人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●『前田藤四郎展』
先月18日に伊丹市立美術館を見た後に行った。同館は5時の閉館だが、どういうわけか10分ほど過ぎて見ていても押し出されなかった。こういうおおらかなところはありがたい。



●『前田藤四郎展』_d0053294_1511085.jpg大体5時に美術館が閉館するのでは、勤め帰りのサラリーマンは足を運べない。そこで百貨店の美術館では8時といった遅くまで開いて客集めをする。伊丹から大阪に出て、市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室に訪れた。思いのほか到着するまで時間を要し、午後7時までの閉館まで残すところ40分であった。これではまともに見れない。入ってすぐ、男女ふたりずつの4人が作品の前でよく響く声で話していて、これにかちんと来た。振り返ってにらみつけても素知らぬ顔だ。男の方は気が引けるのか、声を落としていたが、40代半ばの、かなり変わった「芸術的な」服装をした女は腹に響くほどのバリトンで喋り続け、声が天井にバリバリ反響し、室内が揺れていた。こんなに図々しく喋るのに出くわしたことがない。不満をそばにいた家内にぶつけていると、いつの間にやら係員がやって来て喋り続ける女に注意した。たちまち連中は休憩室に去った。家内が係員に言ったのだ。係員はよくぞ言ってくれたという顔をしながら、家内にこうつけ加えたそうだ。「注意すると逆上して食ってかかるお客さんが多くて困るのですけれど、別のお客様から困るという声がありましたら、伝えやすいので助かります」。人が静かに観賞しているのに、まるで喫茶店にいるのと勘違いしているのがわからない。ついでに思い出したので書いておくが、先月初めに見た『平山郁夫シルクロード美術館展』では、最後の展示室で突如携帯電話が長く鳴り響き、そしてかなりお洒落で知性もあるように見える中年女性が鞄の中からその電話を取り出してへりくだった様子で長々とよく通る声で話し始めた。係員が飛んで来て電話をやめさせるべきか、あるいは追い出すべきなのだが、誰も注意しない。電話はそのまま5分ほど続き、そのあまりに傍若無人な態度についに筆者は頭が熱くなって、つかつかと歩み寄って、はっきりと聞こえる声でこう言ってやった。「うるさいんです!」。すると苦笑いをして出口から姿を消したが、20分ほど経ってそこから出ると、まだ立って話をしていた。とにかくこういう自分本位の女が増殖しているようで、昔ならアホなおっさんがやったようなことを今は平気でまねをする。そういう女に限って中年男性を「おっさん」と見下すが、そういうあんたは「おばはん」なんだよ。
 枕が長くなった。この展覧会は生誕100年記念だ。「”版”に刻まれた昭和モダニズム」と副題がある。生誕100年となると、去年秋に見た『今竹七郎展』を思い出す。ふたつを見比べると確かに共通した空気が流れている。それがモダニズムだが、大正から昭和初期にかけて大阪は日本を代表するモダンな都市で、そうしたことに光を当てた展覧会が近年は多い。だが、前田の版画は今竹のような商業美術の分野で語られるべきものではなく、欧米から入って来る当時最先端の美術の動向に影響を受けて作った版画、つまり鑑賞用の美術作品で、あまりモダニズムという言葉でのみくくってほしくはない。図録が売られていたが買わなかった。家に昔買ったものがあると思ったからだ。だが、調べるとなかった。この昔の展覧会とは、1991年に今はない梅田のナビオ美術館で開催された『前田藤四郎遺作展』のことだ。その時のチラシやふたつ折りの経歴、作品目録が手元にある。当時はひょっとすれば図録は作られていなかったかもしれない。伊丹市立美術館の前の館長である大河内菊雄がチラシ裏面に文章を寄せていて、ナビオではなく、同館で開催されてもよかったことを示唆する。大河内氏はほんの少しだが、言葉を交わしたことがあるが、とても柔和で知的な印象の人だ。同館をあそこまで充実させた功績に対して最大限に評価したい。91年の遺作展は没後1年目に開催され、出品は75点でさほど多くない。今回は160点と資料の展示で、空前の規模だ。実際、チケットやチラシにある作品を初め、今までに知らなかった作品が多かった。これらは平成7年に夫人の春子より寄贈されたもので、大阪の美術館にまとまって入ったことは喜ばしい。だが、肝心の近代美術館が一体いつになれば建つやらで、まことに大阪は芸術面に関しては昔々から少しも事情が好転していないことをよく示している。前田は明石の生まれであるので、あるいは明石も寄贈を受けたかもしれず、そうなればそのうち同地で常設展示がなされるかもしれない。
 明治37(1904)年に生まれた前田は神戸高等商業学校を卒業して松阪屋大阪宣伝部に入り、すぐに徴兵されて入営中に版画に興味を抱いた。除隊後、昭和4(1929)年に大阪東区淡路町の親戚が設立した宣伝広告印刷会社「青雲社」にデザイナーとして勤務し、その傍ら版画制作を行なった。この年に春子と結婚し、やがて春子には喫茶店エピナールの経営をさせもする。エピナールとは17から19世紀末頃までパリ東南のエピナールで生産された素朴で庶民的な版画で、前田はその味わいを好み、自分の作品と共通するものを感じていた。昭和6(1931)年、27歳で大阪の版画グループ羊土社を結成するが、これは明治末から大正期にかけて「自画自彫自摺」の創作版画運動の波を受けたものだ。関西では昭和初期よりグループの結成や雑誌の刊行が相次いだ。ちなみに京都では昭和4年に三紅会と京都版画協会が発足し、前田は翌年に前者に参加している。羊土社には年1回東京から平塚運一を招いたが、こうした著名版画家の交流関係を探る展覧会の開催も待たれる。羊土社は版画誌『羊土』を同時に創刊し、同じ昭和6年は京都の徳力富吉郎の『大衆版画』の創刊もあって、前田は賛助会員になっている。京都と大阪の版画家は密接に関係したことになる。また前田は昭和8年に黄楊社を起こして『創作版画・黄楊』を創刊し、京阪神の作家を結集させるが、このあたりから大阪を代表する版画家の風格が確立したと見てよい。写真を見るとごく普通の知的な印象の青年だが、晩年は腹もでっぷりとし、貫祿充分の風貌になった。
 作品は、1「モダニズムの渦の中で」、2「沖縄の変貌から戦後まで」、3「木目、旅、風刺、そして永遠の青春」という3章に分けて展示された。これはなかなかよい分け方で、前田の作風の変遷がよく実感出来る。時間が少なかったので、3はほとんど2、3分で見た。機会があればもう一度出かけたいが、今月21日までとなると無理かもしれない。まず第1章を説明する。学内で前田は美術グループ「青猫社」を結成した。入営中に平塚運一の『版画の技法』(1927)を片手に独習し、リノカット版画を試みた。これは19から24歳までのことであり、若い時期にこうした出会いを得ることの大切さをよく伝える。いつまで経っても自分のやりたいことがわからないと呟く若者はいつの時代でもいるが、やりたいことを20代半ばまでに見出さなければ、その後の大成はまずない。考えるより前に先に手が動いて何かを作っていたというのでなければ、後年において作家としての花は咲かない。理屈より前に作ることだ。話を戻して、100歳以上まで生きた平塚の全貌展はなかなか開催されそうにないが、今年早々島根県立美術館で見た平塚の版画は予想していたとおり、きりりとしてしかもおおらかさがあり、また匂い立つような気品があった。そうした作品を生む才能はもはや平成以降の日本からは生まれ得ない気がする。前田がその平塚の書物から学んで出発したことは面白い。だが、前田は前田の道を行く。リノカットはリノリウムを使用したもので、簡単に言えばゴム版だ。ピカソにも作品の例がある。前田は入営中に盛んにスケッチをし、それらは後の作品に活用される。昭和4年に第7回春陽会に「散髪屋」を出して初入選、同年は帝展にも水彩画が初入選し、これで松阪屋を辞めることにした。昭和10年代半ばまでの作風はシュルレアリスムで、マックス・エルンストを彷彿とさせる作品が多い。また出入りの印刷会社に頼んで写真製版の原版を作ってもらい、それをカットしたリノリウムに埋め込んで印刷するという複合的な技法による作品「時計」(1932)もあって、色彩や絵は複雑に構成されている。これは技法的コラージュと言えるが、描写される絵そのものもシュルレアリスム特有の異質なものを同居させて意表を突くものが目立つ。こうした絵の素材は青雲社での仕事の傍ら収集した商品カタログの図版や、あるいはドイツの医学書『人体の構造:人間の解剖学的描写』といった書物だ。今回はその実物が資料として展示され、作品との興味深い比較が出来た。このようなネタになる素材は一般の人では入手しにくいものであり、昔も今も斬新なものを作り出すには、それなりに特別のところでしか入手出来ないものを確保しておく必要があることをよく示す。
 前田のシュルレアリスム期の作品の参考となったエルンストの作品は、1919年には世に出ているから、7、8年の遅れがあったことになるが、これはいかに当時とはいえ、かなり遅れていると思える。しかし、版画を始めたのが20年代半ばであったのでこれは仕方がない。また、エルンスト風とはいえ、前田独自の温かい色合いはすでによく現われていて、日本独自のものとして別の面白さを見るべきだ。エルンストの作品はいかにも冷徹で夜を感じさせるが、前田のは昼間の陽気さがある。これは版がリノリウムや木版という柔らかいものであることにもよるだろう。「美女と野獣」(1931)、「豊胸術」(1930年代)、「ジャン・ギャバン」(1931)といった作品はみなリノリウム版で、題材がいかにもモダンであるのが、この時代の大阪、そして前田の趣向を反映している。「香里風景」(1931-2)は野外に横たわる材木を描き、京阪沿線の香里団地の宅地開発における現地のモデルハウスで開催された「室内美術展」で発表された作品だ。ここにすでに後年のトレードマークとなる木目が表現されている。「戦争風景」(1933)はレンガ塀の向こうに迫撃砲や兵士、飛行機、煙が描かれるが、戦いの様子に緊迫感はなく、舞台劇じみている。「婦人帽子店」「デパート装飾」「装飾窓」はみな1930年頃の百貨店の陳列をテーマにしたもので、これもエルンストの影響が強い。「地下工事」は横長の比較的大きな作品で、これは1930年代初期、御堂筋で日本初の公営地下鉄工事が進んでいた情景をそのまま写生したもののようで、道路が開削された様子が面白かったのであろう。「INSECT 蝶々採集」(1929)は、リノリウムに一部転写シールを貼り込んでいて、ここにもコラージュの思想が見える。前田は作品に刷った枚数を記さなかったが、これはどうせ売れないとわかっていたからだそうだ。
 昭和14(1939)年に洋画家の山川清と一緒に沖縄に取材旅行し、沖縄に題材を取った作品がしばらく続く。版染の染色である紅型に触発された作品も多く、そのカラフルな色会いは独特の沖縄の風俗の描写と相まって、今までにない新たな境地を開いた。だが、こうした暑い地方に赴く前田は、シュルレアリスム期の作品にすでに見られた暖色を好む作品からは充分に想像出来ることで、突飛な飛躍ではなく、むしろ沖縄は必然的な出会いであった。昭和28年以降は木目を描き込むことに取り組み始め、昭和30年代に全面的に展開する。「飛ぶ鴨」(1931)では、10羽ほど飛翔する大小の鴨の背景は、墨流し染に見られるような複雑な曲線模様の集合で、技術的にも頂点に達していることがわかる。昭和40年は1年かけてヨーロッパ、エジプトに旅行し、同48年は中近東を回った。晩年はまたエルンストや、ロシア構成主義的な作風となり、その大胆な抽象作品は政治風刺も一方で込められるなど、ますます熱い前田の奮闘ぶりを伝える。晩年に至るほど前田の作風は省略が行き届きつつも特異なものとなって、決して弛みは見られない。これが見事で、作家としては大成した。1974年は読売新聞で岡部伊都子の随筆に挿絵を寄せていたことを筆者はよく記憶しているが、今回はその原画も展示された。これらのフロッタージュによる独特の日本的情緒のある作品がどのようにして作られているのか、長年の疑問であり続けているが、今回もまた数秒しか見る時間がなく、謎のまま残った。話が前後するが、「古代人」(1960)は簡単な漢字を思わせる左右対称的な抽象作品で、菅井汲の初期の油彩画を連想させた。菅井の作品の方が数年早いので、あるいは前田は新しい時代の抽象絵画の動きを察知し、自分なりに消化したのかもしれない。庶民的な版画家とされる前田だが、そんな貧弱さを感じさせる呼称は不要だ。大阪がもっと芸術豊かな土地とみなされるようになった時、前田の作品は全然別の見方がされ、しかも貴重な才能と目されるに違いない。それだけの貫祿のある偉大な大家だ。
by uuuzen | 2006-03-03 01:51 | ●展覧会SOON評SO ON
●『冬のソナタ』 >> << ●『模型で世界旅行』

 最 新 の 投 稿
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?