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●『平山郁夫シルクロード美術館展』
京都高島屋で2日に見た。30年前、京都市芸の油絵を描く学生と知り合ったことがある。キモノの反物の湯のし屋の息子で、筆者の仕事上から出会ったのだが、卒業制作展の裸婦の作品を見に行ったことを昨日のように覚えている。



●『平山郁夫シルクロード美術館展』_d0053294_1722867.jpgある日、その学生の運転するバイクに乗せられて京都市美術館から5分ほど走り、とあるジャズ喫茶に連れて行ってもらった。そこで彼はまずこんな質問をして来た。「平山郁夫の絵はどう思いますか」。筆者は興味がないと言うよりも、むしろどこがいいのかわからない絵であったのでそう言うと、彼は急に大きく笑顔を作ってこう言った。「ぼくもそうなんですよ。あんなきれいごとの絵には全然興味はないです。絵とはもっと違うものだと思っています…」。そのようにして小1時間ほど話をした。彼は卒業後は画家として生きるのではなく、もう就職先は決まっていて、デザイン関係の会社に勤務するとか言っていた。それから家業の湯のし屋は廃業になり、家のあった場所も大きなホテルが建ってとっくの昔にすっかり様子が変わった。彼とはその後会っていないが、どんな人生を送っていることだろう。芸大を出てもみんなが芸術家になれるわけではないし、第一、芸大に入る際に就職先を考えるのは御法度のようで、卒業後の身の振り方はそれぞれ自分で決めなければならない。だが、京都市芸のような一流の芸大を出て画家になれば、やがてそれなりに順番が回って来て、いずれはどこかの美大の先生や教授になれる。したがって、日本では芸術の道もサラリーマンと同じで、世間で有名な大学を出ていることに限る。さて、そういうわけで筆者は平山郁夫については長年関心を持てないでいる。去年、滋賀の佐川美術館を訪れた時のことを書いた中で、平山の絵には多少触れた。ほとんどそれで言いたいことは尽くしていると思うから、わざわざまたこんな展覧会に出かける必要はなかったが、高島屋のグランドホールには筆者の部屋から30分とかからずに到着出来るので、暇潰しに出かけた。
 平山郁夫とシルクロードは昔から分かち難くつながっている。シルクロード展に関してもこのブログではかなり書いて来たが、とにかくシルクロードの言葉を適用出来る国はとても多いので、シルクロードを題材にすると、画家としては一生ではとても足りない。その意味で平山の目のつけどころはとてもよかった。そんな豊富な題材の中でも特に仏教は日本文化の支柱になっているから、日本ではある程度は何を描いてもシルクロードに強引に結びつけることが出来ると言ってよい。平山が美知子夫人とともにシルクロードの旅を始めたのは38年前のことだそうだ。この様子は何度もこれまでTVや展覧会などで紹介されて来たので今さら書くまでもないが、夫人の支えがあってこそ現地での写生も安心して出来たはずで、平山の仕事の半分は夫人の存在があってこそだ。これは世間一般には、有名になるどんな男にでも当てはまることとされる。男が立派な仕事を成したとして、その陰には必ず妻の支えがあって、結局は妻が立派であったからこそ夫も成功したと見られる。これはある程度確かにそうと言ってよい。語弊がないように言っておくと、「妻が立派」すなわち「献身的に尽くした妻」では必ずしもない。「男を奮い立たせることが出来た妻あるいは女」の意味であって、悪女であってもかまわない。それでも、有名な芸術家でも女の存在が希薄な場合もあるので、あまりおおげさに考えることもない。ただし、平山郁夫の場合は美知子夫人の存在が昔からかなり目立つ。それは夫と一緒にシルクロードの旅をした時に買い集めた文物の紹介という形による。筆者は本業が染色であるので、シルクロードの染織品に関する展覧会や書籍には多少の関心を抱いているが、これまで何度か美知子夫人が収集したそれらの染織品の展覧会が開催されたことは知っているし、実際に出かけてもいる。それでいつも正直に思うのは、「よくぞこれだけ集められたな。資金はどうなっているのだろう」という、誰しも思うはずの素朴な疑問だ。夫婦でシルクロードの旅に出るだけでも経済的に大変であるのに、おまけに美術館に展示して恥ずかしくないような珍しくて古い文物を買って来るとなると、財布の中が一体どのようになっているのかと思わざるを得ない。これは展覧会の入場料の1000円程度をいつももう少し安くならないものかと思っているような筆者のような貧乏人の場合は特にそうのはずで、平山のように東京芸大の学長ともなれば、とんでもない高額の給料ゆえ、そのような資金面の問題は何ら考えずに済んでいるのだろうかと、つい納得してしまう。
 それにしても38年間の旅で収集した品物の数が1万点と聞くと、やはり尋常な経済力ではない。1点1万円でも1億円だが、まさか1万円のはずがないので、安く見積もっても全体で数十億円だろう。個人の収集でそれほどの大金を投入するには、どこかでそれを賄う収入があることが前提になるが、それは結局平山の描く絵を換金してのことでしかないだろう。そしてそのような錬金術をこの40年弱の間に大いに発揮し続けていることの陰に美智子夫人の才覚を思う。まだまだシルクロードの文物が安く入手出来る間に買い漁り、そしてそれらを紹介する展覧会や書籍を通じて得たさらなる収入をまた文物の収集に回す。こうすれば倍々ゲームのようにして品物は増えるし、また有名にもなって行く。たぶんそのような形で来たこの40年ほどではなかったか。もちろん平山の絵が万人向きで、本画はたとえば佐川美術館といった大きな資力のあるところが買い取り、一般の愛好家向きには版画を用意して、それを大量にばら撒けば、数十億程度の金額など問題なく集まるだろう。たくさんいる画家の中にはそのような経済的成功と知名度を獲得する者が多少あって当然であるし、それが今はやりの言葉で言えば「勝ち組」となるが、芸術は個人と個人の対話が命であって、団体でわいわいと騒いで楽しむものではないことを思うと、勝ち組であろうが負け組であろうが、そんなことは個人が鑑賞するうえでの絶対的指標には何らなることはない。むしろ、金銭がまとわりついた世俗的な臭いがぷんぷんするものよりも、そんなところからは離れて屹然とあるものの方が神々しさを感じたりもする。とはいえ、こんな考えは人によりけりだ。他人に押しつけるつもりはない。
今回は山梨県北杜市にある平山郁夫シルクロード美術館の作品が展示された。平山の絵はわずかで、大半は38年間の収集品から選ばれた。全部で100点はちょうどよさそうな数だが、会場はかなり余裕があってすかすかした印象を受けた。時代も地域も広範囲で、まとまりにかなり欠けていたが、これは個人が集めたものであるので仕方のないところだ。同美術館の前身は八ヶ岳シルクロード・ミュージアムとして1999年夏にJR甲斐小泉駅南に開館した。鉄筋コンクリートのこじんまりとした3階建てだ。この隣に尖った切妻屋根が前面に3つ連なるログハウスがあって、そこに夫妻は同地を訪れた時に滞在したらしい。そして2004年7月に館長を平山美知子として、すぐ近くに平山郁夫シルクロード美術館が開館した。この建物も鉄筋コンクリート造りだが、写真で見ると、横長でしかも八ヶ岳シルクロード・ミュージアムの20倍ほどの容量があろうと思える巨大さで、全体が弓なりに曲がっている。殺風景な感じだが、2005年にグッドデザイン賞を受賞している。それで八ヶ岳シルクロード・ミュージアムを別館にして、この新しい建物で平山の絵と1万点近い収集品を順次展示するに至り、今回の展覧会はその宣伝を目的とする。ガンダーラの仏教彫刻や土器、陶器、ガラス器、染織品、装身具と多彩な出品は、その多くは比較的小さめだが、たまに大きなものがあって、どのようにして日本に運んだかと思わせられる。また、現地でそうしたもが重要美術品扱いを受けていなかったのかどうか、それも気になる。平山夫妻は新婚当初は一間の生活だったそうだが、結婚十数年後にアフガニスタンや中央アジア、パキスタンへの旅行を始めた。1971年1月のイラン、イラク旅行の最終日にテヘランの骨董店で13世紀のラスター彩植物文大皿を購入し、これが以後の収集のきっかけになったようだ。展示はまず、パキスタン北西部で出土した4から5世紀にかけての「仏陀像頭部」があった。高さ70センチほどの漆喰像だ。これなどは価格もそうだが、日本に運ぶだけでもかなりの大金を要するだろう。相変わらずそんなことを考えてしまう。灰色片岩で出来た「アトラス」「仏像図浮彫」「仏陀立像」「同坐像」「ライオン像」など、みな同地から出た2、3世紀頃のもので、破損箇所が目立つものもあって一級品とは言えないが、ガンダーラ美術の香りははっきりと伝わる。
 チラシ裏面中央に大きく印刷されている「奉献板(女神像)」に代表されるようなものは今までにほとんど見た記憶がない。これは古代インド王朝シュンガ朝(BC184年頃から同72年頃)のもので、豊穰を司る大地の精霊ヤクシャや多産を司る樹木の精霊ヤクシーを初めとする民間信仰の神々を素焼きの粘度板に表現している。インド北部のタルムク、東部のカウシャンビ、西ベンガルのチャンドラケートゥルから多数出土するそうだが、現在の民芸の土製品にありそうな雰囲気に満ち、どこまで本物か疑問も感じる。とはいえ、展示されていたものはかなり装飾的な見事な造形で楽しい。これとは対象的に抽象表現の立体的土偶があった。これはインダス西方とアフガニスタンとの国境を境とするバローチスタン地方からの出土だ。この中心地のメヘルガルは南アジア初の農耕文化を生んだ場所として知られ、紀元前3000年頃に造形性豊かな女性像が多く作られた。徐々に写実的になって前2500年頃には衰退してしまうが、やがてモヘンジョ・ダロの都市文明へとつながって行く。出品されていたのはBC2700から2500年頃のもので、手元に置いて日常的に眺めたいような逸品だ。続いて展示されていた女神像はさらに特徴的で、ほとんど現代作品かと思えた。アフガニスタン北部から中央アジア南西部を含むバクトリア地方から出土するもので、緑泥岩と石灰岩の2種を用いて、頭部や腕と、そして衣服をそれぞれ違う岩で別々に作って組み合わせる。顔や手に石灰岩、衣服に緑泥岩というパターンとは反対のものもあって、それがまた面白い。岩の象嵌細工的彫刻と言ってよいが、衣服に刻む模様、あるいは頭部に描く顔相の様子がなかなか洒落ていて、とても紀元前2000年のものとは思えない。有元利夫の絵画にそのまま登場しそうな独特の詩的な雰囲気が漂い、人間は本当に5000年ほど経っても何ら変わらないものであることを思わせられる。次の見物は「鳥形リュトン」に代表されるトルコ中央部出土の紀元前7世紀頃の土製の変わった形の容器類だ。こうした実用一辺倒ではない形のものはアンデス文化にも共通して見られるが、ここではさらに壊れやすい形をしているものがあって、遊び心を持つことの出来た文明の余力を伝える。
 次のコーナーは「シルクロードの服飾」で、インドはカシミールの綴織やインドネシアの金糸を多用して腰衣など、数は多くなかった。そして土器や大きな壺ばかりをまとめて展示していたコーナーもあったが、イランや中国、タイなど地域はさまざまで、しかも時代も紀元前2500年からせいぜい今から300年前のものまでとあまりに広範囲で、雑然とした印象を受けた。それでも個々に見るとそれなりに特徴もあって面白いがここでは書かないでおく。最後のコーナーはチケット印刷される「パルミラの貴婦人」に代表される小さな墓の正面を塞いでいた石灰岩の彫刻飾りだ。BC2、3世紀のもので、シリア中央の砂漠にある交易のオアシス都市パルミアから出土した。この都市はローマ帝国とイランに覇権を確率したアルサケス朝パルティアとの中継貿易において栄えた。いかにもローマ風の彫刻であるのがシルクロードというものの広大さをよく伝えている。今回は100点ほどの展示でユーラシア大陸の5000年間を概観したわけで、印象が散漫になるのはやむを得ない。しかし、ユニークなものがぽつぽつとあって行った甲斐はあった。平山は昭和5(1930)年に広島で生まれ、よく知られるように被爆の経験がある。故郷の広島瀬戸田では平山郁夫美術館が建ち、たとえば旅行会社のJTBは「世界の名画に出逢う休日・瀬戸内2日間」ではこの美術館を鑑賞コースに含み、すでに名所となっている。今年の正月明けすぐに筆者は「世界の名画に出逢う休日・出雲2日間」に参加したが、JTBの旅行案内誌ではこの旅と「瀬戸内2日間」を見開きの左右のページに載せる。「瀬戸内2日間」は4か所の美術館を回るが、そのうち見たいのは1か所のみで、そのために迷わず「出雲2日間」を選んだ。それはいいとして、山梨の辺鄙なところに平山のような著名な画家の美術館が出来るのは、観光客誘致には最適で、当然のごとく北杜市の観光ガイドではその筆頭にこの美術館の紹介がある。日本の西から東まで平山の作品を鑑賞出来る美術館が完備し、日本を代表する画家になったと言ってよい。高島屋グランドホールを出ると、3月から同ホールで開催される『日本の美を描く-平山郁夫展』のチラシを見つけた。それを見た後に今日の続きを書きたい。
by uuuzen | 2006-02-16 17:06 | ●展覧会SOON評SO ON
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