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●「MENUET ANTIQUE」
去年12月25日に大阪市立美術館に行った。閉館の5時まで見て外に出ると、思ったほど日は暮れていなかった。その1か月前に行った時も5時までいたが、その時はもっと暗く感じた。



●「MENUET ANTIQUE」_d0053294_19442759.jpgそれは、冬至を過ぎてまだ2、3日しか経っていなくても、日暮れが確実に遅くなっているのが実感出来たためだが、遠い春を待つその楽しい感覚は大体2月いっぱい頃まで続く。この冬至を過ぎた真冬の日暮れ時は大好きだ。紫色の空気の中で車の赤いランプが目に滲み、それが懐かしい思い出を誘い、何とも言えない気分にさせる。そして、そんな気分が味わえる季節にはラヴェルのピアノ曲がよく似合い、毎年必ず聴く。ラヴェルのピアノ曲を意識するようになったのは、昔から何度か書いたことがあるが、近所の兄さんがラヴェル好きであったからだ。その兄さんは筆者より4、5歳年長で、とても小柄だが、年齢の割りにませていて、洋画や洋楽にとても詳しかった。1965年には早くもエレキ・ギターを買ってバンドを組み、玄関を開けっ放しにして大音量で演奏していた。珍しがって近所中が見に行ったものだ。そう言えば、筆者が中学生3年生の時に、同じクラスであまり勉強は出来ない男子生徒が、急にビートルズなどの洋楽に目覚め、レコードを買わずにエレキ・ギターと小型アンプを買った。ビートルズのシングル盤の「ペイパーバック・ライター」を貸してやると、10日ほどして返却しに来たが、同時にギターとアンプを持参し、ビートルズの演奏をへたながらコピーして披露してくれた。その時は驚いた。洋楽好きは中学校でもクラスに2、3人いればいい方だったが、エレキ・ギターを買って演奏するというのはおそらくほかにはいなかった。音楽を聴くよりも演奏することに興味があり、音譜が全然読めなくても耳がとてもよくて、すぐに演奏出来る才能があることをその時実感した。彼が演奏家になったかどうかは知らないが、案外そういう奴の方が音楽好きを一生通すと思う。話を戻すと、近所のその兄さんには弟が3人と妹がいる長男であったが、勉強嫌いで、そのまま高校を卒業すると音楽の道に入った。難波のクラブでジャズ・ピアノを演奏し、尊敬するサックス奏者とトリオを組んで毎週演奏していることを耳にした。収入はよくないが、尊敬出来る人と一緒に演奏出来ることが何より楽しそうであった。その頃、つまり1970年頃はめったに会わなくなっていたが、ある日駅でばったりと会って、誘われるままに家に立ち寄った。その時、手書きの楽譜を何枚も見せてくれた。それが全部ラヴェルのピアノ曲で、「こーちゃん、この曲知らんか? ものすごい有名なええ曲やで。『逝き王女のパヴァーヌ』と言うや。ラヴェルは天才やで。ジャズにも影響与えてるからすごく勉強になるねん。せやからこうして1曲ずつ全部またきれいに書き写してるねんけどな」。兄さんは絵がとてもうまく、そのことで筆者をよく可愛がってくれたものだが、絵の道には進まずに音楽の方面に行ったことが当時意外だった。だが、その楽譜を見て昔の達者なペン使いの腕が少しも衰えていないことがよくわかった。正確に音譜を書くのはもちろんだが、八分音譜のヒゲを長く伸ばしたり、ト音記号を装飾したり、1枚の絵に見えるように華麗に書き写してあった。
 ラヴェルの曲を実際にラジオで聴いて感動したのはまだそれから10年も経ってからだった。もう京都に出て友禅の仕事をしていた1980年のある日、NHK-FM放送で新しく出たLPの全曲をかけてくれるラヴェル特集があった。新聞を見て知っていたので、120分テープに留守録音することにし、テープ片面の1時間だけ録音出来た。もちろん男のアナウンサーの解説の声もそのまま録音したが、これがまた何度聴いてもよかった。当時は収入も少なく、LPはザッパ関係以外にはあまり買うことはなく、ラヴェルもそのカセットで当分の間楽しんだ。レコードがほしくなって、レコードの卸業をしていた知人に頼んで割引き代金で入手したのは1982年だったはずだ。3枚組みで、正規の価格は7500円。筆者の月収の10数分の1で、かなり高価な買物だ。もったいなくて、なかなか針を落として聴く気になれなかった。今でもそうで、とっておきの時しか聴かない。レコードを買ってからももっぱらFMから録音したカセット・テープを聴いていたが、あまり聴き過ぎてついにひどいワカメ状になった。それでも大切に保管していたが、さらにひどくたわんで修復不可能となり、3年ほど前に捨てた。FMで聴いたのはヴラド・ペルルミュテールの演奏で、録音は1973年だ。レーベルはイギリスのNimbus Recordsで、ひょっとすれば輸入盤では1973年頃に発売されていたかもしれない。日本では1980年にVictorが発売したが、その年に版権取得が成立したためかもしれない。白い箱の中に真っ赤な袋が3つあり、1枚ずつレコードが収まっている。箱にはラヴェルが椅子に座るイラストが描かれるが、サインが何とかwildと判読出来るだけで、誰かはわからない。ラヴェルは身長がかなり低くて頭が大きかったが、そんな様子をこのイラストはよく描いていて、身近な人物だったかもしれない。カセットの1時間の録音は、このレコードの1枚目全部と2枚目のA面、そしてB面の最初の方だけで、「鏡」の全曲までがかろうじて入り、次の「ソナチネ」が始まってすぐのところでテープが切れていた。そのため3枚組の後半、特に「クープランの墓」などはLPを買うまで知らなかったことになる。また、LPを買ってからもLPからテープに録音せずにいたので、LP全曲を聴くのは年に2回ほどもあればいい方だった。近年筆者はラヴェルのピアノ曲では「クープランの墓」を最も好んで聴くが、それはCDでいろいろと聴き比べが容易になったことが大きな理由だ。
 今はペルルミュテールのラヴェル演奏はこのNimbus盤も1955年の古い録音もCDで入手可能だが、クラシック音楽では名演なるものは人の好みであって、ラヴェルのピアノ曲の場合でも、決定盤を多数の意見一致で決めるのは難しい。たとえば「クープランの墓」だが、ペルルミュテールの演奏もいいが、前にも触れたことのあるモニック・アースという女性の演奏では、3曲目の「フォルラーヌ」がいかにも女性らしくて、筆者にはそれがラヴェルの世界によく似合っている気がして心地よい。しかし、ラヴェル弾きの中では彼女の名前が上がることはまずないだろう。録音における演奏の差はごくわずかなもので、BGMとして聴くなら全く気にならないし、気もつかない程度のものだが、いざじっくり聴くとそのわずかな差が巨大な差に思えて来るもので、ここにクラシック音楽をいろんな演奏で聴き比べる醍醐味がある。だが、それはあくまでも録音されたものをどうのこうのと言い張ることであって、あまり感心したことではない。たまたまある演奏がレコードになり、そのことでその演奏家が誰かより劣るなどとずっと言われ続けるのは酷い話だ。演奏するたびに違うであろうし、また会場によっても音の差はある。音楽は1回限りの出来事であることを思えば、レコードを繰り返し聴いて細部をあげつらうのは正しい音楽鑑賞の道とは言えないだろう。ラヴェルのピアノ曲の録音は数えてはいないが、7、8種類は持っている。そのどれもがそれなりに面白いが、初めて出会ったこのNimbus盤のペルルミュテールに最も愛着がある。特に1枚目の最初に収録される「古風なメヌエット」は、筆者が所有する他のどの盤よりもよい。演奏にはスタインウェイのコンサート・グランド・モデルDが使用されているが、どういう理由からか、かなりこもった音に聞こえる録音になっている。このどこか曇った空のような音が冬至過ぎの夕暮れのイメージとよく似合い、筆者は好きだが、否定する人が少なくない。ここで少し話が変わる。先日15日に奈良に行った時、昼食をマクドナルドで食べた。2階に上がっても満員だったが、どうにか席を見つけて座った途端、ピアノ音楽がざわめきの中から聞こえた。腰を上げて仕切りの向こうを見ると、客席の真ん中ににグランド・ピアノあって、自動演奏で鳴っていた。ブルースを演奏していたが、客のざわめきの中での響きがこのNimbus盤とそっくりであった。つまり、Nimbus盤のラヴェルを聴いていると、100年前のまだサロンの名残のあった時代の空気が感じられる気がするのだ。ピアノ音楽だけを楽しむのではなく、ラヴェルのピアノが鳴り響いていた当時の空気までもがこのペルルミュテールの演奏には濃厚に宿っている気がする。筆者が好きなのはその点だ。ピアノの音だけ抽出して、それをクリアな音としてCD化するのも意義のあることだろうが、ペルルミュテールのこのレコードはそうではなく、もっと回顧の情を盛ることにも視点を定めた録音で、ペルルミュテール個人のラヴェルへの思いが詰まっているように思える。
 「ラヴェルのピアノ曲」という音楽之友社から1970年に出た本がある。そこではペルルミュテールとエレーヌ・ジュルダン=モランジュ女史の対談によるラヴェルのピアノ曲の分析が繰り広げられている。女史の言葉から少し引用する。「…ラヴェルは、なぜ自分がこの曲を作ったか、またあの曲をどう理解しなければならないか、妖精や小人の雰囲気をあらわすために非現実的な響きをどういう風にして出せばよいかを、ペルルミュテールさんに語ったのでした。ラヴェルは自分の望んでいることをどれほど小さなことでも残らず話さないではいられないのでした。自分の音楽をどのように演奏すべきかラヴェルほど確信をもって指示した作曲家をわたしは後にも先にも知りません。ラヴェルはどう演奏すべきか、とりわけどう演奏してはならないかを、はっきり話す人でした…」。説明するまでもないが、ペルルミュテールはラヴェルのもとで全ピアノ曲を逐一勉強した経験があり、何度か日本に演奏でやって来た。手元には1988年11月の最後の来日となった時のチラシがあるが、そこに使用される写真はNimbus盤のブックレットの表紙の写真と同じ時に撮影されたもののようで、「フランスの誇る今世紀最大の巨匠!! ラヴェルの愛弟子…ペルルミュテール」というキャッチ・コピーが躍っている。東京公演は「フランス革命200年記念特別公演」、京都は「’88京都国際音楽祭 世界文化自由都市宣言10周年記念」と銘打たれており、何だか特筆すべき大企画のような趣だ。この年、ペルルミュテールは84歳で、演奏は老境を通り過ぎて古風(ANTIQUE)さがどれほどだったであろう。京都でのプログラムは全曲がラヴェルで、4000円と安かったのでよほど見ようかと思ったが、行きそびれてしまった。この来日後2年ほどして亡くなったと思う。ラヴェルから直接ピアノ曲について教えを受けたのであるから、それだけでも他のどんなラヴェル弾きよりラヴェルの意向を伝える演奏になっていると考えるしかないし、実際Nimbus盤は全体に素晴らしい仕上がりで、好みを言えば、1955年の録音より独特の響きで好きだ。
 一方、モランジュ女史はラヴェルが死ぬまでの20年間をともに演奏し、語り合った人物だが、「ラヴェルのピアノ曲」はかなり音楽に詳しい人、そしてラヴェルのピアノ曲の楽譜を手元に持たない人には理解しにくい面がある。だが、ラヴェルがどう語ったかの生々しい記録になっているので、ラヴェル・ファンは読んで損はない。「古風なメヌエット」は最初に紹介されている。記述はちょうど1ページ分ある。また引用する。「ラヴェルが楽譜にした最初の作品で、友人であり、この作品の初演者でもあったリカルド・ヴィニェスにささげられました。それは1985年のことです。…若いラヴェルの成長過程でシャブリエが影響を与えたということなのです。ラヴェル自身もそのことをよく承知していました。…シャブリエの<はなやかなメヌエット>からインスピレーションを受けたことは疑う余地がありません…」。この女史の言葉はよく知られているが、これにしたがって筆者はシャブリエの「Menuet pompeux(はなやかなメヌエット)」が入ったCDも、そして楽譜も所有することになったが、ラヴェルがどのようにこの曲を模倣したのか、何度聴いてもあまり似ている曲とは思えない。ラヴェルは先人の曲を大いに模倣したが、いつでも全く違う音楽を作り出していて、通常の意味の模倣とは遠い隔たりがある。ところで、さきほど「古風なメヌエット」の楽譜を確認しようと調べたが、どこに保存しているかわからず、ついに出て来なかった。複雑な楽譜なので、見てもほとんどわからないが、昔ピースを買ったのだった。今ならかつての兄さんとラヴェルのピアノ曲について語れると思うが、兄さんはその後ジャズ・ピアニストをやめてしまった。
by uuuzen | 2006-01-27 19:45 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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