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●『エルンスト・バルラハ』
「ドイツ表現主義の彫刻家」と副題がある。それだけ一般には馴染みがない。長年展覧会を待ち続けていた。去年と今年が「日本におけるドイツ」の年で、それでようやく展覧会が実現した。



●『エルンスト・バルラハ』_d0053294_0314590.jpg「日本におけるドイツ年」の一連の催しのうち、最大の見物だ。ちょうど1か月前の24日に行ったが、じっくり見たので閉館時間となり、最後の部屋はほとんど見ないまま終わった。そのためブログに書くことは控えていた。それで先週の金曜日にもう一度行った。京都国立近代美術館での会期は4月2日までで、その次は東京芸大の美術館に巡回するが、これはあまり入場者数を期待していないからだろうか。筆者が訪れた2回は、人が多いというほどではなかった。重要でしかも珍しい芸術家の作品に接することが出来るにもかかわらず、まだまだ知られていない作家には人々が冷淡であることを実感する。ところでERNST BARLACHという名前の日本語表記は、従来から紹介されて来た「エルンスト・バルラッハ」の方がいいのではないだろうか。LACHを「ラハ」とするであれば、作曲家のBACHは「バハ」としなければならない。日本語表記は短い方がいいし、原音に近い綴りが好ましいのはわかるが、こうした大きな展覧会での表記は後々まで影響を及ぼすことを考えると、より勇ましく感じられる「バルラッハ」の方がいい。ネット・オークションでこの展覧会チケットを出品している人の中に「バルバラ」と書いている人がいて、安値であるのにずっと落札されないでいた。「バルラハ」を「バルバラ」と間違うことは充分あり得るが、もし「バルラッハ」であればまさか「バルバッラ」と間違う人はいないだろう。去年2月に静岡県立美術館を訪れた時、彫刻の常設展示にバルラハの彫刻が1点あって驚いた。それほど日本ではバルラハの作品を見る機会は乏しい。美術全集でもごくわずかな作品しか紹介されない。いつバルラハを知ったか忘れたが、30年は経っていて、その後たまに紹介されているのを本で見る程度であったが、鎖で吊るされて空に浮くブロンズ彫刻「ギュストロー戦没者記念碑」を知った時は忘れ難い衝撃を受けた。似たような彫刻を見たことがなかったからだ。そして、ほかのバルラハの彫刻にも共通するが、独特の田舎っぽい、どこか原始人を思わせる表情を見てますます興味を抱く一方、何とも言えないアクの強さに違和感も抱いた。今回はそうした関心や疑問を全部氷解させてくれる機会であった。3000円の図録は分厚さから言えば当然だが、迷いつつも買わなかった。もっと安くて古書で出回ると思っていると、実際はそうはならず1万円もする時代がきっと来るだろう。
 何度も書くように筆者はドイツ美術はとても好きだ。特に表現主義はそうで、第1次大戦からヒトラーの登場など、そんな激動の時代に出現した芸術を見るとわくわくする。本当に感動的な芸術は平和な時代には決して生まれない。ヒトラーから頽廃芸術とみなされ、失意のうちに亡くなったバルラハだが、今回初めて何枚かの写真や自画像の絵を見た。ジャン・レノに似た風貌で、背も高い。痩せ型だが、彫刻という体力の要するものに耐えたので、もともと頑健なところがあったのだろう。それでも68年の生涯で、そうとも言えない。手元に1992年に開催されたケーテ・コルヴィッツ展の図録がある。今年もどこかの美術館でコルヴィッツ展は開催されていて、日本での人気は昔から高い。彼女はバルラハより3年早い1867生まれで、7年遅い1945年まで生きた。彼女はいつもプロレタリア美術の文脈で語られるし、実際虐げられた人々に眼差しを向けた作品が多いが、彼女と少なからず関係のあるバルラハにはあからさまな現実抗議は見えない。ケーテと同じように戦争の矛盾を思ってそれを告発する作品を作りはしたが、ドイツ・ゴシックに通ずる木彫り作品を見つめながら、黙って「祈り」を込め続けた。その意味で宗教的な作家だ。日本でバルラハの紹介が遅れたのは、表現主義絵画や版画とは違って彫刻に関してはあまり作家がいないこともあって重要視されて来なかったことと、その造形が日本ではあまり馴染みのないゴシックや、ヨーロッパから見れば東方の土着文化に接近したものであったからだ。前者はたとえばキルヒナーに木彫作品がままあるのに日本では未紹介であることからもまだ仕方のないところと思わせ、後者に関してはドイツ表現主義のひとつの大きな傾向でもあったにもかかわらず、まだそこに充分な焦点を当てた展覧会がなされて来たとは言えず、バルラハが他の表現主義作家とどう差異と共通点があるかの議論は今後に委ねられている。前述のコルヴィッツ展の図録には1920年6月25日の日記の抜粋「バルラッハの木版画を見て」が掲載されている。『昨日、芸術協会のための作品を選ぶために、ケルン教授と分離派展と大展覧会に行った。そこで本当にびっくりするような作品を見た。それはバルラッハの木版画だった。…バルラッハは自分の道をみつけたけれど、私はまだそれを見出していない…』と続く。ケーテがバルラハの作品を初めて見たのはこの時ではない。それはいいとして、このケーテの書く内容は筆者には切実なものとして響く。自分がまだどう進めばよいかわからず、作品のスタイルも完成しないことを嘆く気持ちは、物づくりする者にとっては常に念頭から去らない呪文のようなもので、衝撃的な作品に出会えば常に発奮することが出来るのだ。
 ケーテが言う「バルラハが自分の道を見つけている」ことは、今回の展覧会でもよくわかった。ひとりの芸術家が生涯を通じてどのように作品を変化させ、自分独自のものを作り上げて行くかはこうした大規模な回顧展であればなおよくわかるが、バルラハもそれは見事な形でものにして行った。会場は全部で7章に分けられていて、第3章までは修業時代としてよいが、そこに後年の独自の造形の開花を予告させる仕事がすでにあるのは言うまでもない。一朝一夕の思いつきで優れた作品が生まれることが決してないことをよく伝える。7つの章を順に書く。1「ハンブルクとドレスデンでの修業時代(1888-1896)」、2「パリ滞在時代(1896-1897)」、3「ハンブルク、ベルリン、ヘール時代…ムッツ製陶工房での制作(1898-1904)およびヘール製陶専門学校での教師時代(1904-1905)」、4「ロシア旅行(1906)とベルリンでの芸術家としての初成功(1907-1908)」、5「フィレンツェでの修業時代(1909)」、6「ギュストロー時代(1910-1938)…第一次世界大戦中・戦後(1914-1926)」、7「偉大なる制作の時代(1927-1923)そしてナチス時代における芸術家バルラハの存在(1933-1938)」。各章それぞれに筆者の思いを書くと、とても今回だけでは終わらない。それで簡単に済ませば、35歳まではそれなりに巧みな描写や彫像をものにしてはいるが、当時の他の画家を連想させるところが多々あって、まだ独自なものが見えるとは言えない。バルラハは兄弟がウクライナに暖房装置設置技術者として働いていたのを訪問し、そこで重要な閃きを得たかのように、その後一気に独特の造形に開眼する。素描をそのまま磁器によって立体化したものもあったが、彫刻家により重点を置く方向が定まったのがこの時期以降だ。ロシアでの収穫は、盲目の乞食など貧しい人々の姿や、バラバノフと呼ばれる土地の民族神のような造形との出会いだ。前者に寄せる眼差しはケーテ・コルヴィッツと一脈通ずるところがあるが、ふたりは10年後の雑誌「ビルダーマン」において作品をともに掲載することになる。ロシア旅行以後にもし戦争がなければバルラハの芸術がどのようなものになっていたかと想像するが、これは酷な言い方かもしれないが、その芸術が高みに昇華し得たのは第1次大戦とヒトラーの登場があったからと言ってよい。そこに悲劇的な芸術家の姿を見て、感情を高ぶらせて過剰に芸術家を評価しがちなことにもなるが、それを値引いてもやはりバルラハの50代以降の作品は圧倒的な造形力と感情の深みがあって感動を呼ばずにはおかない。抵抗の芸術家という表現はふさわしくない。むしろ無抵抗で寡黙に作り続けたと言えばよいが、それは当然日和見主義とは全然違う。愚かな専制者や時代はやがて過ぎ去り、いずれまともな時代が到来した時に、何が嵐の時代にあって重要な作品活動であったかを示そうという密かな自負を込めたものだ。
 今回の展示では版画もたくさんあったが、彫刻の方が圧倒的に迫力があって面白かった。また版画に登場する人物がそのまま彫刻にも表現されるなど、両者には強いつながりが見られる。彫刻では、継いだ胡桃材を使用したずんぐりした木彫が12点も来ていて、鑿跡をそのまま残し、その色つけも相まって温かくも力強さをよく表現していた。だが、よりダイナミックな造形となると木彫には限界がある。そこで剣を振りかざす人物といった動きのあるブロンズが現われるが、これは禍々しい事態を表現しているように見えていかにも表現主義時代を感じさせる。剣によってバルラハは何をぶった斬りたかったのであろう。剣をかざす人物は版画にも登場する。ひょっとすれば戯曲にもあるのかもしれない。バルラハはいくつかの戯曲を書いており、それらはブレヒトに次いでよく上演されるとのことだ。文学的才能もあったのだが、簡単な内容紹介文を読む限りにおいては自然主義的なものではないので、単純に楽しめるタイプの物語ではないであろう。2回目に見てわかったことだが、版画に登場する人物は初期は主に地上にどっしりと生活するような農民であったのが、次第に空中に浮遊するような天上の人が現われる。彫刻は安定感が必要であるから、天上の存在に関心を抱いた晩年は、どういう彫刻の形態があり得るかの模索を続けたことだろう。剣をふりかざす人物像ではほとんどその体形は水平になり、浮遊寸前の力学を感じさせる造形だが、そこから一気に空中に重量のある彫刻を浮かばせるには鎖で吊るしかない。それが代表作となった「ギュストロー戦没者記念碑」だ。しかし、この作品は確かに空中に浮かんではいるが、鎖が見えてしまうことによって、どこか残酷な拘束感を伝えもする。ピアノ線では無理かなと思ったが、吊り具としてわずかでも見えれば大同小異だ。空中にそのままで浮かぶ彫刻は物理的に無理ではあるが、バルラハは出来ればそうしたかったに違いない。そしてそんなことを考えた彫刻家がいたであろうか。
●『エルンスト・バルラハ』_d0053294_14503186.jpg 第1次大戦が勃発した当初、バルラハは愛国的な立場を取った。だが、次第に戦争の実相を知って反戦的になった。それらは1914年から16年まで発刊された全66冊の雑誌「戦時」を順に辿るとわかる。国粋主義の民族主義者には反戦的と映った1929年の「マグデブルク戦没者記念碑」の負傷した兵士たちや骸骨の樫の木を用いた像、1931年の「ハンブルク戦没者記念碑」における7メートルを越える石に刻まれた打ちひしがれた子どもを抱く母のレリーフといった移動困難な作品は写真パネルだけの展示であったが、1927年の「ギュストロー戦没者記念碑」は顔の部分のみ別に鋳造されたブロンズが展示された。ギュストローはバルラハが後半生住んだ田舎町で、14世紀末に完成した北方ドイツ・ゴシック大聖堂がある。これは1937年に撤去、破壊され、1942年にひそかに鋳造された別の1体が1952年にケルンの聖アントニウス聖堂に納められた。そして1969年にやや縮小されて鋳造されたものがまたギュストロー大聖堂に飾られた。写真で見ると異様な顔と姿をした真っ黒な彫刻で不気味な印象が強いが、今回は間近にその顔面部分を見て全く別の感想を抱いた。説明パネルにあったように、その顔はどこかケーテ・コルヴィッツに似ている。しかも瞼を閉じてどこか笑みさえたたえて瞑想している。左右対称であったので向かって左半分だけはがき大の不用紙に簡単にスケッチした。今、その下の余白に、1917年頃のケーテの肖像写真を模写して添える。もう少し書くと、「ハンブルク戦没者記念碑」は写真で見る限り、オットー・ディックスが手がけそうな題材だが、悲しみに支配的で胸を強く打たれる。この作品はナチ党員で彫刻家、美術商のベルンハルト・ベーマーが購入して保管し続けたため破壊を免れたとのことだ。いかにバルラハの作品が眼力のあるドイツ人を感動させるものであったかを伝える。バルラハの彫刻はきわめて現代的でありながらドイツ・ゴシックの伝統に直接つながり、また土俗的民族芸術とも言える単純な形を得ることで、力強くて優しい印象をたたえた作品となっている。バルラッハは自分の道をみつけたが、私はまだそれを見出していない…。
by uuuzen | 2006-03-24 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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