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●『西村功展-パリを愛した画家-』
先月29日に西宮の大谷記念美術館で見た。雨がほんの少しぽつり来たがどうにか天気は持った。紫外線が強い時期だけに曇り空の方がよい。



●『西村功展-パリを愛した画家-』_d0053294_0165911.jpgこの展覧会は名前の知らない画家でもあり、さほど関心はなかったが、兵庫県立美術館に行くついでと、去年秋にも書いた近くのBEANSという店で食事をする目的があった。店はあまり混んでおらず、そこそこの時間で注文が運ばれて来た。BGMはカントリー・ソングで、最新のものだろうか、かなりダンサブルなアレンジがあってなかなかよかった。期待しないのにいいものと出会える場合はしばしばあって、本展も美術鑑賞の楽しさをよく伝えてくれた。絵は理屈で見るものという考えがあるが、理屈抜きで画家のよき人柄が伝わって来るものが本当は美術鑑賞の一番大きな醍醐味だ。絵は確かに技術でも、それをどうのこうのと言うこととは別に、まず露になっている作者の全人格が好きか嫌いかと即断出来ることが大事だ。どんな画家でも絵を描く時はひとりで寡黙になっているはずであるから、絵は描き手との対話がなされた結果で、その点においてすべての作品になにがしかの価値がある。その当然のことを踏まえてなおかつ本当にいいと思える絵とそうでないものとがあるが、それは作者と鑑賞者の性質性格の差に負うところが大きく、生理的なことが絡んでどうしようもないことではある。だが、作品というものに作者の人格が反映し、それを別の人が感じる取れることの不思議さが人間にある限り、人間は作品づくりも鑑賞もやめない。絵を見る楽しみは今までに感じたことのない新しい世界が発見出来るかもしれないという期待があるからで、これは絵の数だけその世界がある。世界や宇宙は有限でも、絵は無限であり、夢幻なのだ。だが、人類が描いたすべての絵を見ることは出来ないから、絵の好きな人はいい絵が集まっていると一応保証される美術館、あるいは画廊に足を運び、それもよほどの美術ファンでない限り、よく見る機会があるのは巨匠の評価の定まった画家の作品が中心になる。現存あるいは近年亡くなった画家が100年後にどのように評価されているかわからず、画家の99パーセント以上は美術館で回顧展が開催されることなく忘却の底に沈む。当の画家だけしか表現し得ない世界が確固として存在しているにもかかわらず必ずそうなる。もったいない話だがこれまた仕方がない。
 画家はひとりで生涯をかけて夢を見続ける存在に限りなく等しい。その夢を他人に少しでも味わってもらえるのはまだ幸福だ。ほとんどは眠っている間に見る夢と同様、何の意味もないかのようにして作画したことは人々の記憶に残らない。昨夜書いた600年前の明兆の同時代にたくさんの絵師がいたはずだが、わずかな作品によって名前が伝わっている者があっても現在の一般人はほとんど何の関心も抱かない。それから推すと、この西村功という画家の絵が600年後にどのように残っているかは歴然としているように思える。そしてそう想像した途端に最初から見る価値がないと思う人もまた多いだろう。権威好きな人ほどそうだ。いつも書くように、ほとんどの人は音楽にしても絵にしても自分で評価を下す能力はなく、すでに古典と評価が定まっていることを鵜呑みにして、それと同じ考えによって音楽通、美術通を吹聴する。そのため、そういう人がもし現存の画家を評価することがあるとすれば、それはその画家がどういう学校を出てどういう受賞歴があるかをまず見てからだ。それはより広い世界で有名になっている存在とつながっていたいという一種の有名人崇拝病に毒されているからかもしれないが、人はそうした広い世間への眼差しとは別にごく身近なローカルな意識も持っている。そのどちらを大きく捉えるかの程度の差はあるが、ローカルな意識を失う者は幸福感からは遠くなるだろう。たとえばこう言いたいわけだ。自分の町にある画家がいて、絵がいかにもその町に住んでいる人ならばよくわかる雰囲気が濃厚に表現されるため、その画家の作品にどことなく愛着が持てるといったようなことはもっとあってよい。その画家が世界的に有名でなくても全然かまわない。ローカルな、お国自慢的な存在であっても、本来画家はまずそうした存在でしかあり得ないし、そういう存在の中からやがて世界的に価値が認められる者が出て来るというのが正しい道であろう。たとばえレオナルド・ダ・ヴィンチは今でも世界中の人が注目する画家だが、レオナルドの生きた時代、動いた地域の人々だけが充分感得出来た何かがあるはずだ。それ以外に絵が時代の変化に左右されない普遍的な何かを内在するため、遠い時代を経て全く違う風土で鑑賞されてもまたそれなりに味わいがあることになるのは事実だが、その味わいというものがレオナルドの意識したものから微妙に変化していない保証はない。そういう変化の可能性を最初から絵というものが持っているところもまた絵の不思議さで、それがあるために絵が人類にとって永遠に必要なものであり続けると言ってよい。だが、ここではそんな遠い将来のことはさておき、現在の生活の中で絵がどのような役割を果たすかだ。そのひとつの見本が西村功にあるということだ。
 現存の画家の絵を見るのであれば画廊に足を運べばよい。筆者もよくそうしているが、このブログでは一応お金を払って見る絵だけを対象にして来ている。それは良質のものであるとの保証が一応はされていることと、個展とは違って作品量が多く、ほぼ全生涯にわたった中から選ばれて並ぶからだ。このような大規模な回顧展が美術館で開催されるのは大体画家の没後であることが多い。そうした回顧展が一度でも開催される画家はまだ幸運で、没後に代表作を地元の美術館に寄贈すると遺言に書いても、収蔵庫はすでにいっぱいで断られる場合が今ではかなり多いだろう。そんなことを考えると、画家が専門とする絵はなるべく小さなものがよい。ミニアチュールであれば個人でも所蔵が簡単であるし、移動にも便利だ。だが、今の日本はアメリカに倣ってその反対を行っている。100号はまだ小さい方で、とにかく巨大な絵を描くことが巨匠の第一条件になっていると言ってよい。それは最初から美術館という会場を意識したもので、もし美術館がなければ画家を目指す人もはるかに減ることだろう。美術館は人に見てもらうためのものであるので、画家はとにかく人に見てもらうために絵を描く。だが、単に見てもらうだけなら画集やあるいは今ではブログでも充分と思う人は多いだろう。それゆえ、マチエールや絵の大きさというものがまた問われ直しているように思う。画家が会場用の大きな絵を描くのは、傑作は個人が家庭で楽しむものではないという意識をどこかで抱いているからでもあるが、普通一般家庭に本物の絵が飾られることがなくなる一方で、インターネットによって個人がたとえば自作の絵でも公表出来るようになって来たことは何だか面白い。やがて、実物は存在しないが、ネット上でのみ鑑賞出来る作品が大量に生み出される時代が来るようにも思える。ブログから本を作るのと同様に、パソコンで作った画像も自在な大きさでプリントアウトしてオリジナル作品と考えるというわけだ。
 さて、西村功の絵だ。チラシやチケットを一見しただけで、ベン・シャーンや日本のサントリーのアンクル・トリスのキャラクターを生んだデザイナーの柳原良平を連想するが、これはもっと簡単に言えば60年代風が絵に明白に出ているということだ。大正12年(1923)大阪市生まれで、3歳で悪性の中耳炎を患って聴覚を失った。耳が聞こえない点では松本竣介(1912-48)と共通するが、西村の絵はもっと楽しく幸福感が強い。昭和18年に帝国美術専門学校(現在の武蔵野美大)に入学し、卒業後に神戸で田村孝之助(1903-86)に師事した。1950年から二紀展に出品を始め、65年には「ベンチの人々」で第9回の安井賞を得ている。70年に初渡欧し、以後頻繁にパリを訪れて街の景色を描いた。2003年に没し、今回は初の回顧展で油彩、水彩、デッサンなど約100点が出品された。田村孝之助も大阪生まれで二科で活躍した後、戦後に二紀会を創立した。没後10年に芦屋で回顧展があったが、人物でも風景でもそのモダニズムの作風はマティスやデュフィ、猪熊弦一郎などに通ずる洒落た趣があって、西村の絵よりもやはり時代がやや遡ることをはっきり感じさせる。その代わり、西村の絵はよりイラスト的な感覚が増していて、時代の風潮の刻印をよく伝えている。3つのセクションに分かれていて、まず「初期から自画像へ」では40年代の作品が並んだ。「バレリーナ」(1947)は写実的な作風で後年の西村からは遠い。「自画像」(1951)は白シャツ姿でパイプをくわえ、赤銅色の顔をしている。「バレリーナ」とともに色数を抑えつつ印象に強いモデリングを目指している。初期のスーチンを多少連想させた。次のセクション「赤帽というモチーフ」では、ある日友人に頼んで赤帽を借り受け、それを被って自画像を描くようになった時期の絵を展示していた。50年代のことだ。この赤帽は西村にとってひとつのモチーフ拡大のきっかけになった。昔の国鉄時代から赤帽は確かに目立つ存在で、独特の香りを持った存在で、そこに西村が目をつけたのは画家としての本能もあったろう。先のふたつのセンクションは数点ずつの少ない出品だが、3つ目のセクション「赤帽から駅へ」は大画面で数も多かった。その最初の頃はビュッフェ風の刺々しい、そして半抽象を思わせるタッチで、釘のようなものでかなり引っ掻いてマチエールを作っていた。色も渋く抑え目で、赤い帽子、あるいは電車のランプといったものにわずかにアクセントとなる明るい色を使っている。だが、少しずつ華やかな色合いに変化し、鋭角調もかなり減少して一目で西村とわかる作風が完成して行く。赤帽を被る人物だけではなく、駅員や駅構内、列車やその内部の乗客といったように描く対象を拡大して行った。
 耳が聞こえないため、ボディ・ランゲージには特に興味を抱いたと思うが、それは60年頃から始まった駅を主題にした一連の作品で見受けられる。駅員が手を使って出発進行の合図をする様子をよく描いており、その描くべき対象を見る眼差しはどこか子どもっぽい不思議な思いがない混ぜになった純粋さがあり、それが絵を見る者にストレートに伝わって来る。赤帽を被って自画像をよく描く行為にも、今でいうオタク的なところが見られるが、そこから派生した関心がやがて大阪駅で写生を頻繁にし、その簡単なデッサンを元にアトリエで油彩画をせっせと描いて行った空想力の逞しさにつながり、何とそれが70年代にはパリの地下鉄の描写にまで到達するのであるから、「鉄道=未知な場所への憧れ」が少しずつ見事に開花して行ったことは西村にとってはとても幸福なことで、そうした軌跡を見る鑑賞者にもそのひとつの夢実現の行為が胸打つものとして迫って来る。西村がどれほど有名な画家であったかどうかは知らないが、そんなことはどうでもよくて、とにかく絵を見ていると少年のような快活や純粋さが伝わって来て感動するのだ。そういう絵は今は非常に少ない。難解ぶっていたり、またお化けのような酷い絵を描いて世界的有名になってやると豪語してみたり、漫画をそのまま拡大してこれが日本美術の最先端だと自惚れたりするような中で、西村の絵は特別の理論を持たないかもしれないが、絵の行為として最も重要なことを忘れていない。理屈以前に楽しさが先行しているのだ。2階の最初の部屋では70年代後半のパリを題材にした大きな絵が並んでいた。「パリ祭のバスチーユ」(1978)は珍しい題材の縦長画面で、左上にフランス国旗、下に門扉、その背後に人々の顔が埋まり、ずっと後方の中央に記念の円柱が建っている。特異な構図であるので写真を参考に描いたことが考えられるが、説明がないため、どういうきっかけで描いたかはわからない。「フォッシュ大通りの風景」(1987)は、上左に凱旋門、下にメトロの出入口とデザイナーが仕事をしている様子、右にもメトロの出入口、そして売店、右上にはまた違ったビルディングといったように、ひとつの画面にいくつもの場面を描く。この手法は後にも適用され、いくつかの作品があった。また「メトロ シテ駅界隈」(1994)に見られるように、画面下半分を地下鉄構内、上を地上の風景という構図も晩年に現われる。これとは別に地下鉄構内を描いた一連の絵は静謐な感じがよく出ていて西村の到達点と言ってよい。街の人々を大きく描いたものは、さらに生活者の生が淡々と描写されて楽しい。そこにはホッパーが描くような都会生活者の孤独の影はなりをひそめている。1992年からは大丸神戸店の情報誌『くじゃく通信』の表紙画を担当し、その原画がたくさん出ていたが、どれも見事に洒落ていて神戸の街の魅力をあますところなく伝えていた。そこに「リスボア(LISBOA)」というビア・ホールが描かれていて、その後神戸に出た時に探したが見つけられなかった。
by uuuzen | 2006-05-11 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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