児_d0053294_2253441.jpg今朝目覚めた時に「今日はこれにしよう」と即座に決めた。おおげさに言えば天啓だ。またそうとも思わない限り、今日の内容はアホらしくて書いてもいられない。実は14日の夜に体調を壊した。原因がわからない。風邪ではなさそうだ。ちょうどその日先月近くの小学校で受診した50歳以上を対象にした市民検診の結果が封書で届いたばかりで、それを見ると相変わらず「要医療」の項目がひとつふたつあるが、毎年のことなのであまり気にしていない。大体は運動不足によるものだ。そう言えば、先日大きな銭湯に行った時、体重を計ると63kgあった。25年前より12kgは太った。若い頃の筆者はガリガリに痩せ細っていたので、これでちょうどいい加減と思うが、中年太りはやはり格好よくないく、下腹をなるべく見ないようにしている。それに歳が行ってから病気をすると、あまりに体重が少ないと危ないと言う。若い頃の肌に張りがある場合とは違って、中年以降はどうしても弛みも出て来るから、若い頃と同じ体重だと、とても貧相に見える。芸能人でも無理して痩せ状態を維持しているのがよくいるが、頬のこけた様子を見ると格好いいよりも哀れさを催す。だが、太り過ぎも不細工な話で、でっぷりとした腹を突き出して歩いている中年親父を見ると、何も考えていない様子がそのまま姿に出ているように感じてしまう。それはそれでもいいのだが、地球上にはもうちょっと食べられない人々がいることを想像した方がいい。これは正直な話だが、筆者は食べ物の好き嫌いは全くなく、何でも食べるうえ、粗食で一向にかまわない方だ。食事を前にして、満腹に食べられる状態にあることを心の中で神に涙で感謝する時が最近は特によくある。そんな満腹状態にいられる資格が自分にはあるとは到底思えないほどに自分のことを小さな存在だと思っていると書けば嘘になるが、そういう気持ちはかなりあるのは確実だ。であるのにこうして太ってしまったのは偽善的以外の何ものでもないようだが、ま、人はそういうふうに出来ている。また思わぬ方向に話が進んだ。そう、体調を壊して寝込んだのだった。尿が赤く、腎臓がおかしくなったのかもしれない。お粥の食事が丸1日続き、そしてその後もずっと大半は何もせず安静に寝ていたが、3日経った今日はかなり回復したものの、まだ尿がおかしく、激しい痛みがある。思い当たることが何もないのが不気味で、同じ状態が明日、あさって頃まで続けば病院に行くつもりでいる。とにかく医者は大嫌い、薬も嫌いで、寝ることだけで病気を克服しようと思って来たが、おかしい状態が長引くとさすが心配だ。そんな体調不良の中、今朝は久しぶりに鮮明な夢を見た。あまりにもはっきりとしていたので、目覚めた途端にすぐに階下に行ってメモ用とボールペンを取って来た。ふとんの中にもぐり込んで暗い中で記憶をたどって要点を走り書きしたが、裏表びっしりの量になった。そうして書いたので、12時間以上経った今、それを見なくてもここでは夢の内容を明確に書くことが出来る。字に置き換えることで記憶が固定化されるのだ。筆者の夢はいつもよく似ているが、そのことで筆者の性格を誰かが的確に判断してくれることもあるだろう。そんなことを期待してここに披露するわけではないが、目覚めた途端に「これは書いておこう」と思った気持ちを大切にしたい。
●巨大な中古レコード店と戦争孤児_d0053294_12521537.jpg
大阪か京都の繁華街のとある老舗の古本屋が、近日中に東大阪市に移転するという。そのため販売業務は数日休むとのことだ。筆者はその店の主とは少しは顔見知りなのだ。そして筆者は東大阪市にオープンするその店の内部にいる。古本屋だというのに扱っているのはLPレコードだ。しかもそれが尋常な数ではない。筆者の周囲に見えているのは数万枚といったところだが、部屋はいくつもある。内部の部屋や通路が迷路のように入り組んだ大きな古いビル全体が店なのだ。そしてどの壁面や床下にもレコードが収まっていることを知っている。コンクリートや鉄筋はごくわずかで、ほとんどがレコードで出来ているのだ。しかし、驚くのはそのことではなく、それらがみなジャンル毎、アルファベット順に、店の方針によって整然と分類されている。ただし、中古であるので、あるべき盤がなかったり、また同じ盤が何枚もあったりする。それでも順序だけは正しいので、目的のものは即座にどこにあるかわかる仕組みとなっている。いや、そう書くのはまだ早いかもしれない。店はまだオープンしておらず、搬入や整理に今しばらく時間がかかるからだ。その整理の時間帯に筆者は店内を訪れているのだ。主だろうか、痩せた長身の男が筆者の斜め右前に立って床にLPレコードを仕舞い込んでいる。その部屋は板張りの床だ。古い床で、安普請もあって、少したわみもあり、また汚れもところどころ目立つ。それでも一応はきれいに掃除した様子だ。その床中央に幅30センチほど、長さ3メートルほどの細長い穴が開けられている。穴の両端からは黒いスチールの柱が天井に向かって垂直に突き出ていて、そこにまたスチールの凹型の横板を直角方向、つまり水平に嵌め込み、その凹み部分にLPレコードの10枚程度の束を差し込む。そして同じように束を長さ方向に等間隔に5つ並べるのだ。間隔毎に別にストッパーがあって、それでLPの束が動かないように出来る。そうして5束並べ終わると、その上にまた凹型の横板を差しわたしてさきほどと同じ作業を繰り返す。ただし、そのまま横板を被せると、LPレコードのジャケットが傷つくので、LPの5束の列全体を覆うのに充分な長さの厚手の透明ビニールを被せる。だが、筆者は思う。そうしてもLPジャケットにはわずかに大小があり、そのうえに乗せられる新たなスチールはその下のLP全体が支えるのではなく、わずかに出っ張ったLPに当たってしまう。その点はどう解消しているのだろうと不思議に思うが、主はどうせ中古品であるしといった顔つきでてきぱきと作業を進める。
 主の作業中に筆者は床に開けられた穴を覗くが、中は真っ暗でとても深い。主が言う。「危ないよ。深さ30メートルほどあるし、落ちたらいろんなものに引っかかって体はズタズタになってしまう…」。筆者はそんな危険なところで作業していることの心配より、あまりにもLPの収蔵量が膨大なことに驚く。しかもそれらは整然と分類されているのだ。作業が終わった主は、収納を完遂させるためにスイッチを入れた。すると床下にすっかり収まった100段近いLPの束の棚が板床下の空洞の中でゆっくりぐるりと1回転し、覆っていたビニールが反対方向に垂れて、どういう仕組みかLPのジャケットが裸で見えるようになっているようなのだ。その構造を想像してみるが、どうも理解出来ない仕組みだ。そして主は次に床を板で塞いだが、切り取ったままのものが完璧にぴたりと嵌まるのではなく、穴の両端が5センチほど隙間が出来た状態で収まった。それに蓋板の両端はその隙間の底に向かって熱で溶けたように少し撓んでいる。板の厚みは1センチほどしかなく、鋸で切った白さが板表面の汚れと対照的だ。それに荒い目の鋸で切ったため、縁がささくれ立っている。主は言う。「LPの束の収納は各段毎に数パーセントの空きを作ってあって、買い取りしたものを補充する時に即座に対応出来るんだ。けど心配は虫の発生だな。この床下はきれいに掃除はしたけど、蓋を嵌めた両端の隙間から虫が中に入って、手垢で汚れたLPの紙に卵を産みつけるのは時間の問題だろうな。だから、毎日棚全体をまた引っ張り上げて内部の空気を巡回させる必要がある」。
 次に筆者は別の部屋に移動する。まだ開店していないこともあって、そこには誰もいない。だが、蛍光灯はつけられているのでとても明るい。殺風景な感じの大きな部屋だが、天井が5メートルほどもあって、壁面は天井に届くまでどこもびっしりと隙間なくLPジャケットで飾られている。アメリカの50年代の女性ヴォーカルのLPばかりだ。同じものが何枚か目につく。またヒット曲集の月並みな安物が目立ち、骨董的価値は低いようだ。隣の部屋に行こうとすると、開け放たれた出入口両側の縦長の細い壁面にもびっしりと床から天井までジャケットが飾られているが、左手は出入口に接して縦1列だけマザーズのものだ。そこはその部屋の一番上等の特別の場所であることがわかる。出入りする誰にもすぐに目に触れるからだ。マザーズのLPはどれも実際に発売されたものとはデザインが異なっていて、いかにも50年代風のデザインだ。マザーズがすでに遠い歴史の中にある存在であることを思う。そう言えばその部屋は全体がオールディズのLPで占められていたが、店長にすればマザーズも同類なのだ。だが、10数枚ではストックがお粗末だ。それほど50年代のマザーズの、発売されたことのないジャケットのLPは貴重盤ということか。ふと前を見ると若い女性がいて、こちらに入って来た。擦れ違いざまに彼女に声をかけた。「ここに珍しいマザーズのLPがありますよ」「へぇー、これ、そうですか。店長さん、ここに珍しいマザーズのLPがありますよね。すっごい!」。筆者は内心『意味がわかってるのか?』と思う。次にまた別の部屋に来ている。暗い。重厚感がある。今度は、LPは背中しか見えないように壁に嵌まって収まっている。3メートル程度の幅だ。同じく天井までびっしりと見えるが、数千枚はみなシカゴのものだ。つまり、シカゴのために特別に作られた専用の展示壁なのだ。見たことのないボックス入りのものが何点もあって、それらだけは特別専用の個別棚にすっぽり収めるれている。とはいえ、棚は壁から出っ張っているのではない。壁に穿たれた穴にケースが収まっていて、そこにきちんと入っているのだ。このボックス・セットのLPは他の通常のLPとは横段列は同一になっていて、ただ間隔が10センチほど開けられている。もちろんその間隔は壁面だ。壁全面を全部開けてしまって大きなひとつの棚を収容し、そこにびっしりと並べればもっとたくさん入るのに、そうはせず、LPのあるこだわりの分類毎に壁に穴を開け、そこにぴたりと収まる棚を設えた後にLPを収納しているのだから、中古店らしからぬ展示方法だ。この店は売るつもりがあるのだろうか。あるいはさきほどの膨大な収蔵があるので、売れた後には即座に充填が利くため、凝った展示をしているのかもしれない。それでも筆者は不安になる。これだけ収蔵数があれば、毎日商品の移動だけでとんでもない時間を要するだろう。それにこれだけの商品をたった数日で完璧にしかるべき場所に収めるためには、どれほどの段ボール箱やトラック、それに何よりも計画が練られたことだろうと思う。それもたった数人でやっているようなのだ。
●巨大な中古レコード店と戦争孤児_d0053294_2253453.jpg いきなり場面が変わる。店の外を歩いている。昔よく大事にしてもらった上司の次長さんが出て来た。筆者の右手にいる。「戦争時分はこんなもんではなかったよ」「えっ、中国でですか」「ふむ」。上司の背後に白黒の風景が見える。日本か戦前の台湾か、とにかく日本の田舎の家屋がいくつか遠くに並んでいるが、その上空にゼロ戦が数機飛来して地上のどこかを爆撃している。誰の攻撃を受けたのかわからないが、家並みのずっと奥で黒い煙がもうもうとあがっている。空襲のようだ。だが、それは昔の歴史的映像がスクリーンに映し出されているようにも見えて現実感がない。そうしてるうちに家並みのうち数軒の屋根がぐらりと崩れ落ちた。だが、遠方でのことのようで危機感はない。逃げ惑う人々の姿も悲鳴も聞こえない。左手を見るとずっと遠くまで一直線のさびしい何もない田舎道が続いている。あまりにも遠くまで続いて、そこをこれから行くと思うと疲れを覚える。風景は白黒で見えている。急に遠くから白い煙を上げてジープや軍用車が数台やって来るのがわかる。猛スピードのため、すぐに筆者の左手までやって来た。ヒトラーたちの軍隊だ。だが、危機感は感じない。みな立ち去った後、最後の1台が停まった。3、4人の軍人が下りて来た。映画でよく見るナチの兵士だ。革の長靴の艶が不気味に光って見える。兵士たちは数人でみすぼらしい日本の戦前の子どもたちを取り囲む。子どもたちはいかにも戦災に遇った出で立ちだ。キモノはみなぼろぼろ、顔は煤だらけ。悲しい顔をしている。そんな子どもにナチは口早く質問を浴びせた。『何を見たのだ?』と言っているのだが、子どもたちはドイツ語を理解するはずもなく、黙りこくっているが、もっとも長身の、5、6歳の男子がにやけながら、「ニーダー、ゼーエン、ニーダー、ゼーエン…」と2、3度ゆっくり静かにたどたどしく繰り返す。「nieder sehen」はどうやら「niemand sehen(誰も見ない)」の間違いらしいが、どうにか兵士には通じたようだ。あるいは「さようなら」の「アウフヴィーダーゼーエン(auf Wiedersehen)」と思ったのかもしれない。兵士たちが去った後、男子は筆者の顔を同じようににやにやしながら見つめる。白痴なのだ。だが、その白痴がみなを救った。
 洒落た雰囲気の古本屋の店内にいる。さきほど出て来たLPレコード店のビルの中の別の一角のようだ。そうか、LPも本も扱っているのだな。それにしても何という巨大な店だろう。本もみなしかるべき場所にしかるべき状態で展示されている。筆者はいつの間にか円卓がある部屋にいる。そこには絵はがきがたくさん展示してあるが、どれもドイツの有名な科学者やら有名知識人かちが旅先から出したもので、太い万年筆の青い文字が数行書いたものがほとんどだ。よく見ると、はがきは差出人毎に分類してあったようで、名前を記した名刺サイズの白い紙がすぐそばに置いてあった。だが、風か何かのためにぐちゃぐちゃに混ざりかけている。名前を書き込んだ紙は印刷のものもあれば手書きのものもあるが、印刷したものはフーツラの美しい書体で絵はがきの時代とぴたりと合っている。1枚ずつ名前を確認するが、みなドイツ人、あるいはポーランド系の人物の名前で、ひとりも知った名前がない。世界は広いなと思う。絵はがきはひとり当たり10数枚の者から1枚の者まだあったが、どうにか絵はがきと名前カードを一致させて並べ替え、そこそこ見栄えのよい状態にした。それにしてもこういう貴重な資料を裸で展示していると、黙って誰かに持って行かれないのかなと心配になる。古書店とはいえ、なかなか見上げたところがあると思う。円卓の右手には別のテーブルがあって、仮製本された本のカタログのようなものが何か所か十数冊ずつ積まれていた。それぞれの重なりは、緑や紫など、表紙の色で区別され、内容がわかるようになっているが、1冊適当に手に取って中を見ると、カラー刷りの豪華さだ。クレーやその他20世紀同時代のドイツの建築家までを含む作家の今までの重要書籍を短く紹介している。みなドイツ語だが、たまに日本語が混じる。だが、ドイツで印刷したため、書体が不自然だ。翻訳もうまくない。それでも本の表紙図版を順に眺めているだけも楽しいし、よく見ると全く知らない画家の紹介もあって資料的価値はありそうだ。同じ本がたくさんあるところを見ると、どうも無料のようだが、そう書いてはいないので勝手に持って行くことは出来ない。これはめったにないものなので、ネット・オークションではそこそこの値で売れるかなとかも思っている。
 その机のすぐ右手に向いて進むと、洋書の棚が立ちはだかっている。幅4メートルほどだ。その中央に立って目の高さの棚のずっと右端をまず見る。分厚い本が何冊かある。その向こう下に階下の様子が見えるが、そこも店内で本が売られている。客が何人かいるようだ。何となくいいコーヒーの匂いが漂って来そうな雰囲気だ。だが、筆者が見つめる本棚のその右端は少し位置がおかしい。その本棚全体とは直角方向、つまり筆者の右手には本棚がずっと占めている。それはちょうどT字型を思えばよい。Tの水平画部分が幅4メートルの本棚だ。逆L字からははみ出した部分であるTの水平画右端に分厚い本がたくさんあって、それらがすぐに階下を見下ろせる空間までせり出しているのだが、何かの拍子に本が下に落下すれば、下にいる客におおけがを負わせる。そう思っていると、背後からエプロン姿の30代の女性が声をかけた。「あの、それっ設計ミスですね」。申し訳なさそうな表情だ。それには答えず、またその出っ張り部分の分厚い本を眺めた。すると本は1冊ずつ独立した透明ファイルつきの受け皿にぴったりと嵌まっている。そのため、本が倒れて階下に落下する心配はないのだ。本幅の受け皿は立てた本の奥、つまり壁面に接続した垂直軸によって、左右にくるくる回転出来るようになっていて、本の背は180度自在に向きを変えられる。そのため、本来なら本棚中央に立つ筆者からは、その右端の本は背部分が真正面には見えないはずなのに、本棚左右の本の背はみな筆者に向かって正面を向いて立っていてくれるため、とても見やすく、また手に取りやすい。しかし、こうも思う。もし筆者が右端に移動した時はかえってこれでは不便だな。だが、そうではない。右端に行くと自動的にセンサーが察知して本の背は相変わらず筆者に真正面を向けるのだ。つまり、上空から見ると、筆者を要として、本は扇のように絶えず放射状に広がって並ぶ。買い手を主人、本が忠誠な臣下に見立てた新工夫なのだ。
 右端の分厚い本はバッハの音楽の研究書だ。その付近の同類の分厚い本もみなドイツ音楽の歴史や技法分析書のようだ。今度は左に移動してみる。すると背後からまた同じ女性が声をかける。「あの、そこの棚は完全に駄目です」。よく見ると、回転軸つきの本を差し込む受け皿の透明ファイルの左端十数個分が、その棚の段高さには嵌まらないはずの大きいものになっている。当然本は収納されておらず、壁面奥でスルメのようにぺしゃりと横に重ねたまま、本棚の長い横棚板をボルトで取りつけたらしく、完全に意味をなさない状態になって、上の段にはみ出ている。これを正常に動く状態にするには、棚板上の本を全部下ろし、棚板を外して回転軸つきの本収納受け皿も外し、正しい寸法のものに交換しなければならない。ファイルの大きさは受け皿とも関係しているため、受け皿だけ交換するわけには行かないのだ。慌てて移転準備をしたため、こういう設置ミスが生じたようだ。女性は早速黒や緑、紫のビロードで装丁された重たい本を下ろし始めた。だが、すぐに途方に暮れる。なぜなら、店内の数億冊もある蔵書の位置は全部しかるべき場所にかっちりと決められているのに、そうしたミスがあれば数十冊がずれることになる。その数十冊のずれを修正するには店中の本を少しずつ移動する必要があるのだ。誰がそれをするのか。また時間はどれほどかかることだろう。筆者はまじまじと、まだ外されない空の、そしてぺしゃりと均等にずれて重なって見えている壁にへばりついた透明ファイルの束を見た。白濁色のそれは壁のベージュ色を鈍く透かしているが、近づく筆者に反応して黒い棚板にしっかりと拘束されながら、まるで動物のようにパタパタと正面を向こうともがき始めた。そのファイルの端のひらひらする様子を見ながら、このことをブログにどのようして説明すれば様子がよく伝わるだろうかと深刻に考える。次の瞬間、本棚右端から垣間見える階下で無料コンサートがえることを知る。だが、それを聴くためには店内のLP最低1枚を買う必要がある。だが、そんなけちなことをしていては、こんな東大阪の中古店に誰もやっては来ないだろう。そこは太っ腹を見せて主は無料で毎日開催すべきだと思う。そこで目が覚めた。

by uuuzen | 2006-10-17 22:54 | ●【夢千夜(むちや)日記】
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