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●『没後50年 モーリス・ユトリロ展』
7日の土曜日に京都高島屋で見た。80点の展示のうち、約20点は日本初公開だ。「酔い、惑い、描き、祈った。」と題されてもいて、この文句はスタンダールのもじりに思えるが、ユトリロはフランス人好みのする人生を送ったと言うべきなのだろう。



●『没後50年 モーリス・ユトリロ展』_d0053294_20495581.jpgユトリロ展は今までに何度か開催されている。だが、筆者は初めて見る。古書店で古い展覧会図録が売られていても興味がないので、全集の1冊として仕方なしに買った本以外、ユトリロに関しては図録も画集も持っていない。学生時代にユトリロが偉大な画家だと言ったのがいて、そうとも思わない筆者と口喧嘩になったことがある。ろくに展覧会に行ったことがないくせに、どこで仕入れて来た意見か知らないが、他人の受け売りを言うのが気に入らなかったのだ。1年に1回くらいは展覧会に出かける人にとっては、ユトリロはわかりやすくていい画家だろう。石の壁がもっともらしく汚れていて、パリの横町の雰囲気がよく出ているその絵は、難しい絵画理論など持ち出す必要はないし、絵はがきをちょっと見て楽しむのと同じように味わえばそれで済む。そんな絵が悪いとは言わない。いろんな人がいるようにいろんな絵があるからだ。それに何しろ芸術の国フランスが自信を持って国内外に売り出した画家だ。悪かろうはずがない。そんなユトリロの絵を非難するのは無粋なことで、しかめっ面をして鑑賞する絵だけが芸術ではない。と、口喧嘩の相手は内心思ったかどうかは知らないが、そいつは今も展覧会に行くことがあるのかな。きっと芸術など不要なゲゲゲの人生を送っているだろうが、誰でも芸術に理解があるとは限らないし、その必要もない。それに、理解のある人でも芸術家に何か援助の手でも差し延べることはまずない話であり、ただの理解さえすらない薄情こそが、ごく普通の人々の正しい姿と思ってよい。これは大衆を愚民と思って言っているのでは決してない。本当のことを言っているに過ぎない。芸術家など大体世の中のはみ出し者であり、間違っても大学の教授になったりすべきではないと筆者は考えているし、世の中で身の置き場がなく、理解もされず、またされようとも思わず、適当にさっさと自分のやりたい事だけして世の中とおさらばして行くだけの存在であるべきと思っている。それを偉大と誉め讃えて画集を出したり、展覧会を開くのは、みんなその画家のためではなく、それを企画する人々の功利心から出ていることだ。死んでも利用され続けるのが芸術家の悲しい運命というわけだ。「だって無視されれば悲しいでしょ? こうして芸術家を思い出して讃えるのがせめてもの供養よ」「ほんまかいな、あんた、自分が目立ちたいだけとちゃうか?」
 ユトリロは洗濯女の私生児だ。会場にそう書いてあった。だが、それで何が悪い。洗濯女のどこが卑屈にならねばならないというのか。ユトリロの絵がとても高価で、それを応接間にかけて自慢する金持ちがいるとして、その金持ちは、ユトリロが洗濯女の私生児であることをどう思っているのかな。「洗濯女など見下げた存在だが、何しろユトリロはうっとりするほどの有名人で、絵1枚で家1軒を軽く買えるほどであるからな、ワッハッハッハ」と、きっとガウンなんかに身を包んで高笑いしているのだろう。ユトリロはそんな風にして自分の絵が鑑賞されることなどどうでもよかったに違いない。リットル単位で赤ワインを飲むので、リトリロとあだ名されたほどのユトリロだったから、酒さえあれば後はどうでもよかったはずで、そこにまたいかにも紋切り型の芸術家の姿がうまい具合に重なる。画家の人生がなるべく悲惨なドラマでたくさん覆われている方が画商としても宣伝しやすい。洗濯女の私生児もそんな素材のひとつだ。だが、100年もっと前のフランスで女に何かましな職業があったはずはないし、洗濯するか、料理を作るか、あるいは掃除するか、さらには春を売るくらいしか収入の道はない。芸があればそれを売り物にも出来るだろうが、芸は誰にでも出来ることではない。だが、ユトリロの母親のシュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)はやや普通の女とは違っていて、洗濯女で一生を終えることにはならなかった。シュザンヌの母マドレーヌの夫は、贋金の運搬に関係してブタ箱送りになり、その間マドレーヌは季節労務者と行きずりの恋をしてシュザンヌを生んだ。マドレーヌは娘と一緒にパリに出て住むが、娘が16歳の頃、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(1824-1898)の家に洗濯物を届けさせた。計算すると1881年頃で、シャヴァンヌが57歳だ。シャヴァンヌの絵は5日に島根県立美術館の常設展示で「聖ジュヌビエーヴの幼少期」を見たばかりだが、シュザンヌはこの著名な画家と出会いがあったお陰でドガやルノワールなど、次々と画家のモデルの仕事が入った。シュザンヌをモデルにした絵はたくさん伝わっており、理想化はある程度されているが、元からシュザンヌはいい体と顔をしていたであろう。そして、画家たちとは懇意になって、肉体関係もあったことが想像される。偉大であるとされるロダンでも、これはカミーユ・クローデルの生涯を描いた映画の中で描かれていたように、制作の間、気が向けば衝立の陰でモデルと性交した。ロダンの作品は偉大であるとしても、下半身の行動はまた別で、ピチピチしたモデルがいれば裸にして、そして描きたくもなるし、もう少し進んで愛撫にも至って当然と思える。モデルも相手が有名芸術家となれば、拒否するどころか、進んで身を捧げたがる女も多かったであろう。これは女を貶めて言っているのではない。むしろ逆で、芸術家もただの男としての面を持ち合わせた存在ということだ。
 シュザンヌはモデルとして出発しながら、やがて絵具の扱いも覚えて自分も絵を描くようになった。ここが並みのモデルとは違うところで、人生への取り組の逞しさが伝わる。実際シュザンヌの有名な自画像を見ると、いかにも自意識の強い様子が見える。そして次に思うのは、こんな強い、しかも奔放な母親のもとに育ったユトリロがどういう性格になるかだ。シュザンヌの本名はマリー=クレマンティーヌ・ヴァラドンだが、ロートレックが旧約聖書の中の「スザンヌ物語」に因んで彼女をスザンナと呼んだことを受けて、自称シュザンヌにしたらしい。絵のモデルなど、掃いて捨てるほどいたであろうに、ロートレックにまでその存在を知られていたシュザンヌであるので、よほど画家たちの絵心をそそったものと見える。ユトリロは1883年生まれで、シュザンヌは18歳で生んだが、これはモデルを始めてまだ2年ほどであり、誰か画家の息子と思いたくなるが、実際のところはわからない。スペインの貴族で画家、文芸批評家のミゲル・ウトリー・リョ・イ・モラリウスは自分が父親だと言っているが、これは姓のウトリーがユトリロに通ずるところかららしい。シュザンヌと肉体関係があったためにそんなことを言ったのかもしれないが、一方でユトリロが有名になっていたので、貴族出の自分が父親と名乗っても恥にはならないと踏んだのかもしれない。ユトリロが絵を描くようになったのは、シュザンヌが教育ママ的に強いたからではない。ユトリロは1904年、21歳の時に、継父のムージスによって、強制的にパリのサン=タンヌ精神病院に入院させられてしまった。ムージスはシュザンヌの最初の結婚相手だが、母と子ひとりが身を寄せてずっと生活して来た中に別の男が現われて母を奪ったという事実は、ユトリロを精神不安に陥らせた大きな原因と想像出来るしてもおかしくないだろう。アルコール依存症になったユトリロはこの年のほかにも12年以降20回も精神病院の入退院を繰り返している。1904年の入院はその年のうちに退院し、隣に住む医師がユトリロに絵を描かせてみてはどうかとシュザンヌに提言した。
 ユトリロは教会に建築に強い関心を抱いて早速「ランス大聖堂」を描く一方、シスレーやピサロの絵を好んで風景画を描き始めるが、これら1906年頃までの絵を『モンマーニュ時代』と呼び、今回はこの時期から厚紙に油彩で描いた小品がわずかに来ていた。この次に来るのが有名な『白の時代』だ。これは第1次大戦の終わり頃まで続く。漆喰壁への偏愛は、ユトリロの少年時代に遡るらしく、漆喰の断片でよく遊んでいたことが目撃されている。だが、こうした話は神話作りのために後からこじつけたことかもしれない。遊び道具に道ばたに落ちている漆喰のかけらを用いるというのは子どもなら誰しも自然なことだろう。だが、画家ユトリロはこの白い壁を描くに当たって、石灰、鳩の糞、朝食に食べた卵の殻、砂などを絵具に混ぜて独特なマチエールの表現を求めたらしいが、これは本当のことだろう。そしてアマチュアで出発しているにもかかわらず、こうした油彩画特有のマチエールに関して努力を惜しんでいないところに、さすがなものを感じる。ユトリロの絵、しかも「白の時代」のものが人気が高いのは、こうした絵の作り方におけるプロとしての気がまえが見られるからと言ってよい。結局のところ、絵がうまいことを証明するのはそうした独自の味わいのあるマチエール作りにほかならず、そこを見事にユトリロは腐心して押さえていたと言うべきだ。それはパリに生まれて育った者の天性のなせる技であったとも思えるし、パリをよく知る者とは言わずに、その白壁の汚れた染みの中に人生の悲喜こもごもを見て感慨にふけることが出来る。それをたとえば日本から佐伯祐三が出かけて行って模倣することになるが、本場ものの先駆者にはかなわないところがある。後述するが、ユトリロの絵は30代前半の絶頂期を過ぎると、デュフィ張りの軽快なタッチでしかも暖色が多くなるし、絵はがきを見て描いた月並みな味わいのものが増える。それもまた手慣れたものとして見た場合、独自の面白さはあると言えるが、持てはやされるようになってからのものは、酒を手に入れることも簡単になり、悲壮感、枯渇感が薄らいで、絵の味わいに奥行きがなくなった。残酷なことだが、画家は経済問題も含め、苦労している時の方がいい絵を描く。ユトリロの絵が明るくなったとして、それは時代の空気の反映もあるはずだが、何よりも有名になって成功した点が大きく影響している気がする。だが、今回、画風が明るくなった時代の絵はそれでそれで面白いものがぽつぽつとあった。
 1914年にシュザンヌはユトリロより3歳年下の、49歳で23歳の男と2度目の結婚をする。相手はアンドレ・ユッテルで、元は画家志望であった。アンドレが第1次大戦に志願した後、1919年に復員して来ると、ユトリロが画家として注目されて、絵の価格は急騰していた。そしてユトリロのマネージャーとなってどんどん絵を描かせる。ここから『色彩の時代』が始まり、明るい開放性、軽快さが画面に登場する。また腰が大きく横に張り出して描かれる女性が頻繁に登場するようにもなる。このことに関してはさまざまな批評があるが、女性がふたり並んで歩いていることの多いこの描き方は、決して嫌悪感を与えるものではなく、むしろユトリロが発明した専売特許として長く記憶したいものだ。そこには「白の時代」にはなかった人懐かしさがあり、ユトリロがようやく人並みに幸福感を感じる状態に至ったことを思わせるほどだ。ユトリロは母とアンドレの3人暮らしをするが、この関係は1935年まで続いた。その間、1928年にレジオン・ド・ヌール勲章をもらうが、母ヴァラドンはどんな気持ちであったろう。自分も画家として描いていたが、息子の方がはるかに有名になった。ヴァラドンは無神論者で、ユトリロには洗礼を受けさせなかったが、ようやく1933年に認めた。ユトリロは母とは違って信心深く、これは最初の継父であったムージス家の人々との接触で芽生えたものと言われており、また1918年の退院後にユトリロの看護人となった人物から基礎的な祈祷の言葉を教えてもらっていたので、それなりに後年の熱心な信仰に連なる契機はあった。ユトリロは1935年にリュシー・ヴァロールと結婚する。こうして絵は最後の時期を向かえる。彼女はベルギーの銀行家の未亡人で、以前からユトリロやヴァラドンとは面識があった。ふたりはパリ郊外に別荘を買って住み、画商との交渉役を取り仕切ったリュシーは、ユトリロの絵1点に自分の絵2点を抱き合わせして法外な価格で売った。相変わらず酒好きなユトリロには水でうすめたものを与えたが、ユトリロが健康でいてくれる間は贅沢な生活が保証されるのであるから、リュシーも必死であったろう。ヴァラドンが亡くなるのは1938年だ。以降ユトリロは自宅に設けた小礼拝堂にこもって祈ることが多くなり、絵を描く時間より長くなった。そして1955年に南仏で死に、モンマルトルに埋葬された。ユトリロの代表作が何かはあまり思い浮かばない。やはりユトリロにはあまり関心が持てない。まるで映画にすれば面白いような人生のユトリロであったが、独学でも世界的に有名になれるということを示した点で、世界中の画家志望の若者に光を与え続けている。だが、ユトリロは世界的名声など望んで絵を始めたのではないだろう。周りからせっせと絵を描くことをせがまれ、彼の絵によって生活が潤う人物が多過ぎた。そんなことも全部飲み込んで存在しているところにユトリロの絵の大きさと悲しみがある。
by uuuzen | 2006-01-20 20:50 | ●展覧会SOON評SO ON
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