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●『マラソン』
今朝のTVニュースで、韓国の映画俳優たちの抗議行動をしている姿を見た。韓国では「スクリーン・クォーター」という制度によって、映画館での上映の4分の1は韓国映画でなければならないが、国家はこれを緩めようと考えているらしい。



●『マラソン』_d0053294_1524442.jpgフランスでも同じような決まりがあって、外国からの無制限な映画を上映することを禁じている。日本にはそんな決まりはなかったと思うが、そのことによって日本映画が凋落したと考えられないこともない。何でも保護し過ぎるとひ弱くなるし、保護しなければ外敵にたちまち食われてしまうから、この問題は一筋縄では行かない。TVではイ・ビョンホンやアン・ソンギが映っていたが、アン・ソンギのような人が中心になって動けばきっと国もそう無茶なことは出来ないだろう。そして、彼ほどの風格と才能を持った俳優がもっといなくてはならないはずの映画界に、辛うじてと言えば筆者の無知かもしれないが、アン・ソンギひとりというのが、いかにも韓国映画の零細ぶりを見る思いがする。往年の日本映画では無数の貫祿あるスターがいたが、それに比べるとまだ韓国映画は歴史が始まったばかりであるかのようだ。それゆえ、4分の1という上映率をこれ以上は下げられないという必死の思いなのだろう。自由競争がかえって韓国映画を鍛えるという見方も当然あるが、4分の1はさほど多いとも思えず、これ以上割り込めば確かに大きな打撃を受けるのではないだろうか。その4分の1で思うのは、祇園会館で上映される韓国映画がどうもその程度の割合ではないかということで、韓国よりも日本の方が守られているようで面白い。日本ではそれだけ韓国映画が強くなっている。
 ロードショーで韓国映画を見るほどのファンではないが、半年ほど遅れてもなるべく映画館で見たいとの思いはあり、そんな願いをうまくかなえてくれるのがこの映画館だ。ここは近頃主流になっている小人数制でゆったり座席のシネコンとは違って、スクリーンが大きい。これがありがたい。シネコンはほとんどTVと変わらない感じがして、あれでは映画という気がしない。そのために封切りを見なくなったと言ってよい。60年代の大阪の南街劇場で見た70ミリの巨大スクリーンでの上映は今でも強烈にあるが、それ以降映画がどんどん縮小してしまって、ますますTVと大差ないものになった。いずれまた70ミリのスクリーンが復活するのではないかと思っているが、そんな映画を見たことのない若いファンにはぜひ味わってほしい。何でも進化すると思っていれば間違いで、映画に関しては部分的には確実に退化している。そしてそんなことをさせないためにも韓国俳優たちの抗議デモなのだろう。日本の国民はお上に対して楯つくことをあまり考えることもしないが、国家の頂上にいる大統領を国民が決める韓国では日本とは違う民主主義があって、政治に対してはそれなりの抗議行動で示さなければ事態は解決しないという思いがある。これは民主主義としてのひとつの正しい姿だ。韓国の戦後を思えば、デモやストを公然と実施出来るようになったという熱い思いが国民にはあるはずで、血をもって獲得したそうした権利を機会あるごとに主張するのもまた当然のことだ。抗議をしないと、暗黙のうちに容認していると受け取られても仕方がなく、どんどん為政者の思うままになってしまう。抗議をしてなんぼという姿は日本からは見苦しく見えるかもしれないが、それは日本だけの特殊事情で、世界ではそうではない。言うべきことは言い、抗議すべきことは堂々と抗議してからようやく対話の席が開かれると思っておいていい加減で、それをある組織に問題解決を依頼して恐怖で黙らせるということを考えるような為政者がいるとすれば、その国の民衆は不幸だ。と、まあいきなり映画と関係のないような話になったが、韓国俳優のデモという一事を見ても日韓の差が浮き彫りになっていて面白かったのだ。そうした差を軽蔑で眺めても何にもならず、むしろ他国を見て日本の状況を考えることに意義もある。
 『マラソン』はタイトルがストレートでよい。2本立てのもう1本の『甘い人生』は英語のタイトルが「A Bittersweet Life」だったと思うが、これでは「Bitter」を訳しておらず、一種の詐欺行為に近い。観客は映画の中のこの「苦み」の部分を見てみんな驚くはずであるからだ。いや、その見た後の、いささか騙されたという「意外な苦み」をもたらすことを見越して、あえて「甘い人生」と訳したと見ることも出来るから、あながちまずい邦題とも言えない。これをもし「ほろ苦い人生」とすれば、何となくお笑いっぽくなるし、「甘苦(あまにが)人生」では戦前の大衆文学を下敷きにした映画のようになってしまう。なかなかタイトルを訳すのは難しいのだ。そこで、この『マランソ』は実に単純でわかりやすいタイトルだ。映画も主要な登場人物は3人に絞ることが出来るから、見ていても混乱することがない。この映画の前評判はよく聞いていた。涙ぼろぼろの感動ものということだ。だが、泣くほどのことはなかった。むしろ、いろいろ考えさせられて苦しい。自閉症の息子を抱える母親が、息子にマラソンを完走させる物語で、ドラマはただそれだけと言ってよい。近年は特にこのような病気に関するテーマの映画が目立つが、そうした病気に対する世間一般の理解をより深めるという目的のためには少なからず効果があるし、別に文句を言うことは何もないが、このような映画が作られる事情の背景を考えると問題はそう単純ではなく、複雑な思いにとらわれる。自閉症の子どもを抱える家庭がどの程度の割合であるのか知らないが、これが世界的に共通した問題であることはよく知っている。わが家の近所にもそうした子どもを集めて作業させる場があって、同じ光景がこの映画の中にも出て来た。筆者は自閉症と知的障害者との関係に関する知識がないが、この映画ではそれは一緒のものとなっていた。筆者の知る限り、「自閉症」で危険な暴力を日常振るう人はいない。この映画でもそれを示す場面があった。シマウマの好きな主人公のチョウォンは地下鉄でシマウマ模様のバッグを持った若い女性に近づき、それを触ろうとする。それを見た女性の彼がチョウォンを痴漢と思って暴力を振るう。ここは痛々しい場面だ。自閉症には決してそのような粗暴な態度を振る舞う者はいないと主張しているようで、世間の不確かな認識を是正したいという思いがひしひしと伝わる。筆者の親類には知的障害者を世話する施設に長年勤務している者がいるが、たまにあって様子を聞くと、それこそ映画が何本も作られるような話がたくさんある。そんな中で残酷なのは、知的障害者を性の対象として玩ぶ者が少なくないことだ。つまり、むしろ異常で卑劣なのはごく一般の人々で、弱い立場にいる知的障害者を手軽な性の吐け口にしている実態がある。知的障害者が自分の体験をうまく表現出来ないことをいいことにした、それこそ吐き気を覚えるそんな話は実際は氷山の一角で、なかなかなくならない。この映画ではそんな話は描かれないが、それでも痴漢と間違われる場面は、自閉症における性の問題をさり気なく伝えていて、映画を見る者に彼らへの理解を促す。
 映画でもよく描かれていたように、5歳の時のままの知性の息子を20歳までかばって育てあげる母親の苦労は想像を絶するものがある。そのため、そういう母親が息子が何事かを成し遂げることの出来る、つまり無能ではないという世間への証のためマラソンをさせる話は、普通の人がどうのこうのと言える範囲を越えていて、ここにこの映画をして見る者に対する暗黙の圧迫感をもたらしていて、正直な話、見ていても、また見た後も決して楽しくはない。妙に論評すれば、「お前には自閉症の子どもを育てた経験があるのか」と詰め寄られもするだろうし、映画を基本的に娯楽と捉える立場から見れば、この映画はあまりにつらいものがある。「ああ、楽しかった。とても泣けたねー」でおしまいならば、この映画ははたして成功したと言えるだろうか。また、逆にこの映画によって自閉症への理解を深め、偏見をなくしてそうした人々に接近して何かボランティアなりをしてほしいことも求めてはいないであろう。つまり、この映画は映画の中で充足していて、多少は自閉症への理解は得られるとしても、相変わらず自閉症はそのまま今後も存続するという現実を改めて見せつけられる気がしてならない。こうした映画が作られるようになったことは、それだけ社会的弱者がもっと自己主張していいのだという世間の成熟を示すゆえであるのか、あるいは反対に相変わらずそうした人々は世間から隠れるようにして生きておればいいのだという世間の冷たい見方が大手を振っているからなのか、この判断に苦しむが、監督が前者の立場であるのは当然であろう。
 チョウォンを演ずるチョ・ウンスの見事な演技についてはもう言うまでもない。彼は体格がとてもよく、マラソンで走るシーンもよく似合っていた。母親が息子にマラソンを完走させることにどんな意味があるのかという観客の疑問はそのままチョウォンをコーチする人物が映画の中で発していたから、この映画は実に巧みに予防線を張り巡らしているのだが、自閉症の人がマラソンをしてはいけないはずはないし、もしそんな疑問を抱いたとすれば、それこそその人になにがしかの偏見があることを示す。健康な人が何をしても疑問に思われず、一方で何か障害のある人が健康な人と同じようなことをすれば話題になるという姿こそまだまだおかしいのであって、マラソンは健康な人だけに開かれたスポーツではない。映画の中で、チョウォンが母親の姿を画用紙にクレパスで描いた絵がみんなの絵と一緒に展示されている場面があった。それらの絵はみな味があってよかった。絵もまた同じことで、障害を持っている人でもどんどん描いてよいものだ。繰り返しになるが、そんなあたりまえのことをわざわざ言わなければならないほどにまだ世間はこうした人々に冷たく、それを改めてこういった映画で確認するところが、この映画を見ることのつらさの中にある。最近日本のあるチェーン・ホテルが、身体障害者用の設備を取り払って、より金儲け出来るような構造に造り変えていたことが発覚した。そういう経営者は自身がいわば「精神的」に異常なことを世間に示しているわけだが、この映画から派生して思うのはそんな病んだ精神の持ち主のことだ。泣いて謝っていたホテルの社長は、天真爛漫なチョウォンに比べて、何と醜い顔をしていたことだろう。だが、それが世間というもので、そういう連中が大手を振って業界を牛耳っている。韓国でも同様の人間は同じようにいるはずで、であるからこそ、せめてこういう映画で少しでも自閉症者への理解を抱いてほしいと監督は考えたのであろう。社会派的なテーマとして重苦しく描こうと思えばいくらでもそれは可能であったが、決してそうはせずに笑いをなるべく重視していたのは全体に好感は持てた。だが、それは現実は決してそうではないことを暗示もするし、まだ幸福であるチョウォンの背後にどれだけ無数のそうではないであろう自閉症の人々がいるであろうことを感じさせる。こうした一風変わった映画が韓国から登場していることに、韓国映画界の成熟ぶりを見るが、日本とどう違っていてどう共通しているかといった事情が映画からはよく見えて来なかった。似たテーマで今後も作り続けられることを願いたいが、地味なドキュメンタリーとしてではなく、娯楽的側面を前提としなければならない宿命にある映画という枠組みの中でそれがどのように可能なのか、これまた非常に困難な道だ。自閉症に対する世間の冷やかな眼差しを覆すには、本当にマラソン同然の長い道のりと根気が欠かせず、監督はひとまずそのことを見越してこの映画でスタートを切ったのではないだろうか。完走して終わったのではない。まだ始まったばかりなのだ。それもたったひとりの抗議行動だ。
by uuuzen | 2006-02-09 13:14 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
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