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●『レプリカ 真似るは学ぶ』
NAXギャラリーで開催される展覧会は毎回案内はがきが届く。以前にも書いたが、1984年に大阪四つ橋のINAXビルに開設された当初から足を運んでいる。それが今回から場所が移転した。



●『レプリカ 真似るは学ぶ』_d0053294_2225991.jpg御堂筋沿いの伊藤忠ビルの1階の一角だ。ビル前面の警備員が立つものものしい雰囲気からは以前の方がよかった気もするが、何事も変化して行くからこれも仕方がない。展示スペースは前と大差ないが、その出入口すぐ横の書棚に今まで開催した展覧会図録のバックナンバーが置いてあったり、またその向かい側のカウンターには女子係員数名が陣取っているなど、美術館に近い雰囲気は増した。係員に質問したついでに訊ねると、ギャラリーはもう以前のビルには戻らなく、今後はずっとこの場所で展示するらしい。改めて過ぎた22年を思う。長いようで短い歳月の間、変化したこともあれば変わらないこともある。このギャラリーが開催した展覧会のほとんどは正方形のブックレットが制作されていて、その版形がずっと変わらないのがよい。500円だったのが今は1500円だが、物価の上昇からこれは当然か。当初は他の場所では入手出来なかったのに、今では有名になって書店でも買える。これも変化だ。タイルや住居に関する展覧会が主であったのが、案外そうでもなくなって来たのは、企画のネタ切れもあるだろうが、よそでは開催しないような内容を俎上に載せるのはたいしたことだ。そうした隙間的題材の展覧会が無料で見られて、しかも資料として充実したブックレットまで用意されるのはなかなか一朝一夕では出来ないことで、よくぞ今までギャラリーが続いて来たと思う。商売仇のTOTOとはどのような商品ジャンルの差があるのか知らないが、博物学的資料を公開するギャラリーを所有していないことを見る限り、企業イメージは劣る。今から作っても20年以上の差があるのでは追いつくのは難しいだろう。何事も長年継続するのは大変なことで、続けるほどに価値も増す。筆者もいつまで通えるかわからないが、なるべく足を運びたいと思う。今回ははがきが届いてすぐに行くことを決めた。今までこのギャラリーが開催したものの中では最も関心を抱いた。それで先月25日にシャガール展を見た後に行った。当日は雨で、ちょうど今日と同じような雲が垂れ込めて蒸し暑い日であった。この梅雨独特の空気は筆者はあまり嫌いではない。不快指数が高いのは承知だが、真夏前のまだどこか涼しいこの時分は、何だか妙にエロティックな感じもして、これはこれで日本独特の美しい季節のひとつだと思うのだ。
 さてレプリカだが、今回は当然のことながら重要な何かがあって、それを模倣して本物そっくりに作ることに焦点を当てている。博物館や美術館に展示されるような、代替が不可能な1点物について、見た目だけはそれと寸分違わないものを作る技術をいろいろと紹介するものだ。そのため、ここで言うレプリカは人に「見せる」目的を持つものだ。人に見られないものを模造する必要はないかと言えばそうではない。本物があって、それを誰にも見せずに模造品を作り、それを本物として人に売りつける場合はあるだろう。そんな問題もレプリカには存在するが、ここではガラス越しに展示される本物の代わりとして本物そっくりに作って置かれるものをあれこれと示していた。あくまでも見た目が同じであればよいという模造で、手に取れば重量が軽かったりするのでレプリカとわかる。その意味においては美術品の贋作からはやや遠い感覚を持つが、平面作品のレプリカの場合はそうとも言っておられない状況があり、また本物と同じ材質を使用して作る場合もあるから、レプリカはなかなか一筋縄では行かない問題を抱える。本物と同じ材質である場合、それは本物を一から作り上げることとほとんど同じ行為を要する点で、もはや昔の人が当の本物を作った時以上に困難な仕事と言える。見た目にも全く同じものを作るという足枷は自由な造形が許さないからだ。正倉院宝物はそのようにして同じ材質、同じ技法によって模造品が少しずつ作られているが、それらは1000年ほども経てば本物と同じような価値が認められるだろう。そうしたレプリカの頂点にあるようなものも今回は含んでいたが、通常は制作費用と展示目的を考え合わせて妥協点が決められる。そのため材質は樹脂に頼る場合が多い。これなら自由な加工と彩色が出来るからだ。案内はがきにある小さな壺はメソポタミアの扁壺で、今回の展覧会に合わせて樹脂によってレプリカが作られ、その工程説明とともに本物とレプリカが並べて展示された。じっくり確認すると、レプリカの方がやや締まりのない甘い印象があるが、それもレプリカであることを知って見た先入観がかるからとも言える。もしそうと知らなければ、どちらが本物か判定が非常に困難なほどレプリカの出来はよい。
 こうしたレプリカ作りはすべて職人の技術に負っている。形は型取りをするので同じものが出来るとしても、表面的なざらつき感や色合いなどはみな手作業によって本物に近づけて行く。その仕上げがまずければ本物には見えない。だが、その本物具合もどこまで求められるべきかは時と場合による。手仕事であるため、人権費がかかり、予算の限度があるからだ。それでも当然のことながら、本物と並べて素人目にはわからない程度の再現具合は必要とされる。展示品のごく微細な部分にまで注視する民間の研究者と言ってよい人がいるもので、レプリカはそうした人の目にもわからない程度の精巧さが要求される。レプリカが必要なのは、本物がどこかへ貸し出しされている間、その代わりとして展示しておく必要があることによる。それに、本物の状態が脆くて常時展示するには適さない場合もあるだろう。資料の一般公開を目的とする博物館、資料館では、大切な本物に代わるレプリカの需要は大きい。レプリカと聞いただけでありがたみを急に感じない向きは普通であり、なるべく展示する側とすればそれを明かしたくない思いもあるが、場合によってはレプリカの表示がなされないこともあるようだ。だが、誰にもそうとはわからなければそれでもいいではないか。今回のような機会でなければ、本物とレプリカが並べて展示されることはないが、本当はもう少し積極的に両者を並べて展示し、レプリカの精巧さを伝えてもよいように思う。それによって、レプリカがいかに本物と変わらないかを知ることになるし、一方で人間の手でどこまで精巧な細工が出来るかを示すよい機会になる。何でもデジタル・コピーが事足りると思っている現在では手仕事による完璧性を伝えることは大いに意義がある。最近よく京都の寺社にデジタル・プリントで復元された絵画の模造品が納入されることが目立つが、写真を撮ってそれを印刷するだけのように思えるそうした行為にあっても、インクの色をどうするかや紙や表具の問題など、人が決めて人手によるしか作り上げられないことは多い。結局手で作られたものは手によることでしか復元出来ず、モノとしてのレプリカはデジタル技術がいくら進んでもすべてが自動的になされ得ない。また、インク・ジェットでアウトプットしたものがはたしてコロタイプ印刷に比べてより本物に近く見えるかどうかは大いに疑問で、実際新聞記事に載っていたある寺の本物の屏風とそれを同じサイズでインク・ジェット印刷して表具したものとが並ぶ写真では、明らかに両者の色合いが違っていた。今回展示されたさまざまなレプリカはみなデジタルやパソコンとは無関係に位置していて、その超レトロな作り方には確かな人間技の手応えが感じられて格好いいのだ。パソコンを万能としてその技術を進化させるのは必要なことだが、そのパソコンも人間が作ったものであることを最初によく知っておくべきだ。
 展示品は多岐の内容にわたっていた。図録はそれらを全部収録するが、図録にしか載っていないこともある。そのため、展覧会を見ないで図録だけを買えばよいと思う人があるかもしれないが、これは大きな間違いだ。写真図版は実物ではない。本物もレプリカも自分の目で見ないことには見たことにはならない。そんなあたりまえのことを再確認させてくれるのが今回の展覧会とも言える。だが、そんな感覚もこれからどのように変化して行くのはわからない。TV画面がより精緻な映像を映し出し、パソコンがどの家庭でもTV並みに欠かせないものとなった時、人々の本物への思いがどう変化するかわからない。かえって本物の重要性が増すという見方もあるが、そうとばかりは言えない。画面で見ただけで満足する人はいるはずで、デジタル・データとしていつでも画面に再現出来ることをモノの所有として納得する人が出て来るだろう。レコードがちょうどそうであったと言ってよい。それは本物の歌や演奏を詰め込んだ複製品だが、本物のコンサートには何ら関心を寄せず、レコードこそ音楽として収集したり、オーディオ装置に大金を費やす人が跡を絶たない。それから推せば、デジタル・データ化したものをひとつのモノとして考え、そのコレクションを目指す人が出て来ても当然だ。本物は脆く、扱いによっては破損もするが、デジタル・データ化した複製品ならばそんな劣化の心配もなく、裏切ることがない。それこそ永遠の命を持ったものではないか思うように人の考えも変化して行く可能性はあり、すでにそれは始まっている。あらゆる分野にデジタル化の波が押し寄せ、人手によるものをどんどん駆逐する趨勢にあるが、これはプラスティック製品が日常にふんだんに溢れ始めた時から予測はついていたことだ。原油資源が枯渇に向かうことでプラスティック製品がなくなってしまうと考える人もあるが、型成形の考えがなくならない限り、可塑材使用の量生品はなくならない。だが、安物の代名詞にように言われるプラスティック製品も数千年を経て1点しか残らない場合があるだろうし、そんな貴重品をまたレプリカで作っていることだろう。それは人がモノに歴史を見出してそれを大切なものと考える性質を持っていることを示す。そして今伝わる貴重なモノに歴史が刻まれているとすれば、どの歴史に遡ってレプリカを作るかという問題も孕み、そこには「本物そっくり」よりむしろ「模型」的な観念がクローズアップされる。また、発掘によって見つかる考古品は、作られた当時は珍しくない量産品であった場合も多いはずだが、今は1点限りの珍しいものとなれば、本物が作られた時の何倍何十倍もの手間暇をかけてレプリカを作るというのも仕方がない。それは考えてみればアホらしいことで、本物を作った人は笑うかもしれないが、実は現代でも本物そっくりに作ることが出来るのだぞと、遠い過去の人に対して誇示あるいは対話出来ることにおいて意味はあるのだ。すなわち、レプリカ作りは、昔はすごかったが、今でもけっこうやっていますよという人間讃歌でもあるように思う。
by uuuzen | 2006-07-06 22:26 | ●展覧会SOON評SO ON
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