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●『からくり人形師 玉屋庄兵衛の世界展』
先月25日に京都高島屋で見た。このカテゴリーはなるべく展覧会を見た順に書こうと思いながら、なかなかそうなっていない。それでも1か月を越えてしまうと記憶がうすれて駄目だろう。



●『からくり人形師 玉屋庄兵衛の世界展』_d0053294_1552935.jpgこうして書くことは記憶を呼び戻すので、頭の老化を遅らせるにはいいかもしれない。本当は興味のない展覧会を見る必要はないが、ブログのネタを思って、会場が近くならばなるべく片っ端から見ることにしている。それに興味がなくても、見た後ではまた考えが変わったりする。さて、この展覧会を見る10日ほど前、ある画廊を訪れると床の目立たない場所に茶運び人形が置いてあった。「これにお茶を運ばせてはどうですか」などと冗談を言ったが、あいにく動かないとのことであった。展覧会を見てわかったが、同じ大きさの茶運び人形が5体限定で売られていた。262万5000円の価格だ。これが高いか安いかだが、ほかの人が作れないものとなれば価格はあってないようなものだ。美術工芸品とはそんなものだ。それに新しく作られるものは骨董物より高くつく。制作の人件費がかかるからだ。骨董品ならばそれはない。つまり、モノを作る人は作った時のみ支払われ、後々にそれが流通する場合の価格は流通業者の取り分だけで済む。だが、新品と骨董品とでは質などを含めて差があるから、骨董品の方をほしがる人もいる。そのため新品より古い方が高くなる場合もあるが、モノによりけりで、大体は中古は新品より安い。先日あるところへ古ぼけた100年ほど前に作られた木版画の掛軸を持参した。それと同じものは版木が現在も残っているため、新品が再生産され続けている。小売価格は15万円前後だ。筆者の入手したものは表具が使用に耐えないほどぼろぼろになっていたので3000円であった。だが、肝心の中身の木版画は現在売られているものに比べて数倍よい。今では版木の磨耗や摺師の腕の問題があって、鮮明な絵に仕上がらからだ。新たに版木を起こせば15万円では到底収まらない。筆者の持参したものが非常に珍しいということで、相手は思わずそれを写真に撮ったが、それほどに現在売られているものよりもオリジナルの方が得難い価値がある。だが、そのような骨董品はほしい時にすぐに入手出来ない。根気と運が必要だ。現在は時間もお金であるから、筆者のように時間の取れない人は15万出して、しかも絵の状態の劣るものを買うしかない。
 木版画が盛んであった頃に比べて今は職人が激減し、技術も自然と落ちるのはやむを得ない。それはあらゆる手仕事に内在する原理で、競い合う人が多ければ多いほど、頂点に立の質は高くなるし、新たな工夫が発見されもする。機械であらゆるものを作るようになった今でも、それなりに盛んな手仕事の分野はあるし、伝統的な手仕事も概ね廃れずに細々と継承されているであろう。だが、現在のような経済社会になると、生活費が嵩み、それが作ったモノの価格に反映して昔よりはるかに高価になさざるを得ない。茶運び人形も5体しか取りあえずは作れないから262万5000円という価格になるが、これがもし競争相手がたくさんいて、もっとたくさん売れるものであれば10分の1の価格に落とせるだろう。それに昔はぎりぎり食べられればよいと思うような金欲のない本当の職人が多くいたであろうし、そうした人が作ったモノは、仮に今再現出来たとしても昔よりはるかに割高になってしまう。そして今ではそうした人がいると、周りがすぐに作家センセイと奉って天文学的な商品価格に設定する。また面白いもので、人々はそのモノの質を価格で判断するから、欲のない職人が安い価格につけた良質の品はほとんど見向きもされない。その理由はこうだ。「そんな腕のいい人ならばもっといい暮らしをしていて当然でしょう?」。かくて商売上手な、本当はつまらない作家が大名のような豪勢な暮らしをし、良心的な腕のいい人の作品は死後50年以上経ってようやく誰かが目をつけて骨董店で3000円程度で買う。それでもまだ運がよい方だろう。美術館や博物館が収集するかどうかだが、これはもっと期待出来ない。広く知られることのなかったものはそれだけの小さな価値ということで、注目する酔狂な研究家などが出て来るはずがない。研究家もある意味では人気商売で、食って行かなくてはならないからだ。それでもいつの時代でもモノ作りに執念を燃やす人はいる。自分がやらなければ誰がやるという思いは、特に代々家業を継いでいる人には強いだろう。
 からくり人形が尾張で盛んなことは今回初めて知った。玉屋庄兵衛は現在9代目というが、1734(享保19)年に京都から初代が移住したのが始まりで、やっぱりという気がした。あらゆる人形が京都に源を持つが、からくり人形もそうであった。だが、現在京都にはもうからくり人形師はいない。尾張の地がそれを支えたのはなかなかのことだ。尾張の伝馬町は享保17年に東照宮祭に用いるために精巧な山車を造ったが、操作困難なために玉屋を京都から呼び寄せた。玉屋は玉屋町(中区錦)に住み、「鶴とともに飛んで来たからくり師」と呼ばれ、その後山車からくり人形の制作や修繕に代々かかわって来た。享保17年の東照宮祭の山車は昭和20年の戦災で消失したというが、ほかにも同様の例はある。それでも愛知県下の山車は現在400輌ほどあって、うち6割がからくり人形を搭載する。からくり人形は山車からくりと、前述した茶運び人形のような座敷からくりに大別されるが、今回の山車からくりの紹介が主となっていた。玉屋のからくり人形は去年の愛地球博の長久手愛地球館にも「唐子指南車」が展示されたが、それほどに愛知のひとつの看板となっている。「唐子指南車」は台車をどの方向に曳いても乗っている人形は指が南を指すコンパスの役割をするものだ。紀元前に中国で考案されたこの原理は自動車のディファレンシャル装置に応用されている。構想から陥穽まで3年を要したもので、1時間に2回、提灯型のケースから唐子人形が出現する。2007年に完成予定の愛地球博記念館のメイン展示物として計画がなされていて、愛知博の看板のような存在だ。からくり人形の原点は戦国時代末期にキリスト教宣教師が置き時計を持参して来たことにある。その機構を応用して江戸時代に広く作られるようになった。江戸中期は新規の発明は御法度であったが、娯楽は例外で技術者(からくり師)は大衆芸能文化の世界で技術を競った。なお「からくり」は「機巧」の文字を当てるが、誰しも知っているように鯨のヒゲを使用するものであるので、捕鯨が禁止されている現在、その材料の入手困難もあって、ますますからくり人形の存続が困難になりつつある。材木は檜、桜、柘植、黒檀、樫、かりん、竹の7種を用いる。会場では鯨の大きなヒゲが展示してあったが、これは上顎から櫛のように生えた角質で、背美鯨のものが弾力性、復元力に優れている。
 会場はまるでお祭りの雰囲気があって楽しかった。有名な山車からくり人形がそれぞれコーナーに分けて展示され、実際の祭りでどう動くかの映像もあった。動きが命であるので、映像を見れば充分というところがある。だが画面は小さいし、プロ・ショットではなくてまたあまり鮮明ではないので、人形の豪華な衣裳や顔の表情などは実物を間近に見た方がはるかによい。これは実際の祭りの現場に行ってもまず無理であろうから、こうした展覧会での展示はまたとない機会だ。実際今回のように、各地の祭りのからくり人形を一堂に会して見られることはほとんどない。愛知県にすればと観光客誘致の目的もあったのかもしれないが、京都でこの展覧会が開催されるのは、玉屋が元は京都出身ということのほかにもうひとつ理由がある。それらは会場でもパネルが展示されていたが、祇園祭の蟷螂山の山車に載せるかまきりのからくり人形を玉屋が制作したからだ。蟷螂山が復活してからまだ10数年しか経っていないと思うが、祇園祭の30数基の山鉾のうち、これはからくりを使用する唯一のものだ。そもそも静的な祭りの印象が強い祇園祭であるので、かまきりの動きも羽を少し閉じたり開いたりする程度の雅びな雰囲気にとどまっている。次に順に展示された山車からくり人形を紹介する。「○代」とあるのは玉屋の○代の意味だ。まず最初は「二代有松祭布袋車」だ。麾振り人形(前人形とも言う。麾(き)は指図するの意)かどうか記憶にないが、唐子人形が「寿」「宝」といった漢字を筆で書く。山車にはからくり人形だけが載せられるのではなく、通常は一段低い位置に麾振り人形が設置される。これは山車の巡行路を清める役割を持つが、からくりで動くものもある。「三代西枇杷島まつり紅塵車」は、麾振り人形が巡行中に目を開き、囃子が鳴りやむと居眠りをする。「三代犬山祭梅梢戯」は、小唐子が梅の木に飛び乗り、太鼓を打つ演技をする。これは差し金で遠隔操作する仕組みで、糸からくりに対して「離れからくり」と呼ぶ。「五代小牧秋葉祭聖王車」は、愛嬌のある童子人形と、御弊を振る所作をする老人姿の麾振り人形を持つ。からくり人形は姉唐子の肩に小唐子が飛び乗って逆立ちをし、太鼓を打つ。からくりの演目は能から題材を取ることが多いが、中国の故事に因むものも多くてこれが唐子人形がよく登場する理由だ。
 「六代犬山祭浦島」は、浦島太郎の顔が変化する「変面(通称面被り)」という技を見せる。大きな蛤の造作が面白かった。その貝の中から姫が姿をのぞかせる。「七代広井神明社二福神車」は、江戸時代の名古屋の三大祭りのひとつ天王社祭礼の見舞車と言われる山車で、太平洋戦争で多くが消失したなかでわずかに残った。恵比寿人形や大黒天人形、宝船が載っている。「七代桑名石取祭今片町」は、桑名の代表的な祭りである石取祭の山車で、太平洋戦争後に復興した際、今片町の祭車にからくりを載せることになり、七代目が依頼された。歌舞伎や能で有名な石橋の人形を積む。「八代大四日市まつり甕破り山車」は、諏訪神社の祭礼であった四日市祭りのものだ。名古屋型の山車や鯨船など多数の風流物が巡行する盛大な祭りであったが戦争で大半が消失した。水の入った甕を破って童子が現われる故事に因むからくり人形を載せる。「九代横須賀まつり圓通寺」は、矢持ち人形の差し出す矢台から弓射り人形が矢を抜き取り、弓につがえて的を射ると、的の中から両手にジャン(小さなシンバル)を持ったちゃんちゃん人形が飛び出す。「九代犬山祭西王母」は、226年ぶりに本格的に修復されたもので、3000年に一度実を結ぶ不老長寿の桃を取りに行く西王母伝説に因む山車だ。木に取りつけられた一の枝、二の枝、三の枝を唐子が前転したり背面飛びしたりして伝って行く。これを綾わたり人形と呼ぶが、軽量化の工夫が必要で和紙で胴体が作られている。会場の奥に大きく控えていたのは「九代からす天狗」だ。牛若丸が鞍馬山でからす天狗から剣術、妖術を伝授されるという能から取った題材で、高さの違う8本の杭を下駄履きの人形が支えなく二足歩行で順にわたって行く。「離れからくり」の技法のひとつで乱杭わたりと呼ぶ。差し金で宙に浮いた小天狗がからすの姿に変わる変面、変身の技法や、糸からくりの大人形が天狗に変面する技法などを使っている。山車からくりに比べて座敷からくり人形は展示場所をあまり取らないので数多くあってよさそうだが、茶運びのほかには弓曳童子しか紹介されていなかった。1体限りで販売されていて、1890万円だ。茶運び人形は「茶をはこぶ人形の車はたらきて」と西鶴が詠んだように、江戸初期より存在した。時計の技術を応用したものであることは前述したが、土佐のからくり師細川半蔵が1796(寛政8)年に著した和時計およびからくり図面入りの解説書「機巧図彙」が近年発見され、それを七代目が復元し、さらにその息子である九代目が進化させた。この人形を九代目は2005年に大英博物館に寄贈し、贈呈の折りの写真が会場にあった。法被を着て口髭を生やした九代目はいなせな兄さんに見えていた。祭りに因むものであるのでそれは当然だろう。最低ひとりは必要であるから、代々続いて技術は継承されて行くだろう。今ではコンピュータ制御でもっと複雑で微妙な動きをするロボットがあるが、人が操るどこかぎこちない人形たちを見ていると、文楽にも共通した独自の夢幻的な世界を感じる。
by uuuzen | 2006-04-13 23:58 | ●展覧会SOON評SO ON
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