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●『生誕120年 富本憲吉展』
様から模様を造らずという富本憲吉の言葉を初めて知ったのはいつだったろうか。手元にある展覧会図録は1979年に大阪で開催された時に買ったものだが、筆者はそれより以前、20歳を越えて少し経った頃に富本の作品や、この有名な言葉は知っていた。



●『生誕120年 富本憲吉展』_d0053294_0314086.jpgその後筆者は染色の道に進んで今に至っているが、自分なりの模様を生み出す時、つまり常にこの富本の言葉が脳裏にあり続けている。だが、それは富本の考えに賛同しつつも、どこか富本の創出した模様に批判的な思いもあってのことだ。そんなわだかまりが芽生えたのは、先に書いた展覧会を見た直後だったと思う。となると、富本の作品を自分なりに値踏みしてもう30年近く経った。その間、富本の作品をまとめて見る機会が何度かありながら、ほとんど熱心に見た記憶はない。今数えて驚いたが、手元に79年展以降の富本展のチラシが10種ほどある。これは陶芸家としては異常な人気を示している。それだけ富本の創作には汲めども尽きない魅力があるからなのか、あるいは展覧会を開催しやすいほどに作品が集められやすいかであろう。つい数か月前は奈良県立美術館でも開催されたし、東京では目下『富本憲吉ののデザイン空間』と題する展覧会が開催中で、これは陶芸家としてではなく、それ以前に建築家を目指していた時期に光を当てている。生誕120年を迎えて改めて富本の仕事の豊富さに注目が集まっていることを示し、正真正銘の芸術家としての評価がさらに強固になりつつあることを認識させる。だいたい生誕120年展が開催されるような作家は数が少ない。生前に確固たる人気を築いていても、没後に急速に忘れ去られる人は少なくない。そして、富本がこうした高い人気を得ている理由を考えた場合、最も単純で覚えやすい一単位としての独自の文様を作り出したからではないかと思える。つまり、富本を一瞬で想起させる記号だ。だが、このことはグラフィック・デザイナーが机のうえで日々さまざまなロゴ・マークを作り出すこととはかなり次元が違う。ロゴ・マークも確かに記号だが、富本のそれは手で作り上げた器の表面に存在しているため、どっしりとした安定感がある。生活感と言い換えてもよい。机上の空論的なものではなく、富本自身の物としての芸術の品と不即不離の関係にあって、模様を思い出すことは、手技になる器のすべての味わいを思い起こすことに等しい。
 先に書いたように、富本の展覧会は毎年のようにあるので、今回もほとんど関心がなく、行くつもりはなかった。だが、天気がよくてついでもあったので、最終日に気乗りしないまま出かけた。結果を言えば、79年展は百貨店での開催でもあって、出品作が充実していなかったかもしれない。今回のように、国立近代美術館で、しかも生誕120年を記念してとなると、その点は申し分のない周到さが図られたはずで、実際そのとおりであった。富本の全貌を知るにはまたとない機会で、今後同様の規模のものが開催されるのは2、30年先になるだろう。確かに見慣れた作品が多かったが、そうした作品行為の背景がよく見えて面白かった。それは簡単に言えば、生誕から120年経ったことによる歴史的視野が確立したゆえだ。存命中、あるいは没後直後であれば、妙な生々しさが作品にまとわりついているが、富本の場合、それらがすっかり抜け落ちて、昔の作家という思いで安心して見られる。これは過去のどうでもよい人という意味ではない。ひとつの規範、古典となった立派な作品という賞賛だ。今こうして書いていて鮮烈に蘇るのは、富本の生まれ故郷奈良生駒群安堵村で撮影された1本の古木だ。富本はそれを写生し、そのまま自作の染付けに簡単な一模様として描いているが、文人画的なタッチのその絵は、風景を模様として昇華させる手並みを見事に証明し、後の近藤悠三の同じ染付けに大きな影響を与えたのではないかと思える。それはいいとして、古ぼけたモノクロ写真に写る古木はまるで中国の寒村にぽつんと孤立する枯れ木そのものといったさびしさがあって、今から100年前の生駒が江戸時代とほとんど変わっていなかったであろうことを思わせる。当然、今でも同じようにぽつんと大きな枯れ木が立つ場所などいくらでもあろうが、おそらく富本が写したその写真は、わざわざ珍しいものを探して撮ったいう感じを抱かせず、枯れ木の周囲に漂っている孤独な空気があたり一面、地区全体、あるいは奈良や日本すべてを覆っていたものであることを思わせる。つまり、そんなところから富本は出現し、後年あれだけ華麗な陶磁器な次々と作って行ったわけで、富本の生涯がそのまま日本のこの1世紀とぴたりとだぶる。喪失したものも大きいが、得たものもあった。どちらが大きかったのか誰にもわからないが、富本の芸術が生まれたことだけでもこの1世紀の日本の歴史はそれなりに大きな意味があった。
 「染付け」で話をつなぐと、富本が生んだ代表的な風景文様は「竹林満月」だ。これは当初は「三ツ倉と満月」と富本は呼んでいた。故郷の奈良で実際に見た風景で、蔵が3つ並ぶ隣に竹林があり、空には満月が出ていたそうだ。富本は夜に散歩しながらその景色を心にとめた。先の古木と同じことで、実際の自分の感動がもとにあって自作の模様が作り上げられている。これは口で言うのは簡単だが、長い年月を要する。模様は写生ではなく、繰り返し描くことがようやく手慣れて出来上がるからだ。また、長い年月とは富本の生涯の意味ではない。さらに長い年月だ。「三ツ倉と満月」という情緒ある光景がまず存在し、それに富本が出会って感銘を受けたのであるから、偉大なのは「三ツ倉と満月」という光景を用意した自然であり、そのことが人に感銘を与えるという感性を持つ文化を育んだ風土だ。富本の作品を見ていて筆者がうらやましいと感じるのは実にそのことだ。富本の父は田能村竹田を好むような文人趣味のあった人だったが、これも影響としては大きい。古木が大地にしっかりと根を張っているのと同様、富本の仕事もそうした時代や家庭環境などすべてを包み込んだ古き日本の伝統とつながっていて、見事に時代を体現し続けた。後世の人は今よりなおのこと、富本の作品の変遷を見るだけで、19世紀末から20世紀半ばにかけての日本がどういう状態にあったか理解するだろう。そこには、繰り返すが、喪失と創出の攻防が見られる。「三ツ倉と満月」は富本は半世紀にわたって題材として取り上げ続けたが、いつの間にか「竹林満月」という題名になった。その方が詩的かつわかりやすいからでいいが、富本自身が回想しているように、奈良のその場所は蔵が徐々に減り、ついにはひとつになったようだ。おそらく現在ではもう蔵も竹林もなく、洒落たような欧米風の安普請家屋のうえに満月が上がっていることだろう。富本自身はそうした光景が日本全土を覆い尽くすことは知っていたと思う。それを考えると、富本の後半生の仕事は古い伝統を墨守する思いが勝った、後ろ向きのものであったと言えなくないかもしれない。だが、であるにしても、それは富本の責任という問題ではない。生駒群安堵村という田舎で生まれた富本は、時代の変遷を見つめつつも、常に故郷の懐かしい、今はない光景に思いを馳せていたとしてもそれは仕方のない話だ。
 だが、ここで筆者がかつて感じた思いが頭をもたげる。模様から模様を作ってはならないと考え、次々と新しい独自の模様を自作に表現し続けた富本だが、それが単純な記号的なものに化するほどに、繰り返し行為すなわち模倣に陥らざるを得なかった。いや、ある程度量産する定めにある焼きものの世界にあっては、職人的に手慣れた完璧な文様を作品上に出現させ得るためには、何年も繰り返し同じ模様を描く行為は欠かせない基本でもあろう。その意味で富本の作品はかなりのクローズ・アップにびくともしない強固で完璧な文様世界を表現し得ているし、たとえば「竹林満月」や有名な「四弁花文」「羊歯文」以外に、一見して富本とわかる種々の絵模様も生み出し、一貫して模様から模様を作らない態度を示す。だが、それでもなお、模様が単純な記号と化している点のその源に、模様から模様を作らないという自戒の思いとどう折り合ったのか疑問に思える瞬間がある。写生を重ねて純化させて独自の模様を生み出すべしと富本は言ったのだと思うが、これは筆者も全く同感ながら、写生の段階ですでにどういう模様に落ち着くかを、過去の模様世界の蓄積の中から想定して場合はしばしばある。模様が記号的に単純なものであればそれは当然のことだ。それに植物は一見複雑な様子で見えていても、基本構造はごく簡単な場合が多く、記号的模様としての形を内蔵している。人の顔が目鼻口の点々で表現され得るように、どんな植物でもそうした単純化した形の文様として見せるほどに人にそれとわかりやすいという性質を持つ。そのため、観察や写生から出発して模様を作り出す時、ほとんど一足飛びに模様を生み出すことも可能で、写生など無意味な場合がある。富本はかなり写生をしたふしが見られるが、それでも写生の段階ですでに模様をそうとう意識していて、写生したものが即模様になっている。掛軸作品が何点か出ていたが、それをそっくりそのまま陶板に表現したものがあり、富本はあらゆるものを模様として最初から単純化して捉える才能が優れていた。また、富本の言葉とは裏腹に、古典的に完成している模様から出発して、そこに何か個人的なものをつけ加えることで新たな模様が出来る場合もあり得るし、たとえば富本の「四弁花文」が表現された何種類もの作品を見て行くと、そこには写生から出発して一方向にひたすら純化の道を歩んだということ以外の文様作りが見える気がする。結局は自分の売り物となるべき、より単純な形を世に送り出した者勝ちということかもしれない。だが、単なる図案ではなく、それを美しい陶磁器の肌に表現したところに単なるデザイナーが寄ってたかってもかなわない貫祿がある。
 富本は1904年に地元の中学を出て、東京美術学校の図案課に入学した。このことの意義は大きい。富本は図案家なのだ。大学の2年生からは建築や室内装飾を学び、一方で日本画や洋画の教えも受け、マンドリン同好会を作るなど、なかなか多彩な活動をするが、卒業制作を1年早く提出してロンドンに私費留学し、さらにその貪欲な学習力は磨きがかかった。イギリスではステンドグラス制作を学び、ヴィクトリア&アルバート美術館に通って写生を重ねたが、日本で開催する博覧会のために渡欧していた博士の助手となってパリから出発してカイロやインドにまで足を延ばす。イギリスのモダン・デザインをたっぷりと吸収し、しかも古代文明までも目の当たりにして富本は何を考えたかと思う。富本の苦悩は今の日本の作家にもそのまま共通するものだろう。卒業制作は「音楽家住宅設計図案」で、それは見事な設計図だ。思わずウィリアム・モリスが住むことになったフィリップ・ウェッブ設計の「レッド・ハウス」を思い起こさせたが、富本は半世紀前のこの設計図をどこかで知っていたのだろう。100年前の日本でもけっこう欧米の芸術の歴史が紹介されていて、当時の芸術家は敏感にそれを感じ、吸収していた。富本がもしそのままイギリスに住み着いていたならば、ウィリアム・モリスの追従者になっていたかもしれないが、帰国しなければならないし、そうしてやがて独学で陶芸に手を染める。そのきっかけは帰国の船の中でバーナード・リーチに出会ったことにあった。リーチは楽焼きに関心を抱いていて、富本は通訳として日本の各地を案内したことから、やがて富本自らも染織や木版画の仕事から方向転換をした。ここでもまたもしを言えば、富本がリーチに出会わなければ、染色において人間国宝になっていたか、あるいは木版画で大きな仕事をしたかもしれない。どういう造形の道に進んでいたとしても優れた業績を残したであろうことが、今回の豊富な出品作からうかがえた。だが、富本は少しずつあらゆる日本の磁器の技術を学び、独自の作品を着実に生み出して行く。今回の展覧は、1「東京美術学校から留学、帰国(1908-12)」、2「大和時代(1913-26)」、3「東京時代(1926-46)」、4「京都時代(1946-63)、5「書、画巻、デザインの仕事」、6「関係者との交流」という6つのセクションに分けてで、どのコーナーもそれだけを焦点にして長文が書けるほど面白い作品が並んだ。恵まれた家庭環境もあって、明治時代にヨーロッパに留学出来た富本であったが、モダン丸出しのデザインに走らず、むしろ日本の古典をよく見わたして、そこに時代に応じた斬新なデザインを提供し続けようとした行為は尊い。ヨーロッパのモダンさをそのまま移入しても物真似に終わり、100年持たずして醜悪さを露呈したかもしれない。だが、富本の作品は民芸的な土臭さとはまた一線を画した気品があって、独特の洒落た感覚を横溢させている。切れ者の鋭い感覚と言えばよいか、文人的怜悧生を感じて、現在の筆者にはようやく富本作品の味がわかるようになったのかもしれない。明治、大正、昭和と激動の時期をたゆまず歩み続け得た才能として、見事かつ羨望させる存在ではある。三ツ倉に竹林の満月の夜の散歩がかなわない今の作家は何をどう表現しようか。まさか富本の模様から模様を作り出すことはしないとしても。
by uuuzen | 2006-09-19 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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