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●『ナポレオンとヴェルサイユ展』
『アムステルダム国立美術館展』を見た後、三宮に出て神戸市立博物館に行った。ちょうど宝塚では久しぶりに『ベルサイユのばら』が上演され、何だかそれに合わせたかのような展覧会だ。いかにもお洒落を売り物にする神戸にぴったりの展覧会で、大阪であれば人もあまり入らないだろう。



●『ナポレオンとヴェルサイユ展』_d0053294_17215155.jpg会期は去年12月3日から今年3月19日までで、珍しくもかなり長くて。それだけ大がかりな内容ということだが、感想を言えば、二級品を大量に見せつけられた気がして、感動は少なかった。これはナポレオンが合理的精神に富み、皇帝になってからもあまりゴテゴテとした装飾を宮殿に望まなかったことにもよるかもしれない。2002年からその翌年にかけて神戸と東京で『華麗なる宮廷-ヴェルサイユ展』が開催されたが、今回はその続編的意味合いがある。また今年から17年を要してヴェルサイユの改装計画「グラン・ヴェルサイユ」が行なわれるが、これは19世紀に歴史美術館に模様替えして以来の改修工事で、そのためもあって外国へのこうしたまとまった展示品の貸し出しが可能になった。今回の展覧会はヴェルサイユ宮殿美術館が企画したもので、出品は日本初公開を多数含む150点だ。だが、チケットやチラシに印刷されているアントワーヌ・ジャン・グロ(1771-1835)描く「アルコル橋のボナパルト」(1796)は、1983年の東京富士美術館の開館記念として開催された『近世フランス絵画展』にも出品され、その図録の表紙にもなっていた。この美術館は創価学会が創立したもので、同展はいかにも池田大作の偉人、英雄好みをよく示していたが、会期中にこの美術館の近くまで訪れたのでよく記憶している。それで、話が飛ぶが、この『ナポレオンとヴェルサイユ展』を見た後、梅田に出て古本屋に立ち寄ると、『近世フランス絵画展』の図録が300円で売られていたのですぐに買った。中を見ると、見て来たばかりの作品がいくつも目についた。となれば『ナポレオンとヴェルサイユ展』は二番煎じなものに思えるが、それを言えばどんな展覧会でもそうだ。完全に斬新なものなどもうあり得ない。それはそうと、東京富士美術館では去年12月から『栄光のナポレオン展』が開催されたはずで、相変わらずの池田大作好みを示していた。
 150点の作品は比較的大きなものが目立ったが、ゆったりと展示していたこともあって、11のセクションに分けて1階、4階、3階が使用された。1階はナポレオン、つまりボナパルトがナポレオンになって行く本格的な経歴の導入的少展示だ。最初にまず「国王ルイ16世によるボナパルトの少尉任官証書」があった。ルイ15世は士官の買官制度に対抗して、全員を貴族階級から徴募した将来の士官を教育するために、フランス軍の協調を目的とする士官学校を創設する命令を下し、そのことによってラ・フレーシュやパリのクレルモンの学校が出来た。ボナパルトは1779年から84年までブリエンヌの士官学校で学び、ついで1751年に創設されたパリの士官学校に進み、1785年に卒業して少尉となった。そして砲兵部隊への入隊を許可する証明書を受け取り、1785年10月28日に、52人中48番の成績で任官し、11月3日にヴァランスの連帯に配属された。ナポレオンのこうした初期の兵士としての経歴をまず知っておくと、後の9つのセクションの理解がより劇的なものになってわかりやすいとの配慮だ。各セクションを順に記すと、1「革命」、2「ナポレオンとヴェルサイユ」、3「総裁政府と第一統領時代」、4「戴冠式」、5「戦い」、6「家族」、7「新しい社会」、8「ナポレオンとヴェルサイユ2」、9「ナポレオンとマリー=ルイーズ」、10「ナポレオンとヴェルサイユ3」、11「ナポレオンの最後、そして伝説」で、フランス大革命のあった1789年からナポレオンが死んだ1821年までのおよそ30年を扱っている。ナポレオンと、ナポレオンが皇帝になって住んだヴェルサイユ宮殿に焦点を当てた展覧会であるので、フランス革命の歴史をあまり知らなくてもそれなりに楽しめる内容になっていたが、逆に言えば歴史をよく知る人は説明パネルなど、かなり偏ったものと感じたと思う。タレーランはナポレオンのことを1000年にひとりしか出ないような天才だと言ったが、それは事実としても、そのことだけでナポレオンのすべてが聖人のように正当化されることはない。たとえば、ナポレオンは砲兵部隊に入ったが、これは当時最先端の兵器を司っていたから、見方を変えれば大量殺戮をいかに合理的に進めようと考えていたかがうかがえる。
 コルシカ出身のナポレオンはフランス本国から見れば外国人であったが、いわば傭兵としてフランス軍人になり、それがどうして頭角を表わすようになったかの原因は当然フランス革命に遭遇したからだが、もっと絞って眺めると1795年10月のヴァンデミエールの反乱における手柄がきっかけと言ってよい。それまでにもナポレオンはそれなりに目立つ功績をあげていたが、1793年からその翌年まで、王党派に対して新生したばかりの共和国フランスがとったジャコバン独裁のロベスピエール派との嫌疑をかけられて休職中の身であった。一方、ロベスピエールに反対する勢力が1794年7月にテルミドール派がクーデターを起こしてジャコバン独裁を粉砕した後、インフレーションが激化し、1789年に発行されたばかりの新紙幣のアシニャの価値は4分の1に下落して民衆は極端な食料不足に陥り、ブルジョワ市民層を背後に楯とするテルミドール派は、民衆の反撃と王党派の反革命とを恐れることになった。そして、サン=ロック教会に2万人の王党派の叛徒が集まった時、テルミドール派の中心人物はナポレオンを起用し、大砲を叛徒にあびせることで反乱を鎮圧した。この事件によってナポレオンは急速に名前が知れわたる。命を顧みない勇気があるのはもちろんのこととして、判断が素早く、情勢を的確に判断し、容赦しない冷徹さもナポレオンにはあったことを忘れてはならない。軍人であるのはそれは当然としても、何万人もの人々が自分の指揮でいとも簡単に死んで行っても平然としていられるだけの性格を持っていた。栄光のナポレオンかもしれないが、影の部分もそれだけ大きい。1795年に成立した総裁政府はテルミドール派の政策を継承するが、やがて左翼の陰謀や右翼の攻撃に晒されて内部ががたがたになり、1797年にはクーデターが起こり始める。そして1799年、ブリュメールのクーデターによって軍隊を背後に持つナポレオンが一気に政治の表部隊に躍り出て第一の統領になる。そして相変わらず各地での戦いに勝ち続け、1805年には皇帝ナポレオン1世として戴冠するが、この様子に幻滅したベートーヴェンがナポレオンに捧げようとしていた交響曲を「ある英雄の思いでに」と改題したことは有名だ。軍人あがりの皇帝の出現には矛盾を感じるが、外国生まれでろくにフランス語も話せなかった移民のナポレオンが皇帝にまでのぼりつめた事実は、たとえば日本で言えば、日韓併合時代に朝鮮半島からやって来た少年がやがて日本の総理大臣以上の人物になってあらゆる分野で大改革をすることであり、そんなことは絶対にあり得ない日本社会を思えば、自由と平等を旨とするフランスを誇示するのに格好の題材になっていると思える。今回の展覧会もナポレオンとコルシカ島の関係や、まだ20歳頃のナポレオンがフランス革命よりもむしろコルシカの独立に関心があったであろうことなどは何も紹介されていなかった。そのため、ファッショナブルな神戸の街にいかにも似合うナポレオンの華やかさばかりが強調されていた気がした。
 1「革命」のセクションでは有名なルイ・ダヴィッドの「マラーの死」が展示されていた。マラーは有名なジャーナリストでジャコバン派であったが、シャルロット・コルデーという女性に皮膚病の治療のために使用して木靴型の湯船に浸かっていたところをナイフで刺されて殺された。1793年7月13日のことだ。革命指導者としての才能を惜しまれて遺体はパンテオン神殿に葬られたが、テルミドールの反動後に撤去され、胸像も下水に捨てられたりした。これは革命の偉人の第1号として、完成したばかりのパンテオンに祀られたミラボーも同じで、国王と癒着していたことを照明する手紙が発見され、遺体は引き出されて無残に処分された。セクション2「ナポレオンとヴェルサイユ」での見物は、再現されたヴェルサイユ宮殿のグラン・トリアノンにおけるナポレオンの書斎「地形図の間」や「午餐の間」だ。前者ではナポレオンが使用した執務机が展示され、それは猫足の造りでありながらもルイ王政時代の装飾をすっかり排して、意外にも素っ気なく質素であった。ヴェルサイユ王宮を皇帝の宮殿に改造再建するための図面集成の展示もあったが、これらの計画案は重なる戦争や建築家同士の嫉妬によって全部破棄された。このセクションにはチケットに印刷される「アルコル橋のボナパルト」の展示もあった。ダヴィッドの後継者のグロは、ナポレオン失脚後、亡命したダヴィッドのアトリエを統轄するも、ロマン主義への思慕を断ち切れず、やがて自殺した。セクション3「総裁政府と第一統領時代」は、1795年成立の総裁政府が財政上の理由から国外に軍隊を派遣し、領土拡大化に進み、やがてナポレオンを第一統領とするまでの期間を扱う。大半はエジプトやイタリアなど各地での戦いの記録画で、新聞記事のトップ・ニュースを大きな油彩画で見る大味な感じがある。ダヴィッドの「サン=ベルナール山をアルプスから越えるボナパルト」(1800年)は誰しも知る絵だが、ナポレオンは実際は白馬ではなしに山羊に乗って山越えしたから、理想化ははなはだしい。「アルコル橋のボナパルト」もグロはゆっくりとナポレオンを写生出来ず、特徴をつかんだだけで後は記憶に頼って描いたが、絵の出来映えにナポレオンは喜んだ。これは何となくキヨッソーネが描いた肖像を満足した明治天皇とよく似た例に思える。セクション4「戴冠式」はこの展覧会での最大の見所だろう。フランソワ・ジェラール描く「戴冠式の正装のナポレオン皇帝1世」(1805年)は金の王冠、胸にレジオン・ドヌール勲章、右手に王笏を持つ姿で堂々と描かれてあまりに有名だが、ギヨーム・ギヨン筆の「正装の皇妃ジョセフィーヌ」(1807年)と対になって展示された。また、同勲章やジョセフィーヌの宝石なども展示され、「皇帝戴冠200年記念」を銘打つこの展覧会の名に恥じないものとなっていた。ジョセフィーヌの顔は田舎っぽく貧相で、ナポレオンと釣り合っていない感じがしてならないし、ナポレオンと結婚するまでにもさまざまな男と交渉があったが、ナポレオンはそんなことは気にしていなかった。だが、結局ふたりの間には子どもが生まれず、ナポレオンはオーストリア皇女のマリー=ルイーズと1810年4月に結婚する。翌年には男子が生まれるが、その翌年のロシア遠征からたちまちナポレオンの運が傾き始め、やがて失脚して子どもはオーストリアに亡命して短い生を終える。と、一気に話が進んではまだ半分のセクションしか紹介していないことになる。
 5「戦い」は、1805年から07年までのいずれも大画面による戦争記録画中心の展示だ。従軍画家がいたためか、あるいは事件の記憶がまだ生々しい間に描いたために、このようなあたかも写真のような絵は描きやすかったのであろうが、誰にもわかりやすく、しかも理想化されているので、写真よりはるかに迫力があり、記念碑としても機能している。それゆえ芸術絵画として見た場合は見所がほとんどないものと言ってよい。6「家族」は、8人兄弟の次男であったナポレオンのその家族の紹介だ。ナポレオンは兄弟や親類を新王国(イタリア、ザクセン、ヴュルテンベルク、バイエルン、ウエストファリア、オランダ)の王位に就けたり、婚姻を進めた。7「新しい社会」は、ナポレオンが実現した政策の紹介のつもりであったのだろうが、1802年に制定したレジオン・ドヌール勲章や戦争記録画以外に見物はなかった。8「ナポレオンとヴェルサイユ2」とセクション9は、マリー=ルイーズとの結婚式や、彼女を迎えて住むことになったヴェルサイユ宮殿の紹介で、ここでも宝石類が食器の展示が目を引いた。10「ナポレオンとヴェルサイユ3」は、ナポレオンが尽力したセーヴル陶器やリヨンの絹織物、家具やブロンズなどの伝統工芸復興に焦点を当て、それらの実物を展示していた。このセクションのみもっと掘り下げて独立させても大きな展覧会が開催出来るが、ナポレオンの戦争を順次なぞって紹介するよりもむしろ、革命初期からどうにかしなくてはならなかったこうした問題を含む政策問題の数々にナポレオンがどう迅速に対応したかの事実にもっと光を当ててもよかったように思う。11「ナポレオンとの最後、そして伝説」は、1840年12月のナポレオンの遺骸の帰還を描く油彩画が締めくくられていたが、終了時間が来たため、最後2、3のセクションはほとんど素通りした。1日に大きな展覧会をふたつ見るというのはやはり無理があることを改めて実感した。
by uuuzen | 2006-02-05 17:24 | ●展覧会SOON評SO ON
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