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●鳥取島根へ美術館巡り、その2
続けてその2を。旅行は美術館巡りが目的で、鳥取島根方面に行く。雪が心配だが、山陰地方は初めてなので、しっかりと風景を見たい。感想はまたこのブログに書く予定。





●2001年9月8日(土)夜 その2
さて、物事は悪くて当然。努力の99パーセントは経済的にさほどの報いがないと最初から思っていると気も楽だ。これはかなりマゾヒスティックな性格なのかもしれないが、自分の思うとおりのことができるからそれが許せるのであって、他人からああしろ、こうしろと注文をつけられた仕事に関してはそれ相応の報酬は当然請求する。それはしばしば自分が本当はしたくない仕事である場合が多いが、それでも餓死を考えれば、時にそういう仕事もせねばならない。ザッパの本を書くというのもその意味で好きなように書いてよいとの前提があるからであって、いろいろと注文が強くあれば、おそらく引き受けるのを躊躇するだろう。つまり自分の思うように書いているという点で、自分自身は作品作りと同列にある気がしている。その意味で、これははっきり言っておきたいが、芸術に携わっているか、芸術を人生において真に必要としている人の中からしかザッパ論の本当の書き手は出現し得ない。『大論2』はザッパのアルバムという素材を利用した自己発見と自己表現の意味合いが強く、筆者がどうザッパを捉えているかということが行間から滲み出ていると思う。それはかなり自信に溢れた言葉だが、2年近く要して書いたという満足感がそうさせる。それも時間が経てばまたげんなりする気持ちの方が強くなるだろう。また、一作品に膨大な時間を費やしたからといってそれが名作になる保証はないという声が聞こえそうだが、ちょっとした思いつきで名作など生まれるはずもないことの方が確実で、一見単純に生み出されたように見える作品でも、実のところそこに至るまでには連日連夜それについて考えに考え抜いているという日々が必ずあるものだ。つまり努力の積み重ねが名作を保証するとは限らないが、名作の陰には大いなる努力が必ずある。それを努力と呼ぶと若者は白けるかもしれないが、一事に根を詰める行為と言い換えてもよい。本書に1年半を費やしたのは短いのか長いのか、筆者には判断できないが、それでも1年半を無収入でやり通したことはおそらくそう誰にも真似のできないものだと、変な自信はある。しかし、その事実はかなり重いことであるうえ、読者には何の関係もないので、本当はこうして明かす必要なないどころか、かえってよくないかもしれない。とはいえ『大論』を金儲け目当てで糞本と書いた男がいたので、あえて書いておくが、糞本かもしれないが、金目当てならこんな侠気の狂気など抱かずに、そこらでザッパの海賊CD-Rをせっせと焼いて暴利を貪っている野郎になり代わる方がいいだろう。
 何もそこまで生活を犠牲にしてザッパ本執筆にのめり込めとは誰も強制していないのであるから、本職の片手間にこつこつと書くという手もあるが、それでは5年でもおそらく完成しなかったろうし、また完成したものは間の抜けたものになったろう。集中した時間を全身でぶち当たらなければ気迫が希薄になるし、何年も心に引っかかる仕事が続くというのは気分的にもっとしんどい。ここは何もかも犠牲にして一気加勢にやるしかないと心に決めた。本職はごく稀に章の区切りに挟んだが、それが気分転換には多少貢献はしているだろう。あるいはそこで勢いを削いでいるかだ。読者がそれを判断する。また、単純な五七五の文字の連なりでできる俳句は誰にでも即座に作り得るものだが、名作と言われるものにはそれなりの作者のあらゆる努力が積み重なっている。したがって筆者があえてここで言いたいことは、一気加勢に書くにしても物事を単純に始末することは考えずに、遠回りしながらもこつこつと文字を連ねて行く以外にかっちりとしたザッパ論など生まれるはずがないということだ。そしてそうしてできた本でもおそらく大雑把なものだという思いがなくてはザッパに対して申し訳がない。洞察力の鋭い本当の文章の達人であれば、1年半も要することなしに、さっさと書き上げるかもしれないし、今後そういう人が出現することを願うが、そのための基礎的な本の1冊にはなるだろう。よく売れる本を書いて一山当ててやろうと思うのは誰しもで、時にそういうココ掘れワンワンの幸運もあるとしても、開高健も言っていたように、99パーセントの本はそのささやかな印税で著者の家族がささやかなディナーが1回できるかどうかだ。ディナーができればまだよい。むしろ資料代の方が遙かに印税を越えてしまう。つまり、金と大量の時間を費やしてでも書きたいという人だけが書く。これは立花隆が書いていたが、本は安いもので、もし本と同じことを自分で知ろうとするとその何百倍もの金がかかるという意見もおそらく正しい。もっとも、ただでもほしくない本も世の中には山のように溢れ返っている。『大論2』をまた糞本と罵る人もあるかもしれない。ま、どうか御自由に。
 今回の執筆は海賊テープの資料に関しては協力者があったおかげで、そうとう救われた。その他の本やCD、それに映画やヴィデオなどの資料は全部筆者ひとりの思いで選んだものであり、他人に相談したり、意見を求めることは一切なく、孤独のうちに執筆を進めた。つまり何を選んでどう書くかまで、誰とも相談したことはないので、文章のあらゆる責任は筆者にある。原稿はまず不要紙の裏に鉛筆で細かい字で書き綴り、それを仕事から帰った妻は毎夜こつこつと少しずつワープロを駆使してフロッピーに打ち込んでくれた。その間に筆者は次の原稿を書いているという生活がずっと続いた。印税の1割は妻にわたすといちおう約束はしているが、これが誰か他人を雇っていれば印税全部をわたしても足りないだろう。そしてワープロに打ち込んだ後は筆者が校正と推敲を重ねたが、ちなみに筆者が友人からもらった20年ほど昔の古いワープロでは、2DDのフロッピーしか使用できず、ひとつの文書には最大24ページ、つまり原稿用紙72枚分が書き込みの限度だ。その文書は工作舎に送るまで、だいたい平均して100回更新される。多い場合は130回に上る。これはわずか一語の書き直しも1回と数えられるから、文書全体を常に最初から読み返すことを100回行なう意味ではないが、書き直しには変わりない。つまり原稿は何度も何度も書き直ししてようやく工作舎で紙に打ち出してもらい、これが初稿となる。それからいよいよ本に向けての校正だが、それでも誤植はなくならない。こういう内幕はかなり格好悪くて神秘性が減少するが、これを読む熱心な読者には現実を知ってもらうのもよいと思う。原稿の送付はフロッピーの現物ではなく、今回は電子メールというやつで、これは大阪の友人宅へ行って、そこで筆者の所有するワープロと同じメーカーのより新しい機械でMS-DOSとやらに変換したうえで、パソコンで送ってもらう。その友人からはパソコンくらい買えよといつも言われるのだが、1年半の間それこそ日曜も休日もなく、無収入の状態ではなかなかそんな余裕がない。
 確かにパソコンくらい買える金はあるが、パソコンを買うならCDを買うという主義で、とにかく本の内容の充実を第一に考えた。パソコン10台分くらいのCDやレコード、本をこの1年半に使っただろう。しかもそれらの多くは本の内容には反映されていないか、反映されていてもたった1行で終わりであることがほとんどかもしれない。『大論』時には一語の確認に書店やレコード店、図書館など、大阪や京都に毎週出かけて何日も要し、結局わからないということがよくあったが、今回も全く同じどころか、それがもっと頻繁になった。あちこち赴いたり、電話したり、とにかくある資料を入手してそれでようやくある言葉のさらに枕になるような内容がやっと把握できるということもしばしばであった。多大な無駄の中から役立つものがわずかしか得られないのが現実であり、その論法で行くと、本書もまた99パーセントかそれ以上は無駄な行為とふと思ってしまう。しかし、その無駄を通じてしか何事も先には進めないものだ。その意味で無駄は無駄ではない。それはいいとして、紙に打ち出したものに編集者が朱を入れ、それが筆者に差し戻された後、さらに2、3回の推敲を経て本になる。つまり、一見すらすら書いているように見えるものでも最低100回の修正を経ているのであるから、読者は筆者のことをそうとうの馬鹿と思うかもしれない。いや本当に馬鹿かキ印しかこんなことはしない。それは普段の自分の作品作りでも慣れていることで、さほど苦痛ではない。これを仕上げればいくら収入があるとまず考える人は絶対にできない仕事だ。しかし執筆がしんどいと思った瞬間はあった。それは普通なら2、3か月もあれば1点仕上げることのできる作品が、ここでは1年半も要したからで、例外的に長い根気の持続が問題であった。これがじっとしていても定収入があるとか、ひと財産もあれば気分も楽だが、いつまで収入がない状態で持ちこたえられるのか、そういう経済不安が一方でひしひしと迫り、決して極楽トンボを満喫するだけの気分ではない。しかし苦労話をしても仕方がないし、読者の中には「こんな駄文、1回ですらすらと書ける」と思う人もあるかもしれない。若い人には若い人が思うザッパ論もあるだろうし、どれが正しいザッパ論かは一概に決められない。
 資料に関しては、何度か偶然に面白いものを発見したことがあって、そういう時は運のよさを実感してしばし嬉しくて天に感謝したい気になる。しかし一方で苦心惨憺して入手したのに使用しなかったものもある。書く以上に何を書こうかと資料を探る時間の方が多かったかもしれない。これが小説であれば、100回も書き直さずにさっさと筆が走る気がするが、とにかくいちいち確認すべきことが多く、評論は筆者には向いていないとさえ思えたほどだ。今打ってる文章は紙には書かず、いきなりワープロにざくざくと打ち込み続け、最初から全く休むことなくここまで進んで来たが、原稿用紙に換算すると20数枚であるので、これくらいは疲れを感じずに一気に書くことができる。またこの文章は活字にはならないものなので、読み返しもしないつもりなので気が楽だ。『大論2』もこのようにすらすら書ければよかったのだが。いや4分の3はこのようにしてすらすらと書いて、後の4分の1が推敲段階で苦心してつけ加えたもので、結局最後の詰めに多くの時間がかかったというのが実際のところだ。筆者は書き出すと早いが、書くまでが長い。そして前述したように、いったん書いた後の推敲がまた長い。さて、今日現在では『大論2』が書いた原稿全部が掲載されるかどうかわからない瀬戸際にいるので、これはあくまでも予定だが、最終的に石原さんにわたった原稿は400文字詰め原稿用紙に換算して2040枚ほどになった。これは巻末の諸索引は省いての話だ。人名索引を一昨日にまとめたが、約940名(グループ)数で、『大論』よりかなり多い。5月の母の日に脱稿した時は『大論』とほぼ同じ原稿量であったが、石原さんの校正を経て筆者に朱入り原稿が戻って来た後、もう一度3週間を要してじっくりと読み進み、誤字の発見とともに文章を大幅に追加をした。時間が経ってみれば、必ず具合の悪いところに目が行くものだ。これはザッパもそうであったろう。そして5月と同じ原稿量ならばさほど問題はないのだが、一昨日編集者からの電話で、『大論』と同じ版組みをすると647ページだったか、とにかく『大論』より120ページほど多いとのこと。これに索引を足すと本は680ページになって、予定していた5000円では本が作れない。印刷部数が多ければもっと安くできるはずだが、残念ながら日本のザッパ・ファンの数は2000人ほどのようで、本の売れ行きはそれよりもっと少ない。
 原稿が2000枚を越える本というのはそうざらにはないし、これがも少し読みやすいように、本文を2段組みにせず、1段にし、行間をもう少しゆとりあるようにすれば、1000ページくらいの本になるだろう。本が高いか安いかは原稿量とその質によって決まるし、1500円くらいの写真満載の内容に乏しい本などに比べると本書が決して高くはないと自賛したいが、これも読者が判断することだ。『大論』の時には確か「600ページを越えなければいい」という言葉を小耳に挟んでいたが、やはり一昨日の石原さんの電話では「いちおう現段階でゲラ刷りを作り、そうして600ページ程度に文章を削るかどうか考えましょう」ということであった。これには正直ショックだ。それだけ削るということは原稿量にして200枚程度になる。200枚もどこをどう削ればよいのか皆目検討がつかない。「5500円という価格ではどうでしょうか。」と言葉を返すと、「確かに5000円を多少越えてもあまり変わらない感じもありますけれど……」という返事だった。実はその電話に先立って9月3日に編集者から『大論2』の出版予告広告チラシがファクスで届いていた。そこには「A5版/上製/約560頁/本体5000円+税/2001年12月5月発売予定」と謳われている。これは明後日にでもビデオアーツが発送するザッパ・クラブの約700名分のダイレクト・メールの封筒に収められる予定だ。その内容を変えるのか、あるいはもうチラシの印刷は仕上がっているはずであるので、やはり編集者としては5000円で売るべく原稿を削ろうとするのか、目下のところ筆者には何もわからない。ただし『大論』のように削った文章を『サプリメント』としてフロッピーに入れることは今回はできない。そのように書いていないし、削るのであれば全体にまんべんなく薄くということになる。そうなると1、2か月ほどまた要する。いや時間の問題ではなく、そもそも削ることが不可能なように書いたつもりがある。どの言葉も必要があって書いたものであり、もし削るとしてもそこには書いた本人しかわからない全体構造のバランス感がある。680ページもの本、本文原稿が2050枚近い本が5500円で作れるのかどうか、あるいは6000円になるのかどうか。もしそうなればどれだけの読者が買うのを止めてしまうのか……。結局は最後は商売上の問題によって本文修正がよぎなくされることになる可能性が大きいと今の段階では想像するが、これも印刷する部数が『大論』の売れ行きからしておおよそ決まっていることと、それに加えてこの不況のさなかも勘案して仕方なきことかもしれない。しかし憂鬱だ。U2でも聴こう……。

by uuuzen | 2006-01-04 00:21 | ○『大論2の本当の物語』
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