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●『崔福姫作品展・韓国伝統衣裳の再現』
今日が最終日だが、一昨日息子に車で京都造形大学の前まで送ってもらって見た。この大学はかつては京都芸術短期大学と言ったが、4年制に拡大された。嵯峨にも美術短大があったが、これも4年制になったから、よほど美術大学は儲かるものと見える。



●『崔福姫作品展・韓国伝統衣裳の再現』_d0053294_0572346.jpg造形大も嵯峨美大も4年制になってからは校舎とは別に大きな建物がいろいろと建ち、ますます威容が増したが、それらも全部学生の授業料が元になっているのであるから、芸術は大金を要するということか。それでも美大の諸施設が一般に開放されて、さまざまな催しが持たれるのはありがたい。この展覧会は造形大にある「人間館」という、山の斜面に建った別棟の1階にある展示室Galerie Aube(ギャルリ・オーブ)で無料で開かれた。主催は同大学と国立民族学博物館で、みんぱくが前面に立っているとなると見応えが期待出来る。チラシは通常より厚手の紙にカラー印刷、しかも会場では4つ折りの、これもカラー印刷の詳細な説明パンフレットが無料であった。こういう配付資料もそれなりの出費が嵩むはずで、どこかが助成する必要がある。チラシには助成機関として、国際交流基金と日韓文化交流基金の名前が印刷されている。今回は個人展ではあっても、国を代表する形で作品が持って来られたものであるから、これは見ておくに限ると思った。この大学には「芸術館」という建物も南側に別にあり、そこにはGalley Rakuが設けられ、もっと小規模な展示に使用されるが、2002年の夏に、日韓国民交流記念として『韓国の伝統文化の薫り展』が開催され、それも見に行って図録も買った。ついでに書くと、同年秋には大阪のATCミュージアムでは同じく日韓国民交流記念として『韓国の色と光』という大がかりな展覧会が開催され、これも見に行った。このように、『冬のソナタ』の放送以降、俄然韓国文化を紹介する展覧会が増加したと言ってよい。だが、造形大からさほど遠くもないところに京都の在日朝鮮人が私財で建てた高麗美術館があり、それは日本の民芸館に匹敵するような存在で、それなりに創立された80年代から韓国文化を紹介して来ている。筆者が最も見たい韓国の芸術は最先端の現代美術なのだが、それはまだ京都では積極的に紹介されているとは言い難い。
 崔福姫は名前からして女性であることがわかる。韓国読みは「チェ・ボッキ」だ。1930年ソウル生まれで、8歳の頃から針を持ち、55年から針工として韓服を縫い始め、80年に宮中遺物博物館収蔵の伝統衣装の復元に携わった。89年に針匠の称号を授与されたが、これは日本で言えば人間国宝に相当する。前述した『韓国の伝統文化の薫り展』では「刺繍匠」「木彫匠」「毎緝(メトップ)匠」「簾匠」「刻字匠」の5人の韓国の重要無形文化財が来日して実演を行なった。当然ながら日本とは指定の分野が少々違っていることがわかる。韓国に何人の重要無形文化財保持者がいるのか知らないが、「刻字匠」に指定されている人は最も数字が大きい第106号となっているので、少なくとも106人以上はいた計算が出来る。こうした人々は生活も保証されて優雅に作品づくりをしているかと言えばそうとは限らない。以前『日本のわざと美』にも書いたように、人間国宝であっても特別に経済的に潤わない人々はたくさんある。日本も韓国もこの点では同じはずだ。チェ・ボッキさんの生活もごく平均的ではないだろうか。彼女は夫が生活能力がなかったため、5人の子を自分の針仕事で育て、今はソウル西部のアパートで長男家族と一緒に生活している。また、麻や綿の反物を扱う店が集まっている東大門の広蔵市場内の雑居ビルの中にも工房があって、ミシン仕事をする針子をひとり抱えている。弟子はずっといなかったが、それはとても給料を払えないからだ。だが、名門の梨花女子大を出たひとりの女性が弟子入りし、今はチェさんの仕事を吸収すべく、移動にも必ずついて回っている。市場内の店からはたまに韓服を誂える客を紹介してもらうことがあり、そういう時は弟子に手伝わせてそれなりに賃金を支払えるとのことだ。梨花女子大では服飾に関する学問は教えても実際の縫い方を教える人がいないため、実技をきわめるためには年配者に弟子入りする必要がある。これは日本でも同じことだ。だが、チェさんのように8歳から針を持った人と、大学を卒業してから始めた人とでは、スタートの差が大きく、チェさんのような技術を習得するには長い年月を要するし、またチェさん以上に育つであろうか。大学で学問を身につけるのはいいが、頭でっかちになって実際の手はさっぱり動かないという人ばかりになっては手仕事の未来はない。音楽でも絵でも、10歳になるかならない頃に師匠から手取り足取りして教えてもらわない限り、天才と呼べる人材は出ない。だが、一方では何事も学が大切で、手先のうまさだけなら、それは職人仕事に過ぎないという見方もある。しかし、学とは何かだ。大学を卒業した程度ではいくら有名大学でも高がしれていて、それは基礎のほんの基礎に過ぎない。独創的なことを成し得るための、本当の身になる学問は、学校を出て本人がどれだけ努力を続けるかにかかっている。
 筆者の手元に1冊の本がある。「韓國服飾史論」だ。著者は李京子、ハードカヴァーの420ページ、1983年3月に韓国の一志社から8500ウォンで発売された。これを韓国でいつ買ったか忘れたが、本屋を訪れて目にとまった。漢字の部分は読めてもハングルは駄目なので理解が及ばないが、それでも大体どんなことを書いてあるかはわかる。全6章で、1は歴史、2は上古服飾、3は朝鮮時代の宮中服飾、4は朝鮮時代の制度服飾、5は朝鮮時代の織物紋様、6は現代韓服と服飾史となっている。カラー図版はないが、全体に図版や表が豊富で、巻末には付録「実測資料」として詳細な寸法図が50ページ近くあるので、仕立てには少なからず役立つ。こうした専門書はあまり売れないであろうが、ハングルを読みこなせるのであれば、版権を取得して翻訳出版出来るはずで、そうした人材が今後は日本でどんどん出て来るように思う。それはさておき、今回の展示があることを知ってまず思い起こしたのはこの本であった。奥付けを見ると、李京子という人は1938年生まれで、チェさんより8歳年下だ。梨花女子大に学び、同大の美術大学装飾美術科の副教授、そして韓国服飾学会の理事を務めている。ただし23年前のことであるので、今はわからない。チェさんの弟子になった女性はおそらくこの李京子という人か、それに近い先生に服飾学を学んだのであろう。それでも韓服の伝統衣装を日本に紹介するのに、大学の学者ではなくて職人として習練を積んで来た人を前面に押し出すのは好感が持てる。ただし、チェさんにしても、伝統衣装を復元するためには参考となる古い衣装が必要であるし、また文献も欠かせないはずで、大学にいる人と実技の腕を持った民間人が協力しなければ、後世に伝えるべきモノは生まれない。今回の展示に併せて同会場で講演会が開催された。演者として梨花女子大からひとり、そして日本側からは仏教大と神戸大、そしてみんぱくからもひとりが参加した。やはり、いざ話す場となると、学者が名を連ねる。それでも主役はチェさんで、後の全員は添えものだ。
 80年代からだろうか、日本ではキルトづくりが盛んになって、毎年さまざまな展覧会が百貨店を中心に開催される。チェさんは1992年に東京ドームで行なわれた第1回国際キルトフェスティヴァルで海外作家の30人のうちのひとりとなって来日、実演した。その時は芸術作品としてではなく、朝鮮の伝統衣裳を作る過程で必然的に出るあまり布を用いた実用的なポジャギを出品した。それはとても好評で、2002年には神戸、翌年には奈良倶楽部で、それぞれ個展を開催するまでになった。奈良では100点ほどのポジャギを出品したが、作り方の講座はすぐに満席になり、日本側の企画者は後にチェさんの工房を訪れてポジャギや韓服を注文もしている。つまり、針仕事に関心のある女性を中心にチェさんの仕事が日本で少しずつ知られるようになって来て、今回はついにポジャギではなく、ソウルの景福宮に2005年に建設された国立古宮博物館から依頼を受けて作って来た伝統衣裳の一大展示となった。ただしパンフレットにもあるように、これらは朝鮮の伝統衣裳を系統的に網羅したものではなく、ごく一部に過ぎない。また、チェさんは同博物館に納める作品とは別にもう1点ずつ並行して制作していて、今回はそれらから持って来た。よく見慣れていると思えるチマ・チョゴリにしても、さすが商品として並ぶものとは違って色合いや生地が上品で、全体に落ち着いた印象を与えるものばかりだ。それでもなお、専門的に言えば昔のものに比べると色合いはどうしても派手目になっているし、ザクロや寿の字を文様化した印金も、金箔のつき具合や並び方があまりに完全過ぎて、機械で捺したものであることがわかってしまう。子ども服に主に多く施されている刺繍に関しては、明らかに手刺繍のよさがうかがえ、日本の伝統衣裳に比べるとはるかに模様の少ない韓服にあって、ほどよいアクセントに見えた。マネキンに着せたり、壁から下げるなり、展示数は100以上はあったと思う。広々とした会場をパネルで仕切って、子ども服、男性服、女性服の3つのコーナーに分け、またチェさんを紹介するビデオ・コーナーもあった。韓国の伝統衣裳が反物を使用するのは日本と同じだが、キモノとは違って筒袖の上衣であるチョゴリは、壁にかけると、ちょうど両袖がトンボの羽のような形に見える。また極端に身丈が短いチョゴリの裾もキモノのように平らではなく、カーヴを描いている。これらの曲線はチョゴリごとに少しずつ異なるが、どれも絶妙でそこに朝鮮の美意識のすべてが内在していると見た。また、キモノとは違って曲線に生地を裁断するために、あまり裂が生ずるが、それを集めてポジャギを作ったというのは、全く欧米のキルトと同じ考えだ。反物を全く切り捨てることなく仕立てるキモノとはそこが大きく異なる。
 チョゴリは通常は無地だが、襟と袖口だけは色が変えられる。そして男の子を生んだ女性だけが着用を認められた袖口の色というのもあって、チョゴリひとつでどういう女性かがわかるようになっていた。こうした色の対比やたとえば絹の光沢、地紋、麻特有の透け具合などが相まって、チョゴリひとつで1個の芸術作品そのものに見えた。また袖口をカラフルな縞模様として色の違う生地で彩るセクトン・チョゴリもあって、全部の縞の色が違っていて、10数色も縫い合わせてあった。これらの縞模様は完全な左右対称に並び、身部分の無地や襟の色がまた違うため、全体としての色の交響は抽象絵画そのものと思わせ、どんな絵画的模様もかなわない強固な構成美を形づくっていた。日本は衣裳に模様を取り入れて季節感を象徴的に表現して来たが、同じく四季がはっきりしているにもかかわらず、朝鮮では季節に応じたそうした模様を衣裳に用いることはなかった。また、騎馬民族の衣裳の影響を受けていて、それは筒袖という防寒に便利な形にも見られるが、ヨーロッパのように襞を取って縫うことをせず、反物の幅のままを平面的に用いる点では日本とは共通している。それにしても日本とは明らかに違う美的感覚が生んだ衣裳で、それはよく言われるように、身にまとった際の線の美を強く考慮している。このことは朝鮮の造形のあらゆる分野にも見られる。子どもの衣裳が最も華やかでかわいらしいのは言うまでもないが、女性の衣裳に比べると男性のものはまた全然違った形をしていた。これは今NHKで放送中の『大長今』でもよく見られるように、壁にかかっていると、とても大き過ぎて異様に見えるのに、実際に着用するとそれなりに風格が出て来るから面白い。男女ともに袖幅がまるで身長ほどもあるかと思える衣裳もあったが、これは日本の能衣裳でも同類のものがあり、意外ではない。布をたっぷりと使用した衣裳ほど位の高い人が着用したが、これはヨーロッパでも同じことだ。それだけ贅沢であり、また防寒にもよいからだ。日本と韓国が違うのは、韓国人により騎馬民族の血が流れているからかもしれない。馬は日本にもいたが、玄海灘を泳いで行き来することは出来ず、日本は中国や朝鮮半島から文化を伝えながら独自のものを醗酵させ続けた。前述した本「韓國服飾史論」では古代朝鮮の壁画から図版がいくつも掲げられていて、その中には日本の高松塚の古墳の壁画もある。染織品は寿命が短く、古代のものはほとんど残らないが、日本の服飾史を繙く時、それは韓国の上古とだぶる点が多いから、今回の展覧会を通じて、日本の辿った道を改めて知るにはよい機会であったと思う。
by uuuzen | 2006-03-11 00:58 | ●展覧会SOON評SO ON
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