●『グランド・ツアー 美的観光のすすめ』
18日に行った。兵庫県立美術館の途方に暮れる巨大さに比べてこの伊丹市立美術館はこじんまりしている。阪急とJR、どちらの伊丹駅からも近く、特に阪急からはパチンコ屋もある短い商店街を抜けるので、下町情緒を好む筆者はここに来るたびに何だかほっとする。



d0053294_153866.jpg伊丹は文化度の高い町で、この美術館の隣は江戸時代の造り酒屋そのままの木造と漆喰壁の建物を備え、その前を歩くたびにしばし江戸時代に舞い戻ったような錯覚を覚える。小京都と呼ばれる地方の町に行けばまだそんな空気は残ってはいるが、京阪神の都市部にあっては珍しい。何でも江戸時代の木造建築にすればそれで心が和むという主張をするつもりはないが、近代的だとばかりに、せいぜい数十年で建て替える必要のある鉄筋コンクリート造りもまた問題がある。さて、この展覧会はあまり関心がなかった。館蔵品中心の展示であることが想像されたからだ。結局予想どおりに館蔵品、そして兵庫県下の美術館から作品を借りての展覧会であった。しかも、タイトルは去年秋に大阪で見た『旅する”エキゾシシズム”』を連想させるもので、これでは同工異曲で、学芸員の企画力のなさも見える。そして、実際に展示されていた作品には同展と同じものさえあった。美術館が林立し、いつも何か特別展を開催する必要があるとなれば、こうした事態が避けられないのは当然だ。常設展では人は呼べないから、企画展を開いて入場料も少し割高にする。しかし、そうしても美術館はほとんど赤字事業だ。そんな中、この美術館は独自の展覧会を昔からコンスタントに開催している。その点において、筆者が最も好きな美術館と言ってよい。作品がある視野のもとに系統的かつ継続的に所蔵され続けているとは言わないが、それでも他の美術館にない特色を持っていて、版画、特に風刺的なものが所蔵の中心を成している。所蔵品、そしてなるべく近辺の美術館から作品を借りて、あるひとつのテーマで企画展を開催することは、どの美術館でも大なり小なり行なっていることで、それは同じ作品でも他の作品との組み合わせによってまた別の見方が出来るという考えからであって、小予算でどうにか新鮮味を出そうとの涙ぐましい努力とも受け取れる。だが、これはすでにたくさんの作品を見て来た筆者のような者の考えであって、毎年若い美術ファンは生まれているから、今回の展覧会で初めて作品や画家の名前を知る人はいる。その意味で、美術館は常設展こそを根本にすべきなのだが、展示面積に比して所蔵作品が多過ぎる場合はある一定の年月を置いて展示替えし続けることでしかすべての作品の公開が済まない。そしてどうせ展示するなら、前とは違った切り口が望ましい。それを考えるのが学芸員の仕事で、今回は企画展的常設展と定義出来る。
 会期は2か月少々で、途中で展示替えがあった。それほど用意した作品が多いのだが、9割以上が版画、しかもシリーズものであるので、作品はたくさん用意出来たわけだ。「グランド・ツアー」という言葉は18世紀のイギリスで生まれた。貴族の子が見聞を広めるために、お供を連れてヨーロッパ各地を旅行したことを指すが、旅行は次第に大衆化してヴィクトリア時代末の20世紀直前には中産階級や労働者階級にまで広まった。旅行業者としての開祖で有名なトマス・クックは、1841年に初の列車の旅を企画し、これで大当たりを取って企業を拡大し、1851年のロンドンにおける万博で客集めを依頼されて大成功を収めた。1855年にはパリでも万博が開催されるが、クックの「パッケージ・ツアー」の勢いはますます大きくなり、世界一周の旅の途中でクックは日本にも立ち寄るほどになる。この展覧会はそうした時代に焦点を合わせたもので、出品リストを見ると、19世紀のものが目立つ。クックの発明したパック・ツアーは20世紀になって普遍的なものになり、現在の日本でも花盛りどころか、日常的なものになっているが、そのことを受けて今回の展示にはごく近年のものも含まれる。「観光」に関する作品を内外問わず幅広く見ようという趣向で、壮大過ぎてまとまり感に欠ける嫌いは大いにあるが、逆に見れば、訪れると何か心に残る作品があるとのサーヴィス心ゆえであって、そう目くじらを立てることもない。展示は6つのセクションに分けられていた。1「旅への憧れ」、2「名所の風光」、3「旅のかたち」、4「万博と近代ツーリズム」、5「出発進行!」、6「漂泊する心」だ。セクション1は数点、2は長谷川潔、浅野竹二、織田一麿、前田藤四郎、川西英が中心で作品が多い。長谷川の作品は京都国立近美の常設でいつも見ているが、久しぶりに見た浅野はよかった。特に1934年の「新京名所 出町淡雪」は、後年の抽象的な画風とは違い、現在とほとんど変わらない出町柳の景色を写実的に表現し、この作家が若い頃にしっかりとした写実から出発したことを再認識した。1950年代の「南座顔見世」「北野神社早春」「平安神宮春」など、どれも今と変わらぬ光景でいて懐かしさが宿る。筆者は京都を題材にした古い作品が好きだが、その部類にこの浅野の作品を加えたい。代わって織田の「大阪風景」だ。会期中20点の出品で、これは今回の展覧会ではドーミエに次いで多い。リトグラフによる1917年から19年にかけての大阪市内各所の風景で、これは作られた当時はさほどでもなかったに違いないが、今となっては失われた町角の景色が多く、貴重な記録だ。大阪には大阪なりのいい情緒があるが、それは20世紀初めはもっと顕著であったように思う。「四ツ橋雨景」という作品は、今では四ツ橋交差点のどのあたりをどういう方角から見て描いたかさっぱりわからなくなっているため、タイトルがなければまずどこかわからないが、タイトルによって見る者は想像を逞しくし、そしてかすかに同じ空気がまだ同地に残っているかと一種の錯覚をする。これもまた絵画鑑賞のひとつの切ないあり方でもあろう。次に、前田に関してはこの展覧会の後に心斎橋に出て展覧会を見たが、ここではそれには展示されていなかった「大阪の四季」の4点が出ていて、その抽象表現が面白かった。川西はチケットに作品が印刷されているが、これは神戸市立博物館の常設でよく見るものだ。いずれまとまった展覧会を期待したい。
 セクション3はドーミエとジェイムズ・ギルレイ、・ジョージ・クルックシャンクの作品ばかりで、全部この美術館の所蔵だ。今回の圧巻はこのセクションと、同じく3人の版画によるセクション4、5にあった。これら3つのセンクションは似た内容だが、各タイトルにあるように、一応内容を絞って見やすくしてある。どのセクションでもドーミエの作品が半数以上を占めていて、簡単に言えば、この展覧会は「ドーミエ再発見のための作品観光」とみなせる。そして、それは実際そのとおりで、帰宅してしばらくドーミエ展の図録を引っ張り出して眺め、改めてドーミエのことを考えた。今も手元にそれは置いたままだが、何よりドーミエの顔写真がよい。すっかり白髪で、もみあげから顎にかけてぐるりと生える髭も同じように白い。何歳の頃の写真かは知らないが、たぶん視力が衰え始める前の50代半ばであろう。となると筆者と同じ年齢の頃か。54歳の時にドーミエは詩人で写真家のカルジャからお金を借りていて、その頃に撮影してもらったものかもしれない。このドーミエの顔を見ると、そしてその生涯を思うと、いつも涙が滲む。生涯に木版画、石版画を中心に5000点も作品を残したというのに、晩年の10年ほどは視力が衰え、やがて失明して貧窮のまま71歳で世を去った。60歳の時、親しかったコローが家を買って贈ってくれたが、この友情も胸を熱くする。レジオン・ドヌール勲章を二度も拒否し、ささやかな年金をもらっての生活であったが、死んだ時は村から葬儀代12フランが出て、墓石もごく小さな柱が建てられただけであった。天才の末路は大体このようなもので、生前有名になり、大邸宅に住むという芸術家は何か間違っているとさえ思う。ましてや生きている間に個人美術館など、言語道断だ。ま、それはいいとして、ドーミエの作品は漫画的と言ってよいほどに誇張されて描かれているが、人物がみな生き生きとしている。添えられたちょっとした文章を読まなければ絵の面白さが伝わらないという点で少し損をしているが、ドーミエは油彩画や彫刻も作ったのに売れることはなく、日々生きて行くために新聞に描かなくてはならなかった。だからと言ってドーミエが二流画家だろうか。かっちりとした額に入った油彩画や日本画を描く画家はそれだけで自分が芸術家だと自惚れやすいが、ドーミエの絵はルーヴルに学んで大衆にあった。通俗的一辺倒であったからではない。俗受けだけするものがはたして150年も経ってなお人を暖かい気持ちにさせるだろうか。ドーミエの作品を見た後、人間嫌いに陥る人があるだろうか。絵の重要な点のひとつはそこにある。それを忘れて一流はない。
 セクション3のクルックシャンクの「イギリス蜂の群衆が皇帝の馬車に群がった!!…」は、1835年の作だ。この時ドーミエは28歳、ちょうど風刺漫画家として有名になった頃だ。この版画はワーテルローの戦いで敗戦退位したナポレオンの馬車や身の回りの品々が公開され、それを見るために人々が押し寄せたことを描く。いつの時代でも変わらぬ人々の物見遊山の精神を見る。ドーミエの作品は1844年の「パリのお上りさんたち」というシリーズが16点出ていて、いずれも題名が示すとおりの田舎者が都会に旅行した時の滑稽な状況を描く。因みにドーミエは8歳の時にマルセーユからパリに出た父親からパリに呼ばれて暮らし始めたが赤貧の暮らしぶりで、10代半ばまでドーミエは使い走りをしていた。ルーヴルに通って名作を研究し、16歳で最初の政治風刺漫画を描くが、政府に対する侮辱のかどで24の時に投獄されたりするから、権力風刺は筋金入りだった。セクション4の最初の作品はクルックシャンクの「世界中が1851年の大博覧会見物に行く」という、はがきよりやや大きい作品だ。これは地球を画面いっぱいに描き、頂上に置かれた万博のシンボルの水晶宮に向かって世界中の人々が押し寄せている様子を表現している。全く漫画そのものだが、宇宙から見ているようなその視点の置きどころが面白い。ドーミエにはこうした感覚はなく、もっと人間に間近に捉えた絵を描く。このセクションのドーミエ作品は1855年制作の「万国博覧会」の19点で、これも現在の万博における人々の様子と同じで、作品として全く風化していない。センクション5ではギルレイの「けちなT.O.に何ができる?…」がまず目を引いた。T.O.とはトマス・オンスロー伯爵(1755-1827)のことで、この人物は4頭立て馬車使いとして知られたという。今で言うならば、カー・マニアだろうか、御者役となって馬車を駆る楽しみを持った伯爵がいたわけだ。ドーミエの作品は「列車は楽し」(1852年)、「鉄道で」(1864年)といったシリーズからで、クックが開拓した列車での旅が大衆化した時に見られた面白い世相を題材にする。イギリスにおける蒸気機関車の発明は1804年、初の商用鉄道の開通は1825年であった。アメリカでは1827年、フランスは1837年、日本では1872年にそれぞれ開通したが、1840年当時鉄道は時速60キロで、馬車の4倍の速度があった。ついでに書くと、フランスの鉄道の車体構造は4輪馬車(ディリジャンス)の分割法を元にしているが、馬車は、3人がけの一番前の「1等(クーペ)」、中仕切りの「2等(アンテリュール)」、一番後ろは6人ベンチに10人押し込められることもあるエコノミーの「後仕切り(ロトンド)」、そしてクーペのうえの「屋上席(アンペリアル、キャブリオレ)」という最安の席もあって、事故があれば悲惨なことになった。そうした事件を扱った作品も今回は展示されていた。最後に簡単に書くと、セクション6は里見宗次やカッサンドルの有名なポスター、小野竹喬の「奥の細道句抄絵」の下絵などで、盛りだくさんな内容であった。
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by uuuzen | 2006-02-27 01:54 | ●展覧会SOON評SO ON | Comments(0)


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