破れかぶれになって人殺しあるいは自殺する事件が毎日のように報じられる。新幹線に体当たりして自殺するのは感心せんと、筆者はTVを見ながらつぶやいたが、冗談のような世の中からおさらばしたい気持ちは人間だけのものだろうか。
今朝、1か月前に頼んでおいたキモノの仕立てが出来上がったと電話があったので、正午頃にバスに乗ってそれを引き取りに行き、次に資料調べのために歴彩館に訪れた。館内放送によってコピーが午後4時までと気づいたのはその15分前で、予定の半分もコピーは出来ず、また近日中に出かけなければならない。それはいいとして、天気がよい日にバスで京都市内を巡るのは気分がよいが、すぐに眠ってしまう。それに目覚めた時には考えていたことが思い出せない。今どうにかそのひとつを思い出すと、歴彩館で百年ほど前の資料を見ていると、その著者の内面を覗く気持ちになれるから、この世は古いも新しいもないような気がして来る。人間の記録される歴史が数千年であるとしても、たかがそれだけで、そういう人間の尺度から離れてもっと長い年月で物事を想像するとよい。たとえば、日本はアメリカに戦争に負けて1日で教育その他が激変したが、それと同じように北朝鮮とアメリカの関係が今後激変しても何の不思議もないのに、日本ではそのことに懐疑的な意見が目立つ。日本が1日で国のあり方を変えたのであれば、他の国でもそれはあり得るのに、そういう見方が出来ない。今まで何度も約束を破って来た北朝鮮であるので、今後も絶対に破るという見方が正しいのであれば、日本もいつか1日でまた全く逆な思想の国になるはずだ。民主主義は大多数の意見にしたがうから、日本がある日、北朝鮮のように独裁かつ軍国主義の国になり得る。ま、そのような変節を何度も繰り返しながら、今後数万年以内に未曾有の大災害が起きて、どの国にしてもなくなっている可能性が大きい。もちろん、世界が危ない。そういうことを誰でも一度は冗談半分に思いながら、今この瞬間を楽しく生きたいと考えているが、破れかぶれな行動はそのことが楽しいからなのか。快楽殺人はあるが、自殺は1回限りで、快楽が味わえても次の瞬間に意識を失っている。今日は薔薇の花をあちこちで見かけた。花との出会いは一期一会と言う人があるが、同じ薔薇は同じように毎年咲く。そのため、咲いている数日の短さをさびしがることはない。他の場所で咲いているし、長くても1年経てば同じ薔薇がまた咲く。そう思うと薔薇もつまらないが、それを言えば何でもそうだ。ある美女に憧れていても、別の美女が次々と生まれて来る。自分という存在も唯一無二ではなく、いずれ似たような者が出て来るはずで、自尊心もほどほどがよい。もちろん、澄ましている美女もで、数年経てばその美しさは色褪せ、別の美女が輝いている。最初の写真は5月8日に、
去年6月に投稿した「健気に咲いた白薔薇VIRGO」の写真と対になるように撮った。わが家の裏庭のVIRGOで、真っ白ではなく、ピンク色の斑点が目立つ。別の品種の台木に接いだものだろう。それでは騙されたようなものか。2枚目の深紅の薔薇は先月25日、とある空き家の荒れた庭にひっそりと咲いていたのを折った。薔薇は折られまいと破れかぶれに抵抗し、筆者のシャツに引っかかって、シャツは破れそうになった。薔薇でもそのように抵抗するのに、人間は刃物を振り回されるとひとたまりもない。破れかぶれの人には近寄らないことだが、それがわからないから事件が起きる。筆者は今日、バスの中で誰かが狂気の凶器を振り回すと乗客はいったいどうすればいいかと一瞬考えた。破れかぶれになる人は健気に咲いた薔薇の香りをかいでも心が安らがないだろうか。それを訊いてみたい。