数学は得意であったが、それを使うことがなくなり、今は数学的な思考をおそらくほとんどしていないのではないかと思う。これはめったにないことだが、夢で二度、勉強をしないで数学の試験を受けて戸惑っている自分の姿を見たことがある。
その夢のひとつは対数に関するテストで、夢の中で筆者はちんぷんかんぷんで、なぜ勉強して来なかったかと悔やんでいる。もうひとつは証明問題で、筆者は学生時代に心底理解しなかったものだ。自分が何に向いているかを知ると、自由な社会では夢を追って気分よく生きることが出来る。だが、何が自分に向くかは学生時代にはわかりにくい。それで就職には力強いという理由で学ぶ方向を決めるが、それで社会に出て挫折する人は少なくない。それは社会にとって大いに無駄だが、それを言えば社会あるいは人間はもともと無駄が大半と言ってよい。それに、無駄と思えば敗北であるので、世間にはどんな経験も後で役に立つという慰めの言葉がいつの時代にもあふれている。だが、たまにそういう慰めの言葉が通用しない人もいて、あっけなく自殺することもある。これは夢が破れたということだろう。あるいはもともと夢が持てなかったかだ。哀れな人生と言うべきだろう。学校で教えることは、この夢を抱かせることではないか。だが、その夢の実現にはまず勉強の成績をよくする必要があるとの考えで、将来あまり使いそうにないことも頭に押し込まれる。それで卒業するとすぐに忘れてしまう。筆者の知り合いに保険屋がいて、大学では工学部を出たが、確かそれを生かせる方面に就職せず、妻を働かせて自分は不動産の鑑定士になろうとひたすら家に篭って勉強を続けた。だが、4年か5年経ってもその試験に受からない。子どもは大きくなって行くから、妻が働くだけでは生活はしんどい。それに妻にも夢があって、筆者は相談を受けたが、その妻の夢はアメリカ留学で、そうなれば夫とは別居ということになる。その先には離婚もあるかもしれない。妻としては夫の夢に賭けたのだが、夫は肝心の試験に合格しない。5年もそうであれば、妻がしびれを切らすのも無理はない。だがもう30歳かそれを超えていた。それではまともな就職先はない。それで妻は父親の紹介で夫を保険会社に入らせることに成功した。つまりコネだ。だが、その仕事が合っていたのか、今は独立して仕事をしている。そして趣味で近所の子どもに数学と物理を教えているらしいが、筆者はその話を冷ややかに聞いている。というのは、工学部を出てその能力を生かす仕事を全くしてこなかったのであるから、そういう人物が子どもを教えても先は見えている気がするからだ。この考えはそうとう辛らつであるのはよくわかっている。それでもなお筆者はそう思うのは、上田秋成の生き方の影響を受けているからかもしれない。何かを教えて生きて行くという道を筆者は好まない。そうすれば収入につながり、生活にさほど不自由しないとしても、教えられる子どもがどう思うかを考える。たとえば、筆者が先の保険屋に数学や物理を教えてもらったとして、すぐに疑問を抱くのは、なぜその人がその道に進まなかったかだ。そして、そんな人に教えてもらっても、どういう程度になるかはしれていると悟る。それはお互いに時間の無駄だ。その保険屋は仕事に成功して豊かな生活をしているが、本当に自分がやりたかった夢には進まなかった。あるいは進めなかった。それは不幸な人生ではないか。
65になった筆者はこれから自分が何年生きるかわからないが、何となく暢気な気分でいて、まだまだこれから新たにやりたいことが出来ると夢想している。実際はそうではないのだろうが、やりたいことをたくさん抱えることは生活に張りがあってよい。だが、何事も中途半端に終わるぞという声がどこかから聞こえて来そうで、また自分でそう思うことによって自戒しているつもりでもある。そして、ともかく目の前にある仕事を完成させねばとそれだけを思っているが、その仕事はこのブログを始めた少し前に取りかかり、まだ完成しない。もう13年は要している。大事な50代をその仕事のためにつぶしてしまったようなものだが、やりかけた仕事を途中で放り出すことは出来ない。とはいえ、13年も続けているのは、そうとうな粘着力で、その点は誰にも負けないつもりではいる。また、その仕事を仕上げるのに、わからないことが多々あったが、すべてひとりで解決して来たことにも、自信のようなものがついた。そのわからないことは、無視してもかまわないものだが、あえてそうせず、自分でわからないことを見つけてそれを理解して行くということを続けて来ている。つまり、自分で問題を作り、自分で最適な回答を見つけるという作業だ。それを13年続けて来ているが、もちろんほかの仕事はしていないから、収入はない。夫がそのようではたいていの妻は逃げ出すと思うが、妻も還暦を過ぎ、もう今さら逃げられないと思っているのかもしれない。だが、世の中には70代になった夫婦が離婚することも珍しくない。それはともかく、筆者の13年にわたる仕事はひとりで暮らしていたならば無理であった。
さて、その仕事は去年の今頃の段階ではちょうど今頃に終わっているはずであった。ところが、なかなかを累乗すべき難産で、この調子では正月休みを返上する必要がある。とにかく、次から次へと問題が浮上し、それをしらみ潰しに順番にこなしている最中だ。そして、昨日はひとりで午後から京都府立文化博物館に調べ物に行った。市内各地に行く用事がある場合は1日乗車券を買うが、府立図書館だけに用事があり、それならば阪急電車を使う方が早く、また安い。四条河原町駅から岡崎まで歩くが、その道のりは20代から通い慣れていて、苦にならない。これまで何度かブログに書いたが、市バスで四条河原町から岡崎の美術館、図書館前まで行くのは、下手すると30分では無理だ。今はいい季節で、観光客で溢れていて、東大路通りはおそらく市バスはほとんど動かない。それで歩くに限る。さて、カメラを持って行く必要はなかったが、嵐山駅のバリア・フリーの工事の様子をプラットフォームから撮ろうとした。それが今日の4枚で、電車が来るまでの間に撮った。3枚目は駅の北側、4枚目は南側で、これは一昨日の投稿では駅南側の脇道から撮った写真の反対方向からの眺めだ。どこに車椅子用のスロープが出来るのか、現時点ではさっぱりわからず、また工事の最中であることもほとんどわからない。1,2枚目はこの駅にひとつしかない西側の改札口を入ったところで、先月に比べると工事用の柵がほとんどなくなり、かなりすっきりしている。スロープにはおそらくタイルを貼ると思うが、そうなればまたこの1,2枚目の写真は雑然とするだろう。時計が午後1時40分少し前で、図書館に着いたのはそれから1時間近く後、調べ物はすぐに終わり、図書館から家に電話して家内と待ち合わせをした。家内が通勤していた頃なら河原町でということになるが、昨日は梅津のスーパーに行くことにした。つまり、筆者は松尾駅で下車し、松尾橋をわたった。その際、河川敷の重機などが停まる様子を撮影しなかったのは、いつもとは違って橋の下流側を歩いたからだ。帰りは上流側を歩いたが、今日は駅構内から撮ったので、もういいかと思った。昨日の投稿と同じく、撮影から1日遅れになっているが、こうして載せておけば後で思い出すのに便利だ。