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●『アンリ・カルティエ=ブレッソン展』
先月30日に大阪のサントリー美術館で見た。本当は15日に見る予定で、舞洲に出かけた後、渡し船に乗って美術館のある対岸まで急いで行ったが、4時半前になっていたので見るのを断念した。



●『アンリ・カルティエ=ブレッソン展』_d0053294_1414362.jpgわが家からこの美術館に行くには2時間はかかるので、なるべくならついでに見ておきたかったが、会期が4月半ばまであるのでまた出かければいいと思い直した。しかし、後で知ったが、閉館は午後5時ではなく7時半であったから、15日でも充分に時間はあった。せっかく大阪に出るならば最低でもふたつ以上は予定を作りたいので、30日は梅田でニキ・ド・サンファル展を先に見た。これはすでに書いた。カルティエ=ブレッソン、略してブレッソン展はなかなか書く気になれなかったが、その理由が自分でも今ひとつわからない。ブレッソン展は手元のチラシを見る限り5回あったことが確認出来る。1989年の銀座プランタン、年度は不明だが伊丹市立工芸センター、そして2000年の美術館「えき」KYOTO、2001年の京都市美術館、2002年の兵庫県立美術館と、近年は毎年のように開催されている。チラシを正しく収納しているわけではないので、探せばほかにも出て来るかもしれない。きっとこれ以外にも開催されたはずで、筆者が見たのは80年代前半だったと思う。てっきり図録を所有していると思ったが買っていなかった。2000年展はわからないが、2001、2年は今回と同じく大阪芸術大学所蔵のものを借りている。今回は「大阪芸術大学グループ創立60周年記念」とあって、没後初の回顧展で所蔵作品411点が一堂に紹介された。つまりこれ以上のブレッソン展はないということだが、ブレッソンは2004年8月に96で亡くなったので、以前にも411点全部を展示したことはあるかもしれない。411点はブレッソン自身が厳選した内容だ。大阪芸大を含めてヒューストンやパリ、ロンドンと世界で4か所しか所蔵されていないという。あまりに点数が多いので、次々と簡単に見て行くことになり、特に印象に残る写真というものがない。これはつまらないからではない。むしろその逆であまりにも内容が多様で、消化不良を起こすのだ。
 チラシやチケットにも印刷されている作品は毎回のチラシに登場するもので、彼の代表作と言ってよい。そこから伝わるのは絶妙のシャッター・チャンスと計算された構図だ。水溜まりを飛び越えようとしてジャンプした男の背後にバレエか何かのポスターが貼ってあって、そこには男と反対方向にジャンプする女性像がデザインされている。もしこの小さなポスターがなければこの写真の面白味は半減するどころかもっと失われていたであろう。ということは、ブレッソンはこの位置にずっと待機していて、男が飛び越えようとする瞬間を待っていたと考えられる。それにしてもうまく撮れたものだ。このような偶然が支配したような写真は構図を完璧にしようという強い意志と運が必要だが、長年写真をやっているとそうした機会に何度も恵まれるのだろう。嗅覚が働くというわけだ。だが、構図とは何かを知る絵画的バランス感覚が必要で、それは美術好きでなければならない。今はそうではない写真家は多いだろうが、ブレッソンが1908年のフランス生まれということを知れば、まだまだ絵画全盛期で、写真家がこぞって芸術家の肖像を撮り続けていたのにその逆はないから、写真家が画家や彫刻家に一種の引け目を感じていたことはよくわかる。今回は館内でブレッソンを取材した映画のDVDが10分ほど抜粋して上映されていたが、そこでも明らかにブレッソンが絵画を愛している様子がわかった。美術館の中で大きなルーベンスの油彩画を見ながら、若い頃はよく模写をしたと語り、また生まれて間もない娘の顔をスケッチしたものを取材者に見せるなど、画家になりたかった思いを伝えていた。ブレッソンは20歳頃に画家として勉強を始めたが、2年ほどして写真に進んだ。そして写真家として世界中を駆け巡った後の老年期になってようやく近場でまた絵を存分に描ける楽しみを語ることになったが、そこには悲哀のようなものが強く感じられた。絵画と写真の両立は不可能であったろう。どちらもそんなに生やさしいものではない。全力を投入しても一人前になるかどうか疑問だ。ブレッソンは写真に本腰を入れ、それで世界的名声を得たのであるからそれで充分ではないかと思う。
 写真はナイフのひと刺しのようなもので、絵は瞑想だとも語っていたが、この言葉をブレッソンがどういう意味で語っているのかまではわからない。ナイフのひと刺しにもまた瞑想にもそれなりの意味はある。そして見方によってはナイフのひと刺しのような絵もあれば、瞑想の写真もあるのではないか。もしブレッソンが自分の写真を絵画より劣るものとしてこの言葉を発していたとするならば、それもまた人生の最終段階に到達したゆえの一種の憂鬱症から出ているように思う。動く映像でブレッソンを初めて見たが、いかにも温厚そうな人柄で、写真とよく似合っていた。知的な学者といった雰囲気ではなく、また気難しい画家のそれでもない。ごく普通にどこにでもいるような庶民派の知識ある人といった感じだ。それが物足りないと言えば言えるような、正直なところ何だか複雑な思いに囚われた。もし画家になっていたとしても天才芸を見せるようなタイプでは決してなかったろう。会場では最後に芸術家を撮った写真がまとめられていたが、それらの有名人にどのような思いで接したかと思う。撮影順に書いておこう。数字は撮影年度だ。マンディアルグとレノルール・フィニ(33)、マティス、ルオー(44)、サルトル(46)、スティーグリッツ、フォークナー、カミュ(47)、ピカソ(53)、エルンストとドロテア・タニング(55)、ブラック(58)、ルイス・カーン(60)、ジャコメッティ(61)、ジャン・ジュネ、エルザ・トリオレ(63)、シャガール、シャネル(64)、ストラヴィンスキー、シャルル・ミュンシュ(67)、マルロー、ガボ(68)、コールダー(70)、ベーコン、デ・クーニング(71)、シュトックハウゼン(75)、ダライ・ラマ14世(91)。マティスとは個人的に交遊関係があったかもしれない。それは1952年にブレッソンは20あまりの写真を選んで写真集『Image a la Sanvetto』(「逃げるイメージ」。英語版では『The Decisive Moment』と題された)を出版しており、その装丁をマティスが白地に緑、青、紺の3色を使った切り絵で行なっているからだ。この実物が今回展示されていた。洒落たデザインでさすがマティスを思った。上記以外にも有名芸術家を撮影しているはずで、たとえば日本では建築家の丹下健三を撮影しているから、これはルイス・カーンと並んで世界の建築家シリーズのような構想があってのものかもしれない。文学者が少なくないのも特徴だが、これはブレッソンが絵画とともに文学を学んだことにもよるだろう。
 写真をやる一方26歳で民族学調査隊に参加してメキシコに1年滞在しているが、こうした異国への行動的な姿勢は生涯変わることはなく、その写真を豊かなものにした。27歳には映画制作を学び、30歳以降2、3年をジャン・ルノワール監督の助手を務め、その間に自分でドキュメンタリー映画を制作もしているが、そこで磨いた「動く映像」の感覚はその後の世界各地での写真活動に大きな影響を与えたに違いない。とにかく行動的で、これは画家よりもむしろ写真家であったからこそ可能であったと言えるだろう。第2次大戦後、40歳になる直前にロバート・キャパらとともにマグナム・フォトスを設立したことは有名だが、その遺産は現在もずっと生きているから、写真家の始祖のひとりとして長く記憶されるだろう。ブレッソンは人好きするタイプであるらしく、どの写真にも必ず人が写っている。風景が主のものもあるが、そこにも人がちゃと大事な位置に写っている。1951年に撮影された「シテ島」は、人影はほとんど見えないシテ島を中心に据えた左右対称を強調した横長の写真で、ブレッソンには珍しい静謐さを伝えるが、よく見ると島に点形の人影がちらほら見えるし、ボートが小さく中央付近手前に写っていて、動きやドラマが感じられる。そこでまたブレッソンらしいと思うことになる。59年の「ローマ」は石畳の下町の裏通り広場を写したものだ。石畳の地面の中央に四角い光が差していて、そこだけが明るくなっている。ちょうどそこに女の子がひとり走って来て全身が光の中に入ったところを捉えているのが絶妙で、これは女の子に演技させたものなのかどうか、そんなことをつい考えてしまう。女の子の表情、建物の窓から下がる干し物、まるでキリコの絵の世界のような建物の大きな扉、そのどれを取ってもここにはローマのすべてがあるように思えて来る。だが、実際は筆者はパリのシテ島にもローマの裏町にも行ったことはない。ただ想像するだけなのだが、それでもその想像が充分巡らせるように写真は隅々まで親切に構図が切り取られている。それは過剰というのでもないし、省略でもない。ちょうど絵画がそうであるように過不足ないバランス感覚が働いたものだ。
 こうした一種の作為のような跡を嫌う人も今はあるかもしれない。そうした写真は絵画を越えようとして結果的にそうなり得ないというわけだ。だが、ブレッソンが若い頃に絵画や文学を学んだことはそれはそれであるので、そんな延長のうえでしか写真もその姿を現わさないし、それでいいことだ。また、ほのぼのとした写真ばかりがブレッソンの特徴だと思うとこれは大違いで、胸がぐさりと痛むものも少なくない。そこがナイフのひと刺しなのだろう。32歳でドイツ軍の捕虜になり3度も脱出を試みて成功するという経験を持つブレッソンであるので、戦争というものに向ける眼差しは人並み以上だ。そんな代表的なものが「デッサウで送還を待つ囚人たちによるゲシュタポ内通者調べ」(45)だ。縞模様の囚人服を来たユダヤ人が混じる群衆の中、うなだれたひとりのゲシュタポに内通していた女性がいて、その女性を激しくつかんでなじっている様子のもうひとりの女性がいる。その様子を冷静に見つめる机に着いて調書を取る男性がひとり手前に写っている。うなだれた女性はブレッソン曰く、「殺さないでと言っていたよ」だが、戦争の残酷さをあますところなく伝えている。群衆の全員の顔を順番に見て行くと、怒りと言うよりもむしろさびしさのような表情が露で、もう少しで殺されるところにあった人々であっても実際そうであったろうなと心の内が見える気がする。同じような戦争に因むものとしては東西ベルリンの壁を題材にしたものが何点かあった。その中に、踏み台に乗った男3人が壁向こうのビルを首を長くして見つめているものがある。これは写真だけでは意味がわからなかった。DVDの映像によるブレッソンの説明によれば、男たちは壁向こうの東ベルリンに住む母親だったか、身内が窓から姿を見せて合図することを待っているのだった。そうした人の思いというものを重視するブレッソンの写真はどの写真にも見られるものと言ってよい。あくまでも人間の感情を大切にそのまま画面に定着させることを望み、写真では絵画と違ってそれが可能であったのだ。自分の思いが生きると同時に写っている人のそれも正確に生きる。
 411点の中に珍しくも川の中の女性のヌードを大きく撮ったものがあった。顔は写っていないが、陰毛のない陰部の縦筋がはっきりと見えていて、これはたまたまそんな姿の女性に出会ったのであろう。というのは、これと組となる別の写真では、その女性は裸の男としっかり抱き合っておそらく水中セックスの最中で、そのあまりに開けっぴろげな様子に全くいやらしさはなかったが、人生のあらゆる断面を見てやろうとするブレッソンらしい様子を示すものとして印象に残った。子どもたちを撮影した写真が目立ったが、これもブレッソンの人柄を示すだろう。日本の京都のどこかわからないが、朝靄の立ち込める寺の境内を歩む3人ほどの少女を撮った写真もそんな部類に属する。ブレッソンは40歳から3年をアジアで過ごし、特に中国では大きな収穫があった。国民政府の最後の半年と、それに続く中華人民共和国の半年を撮影しており、そんな中で得られた「清王朝の宦官」(49)は有名な写真で代表作の1点となっている。紫禁城の壁際にひとりの小柄な宦官がこちらを向いて立っている。その表情は耳が尖り、こういう人種が世の中にいるかと思えるような異様な風采だが、そこに清王朝の末期としての真の姿が端的に表現されているように思えて来る。また、宦官の向こうには別の男が背を向けて壁際を去って行くが、影のように黒い状態で写っていて、清王朝と宦官の運命を象徴している。その後中国の建国10周年の際にも3か月滞在しているが、そんな中で撮影された「行進、北京」(58)は見事だ。マス・ゲームであろうか、少女が一団となって一斉に地面から飛び上がった瞬間を撮影しているが、全員が地面に自身の影をくっきりと落としていて、この規律の正さと若々しい希望に満ちる躍動感は、新生中国のダイナミックな活力をよくたとえているように見える。その後は知らないが、この時点の中国はそうであったろう。インドではガンジーの火葬を撮影し、インドネシアでは独立に遭遇するなど、時代の空気の変化を読み取る能力が非常に優れていて、やはり写真家向きであった。日本には65年に3か月訪れている。これもよい時期に来た。その後日本が急速に変貌して行ったからだ。大阪芸大の招きで来日したのは78年でこの時に初めて写真展が大阪であった。そのほか訪れた地域や国は枚挙にいとまがなく、世界中と言ってよい。20世紀の写真界の巨匠の名は全くふさわしい。
by uuuzen | 2006-04-21 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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