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●『茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術』
人か天使か、芸術家は浮世離れした存在だ。先日、陶芸家の知部真千さんのことをほんの少し書いたが、その後ネットで調べると、今100歳くらいでまだ生きておられるようだ。



●『茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術』_d0053294_01563104.jpg泉涌寺近くの家に住んでいるのか、老人ホームのような施設に入っているのかは知らないが、11日に岡崎の画廊で出会った吉田佐和子にそのことを訊くべきであった。彼女なら近況を知っているだろう。筆者は知部から年賀状が届かなくなったことと、高齢でもあって、勝手にもう亡くなったと思っていたが、100歳でも生きておられるのであればそれは大変失礼なことだ。だが、優しい知部さんなら、そのことを知ると笑うかもしれない。前にも書いたことがあるが、知部さんに最後に会った時、筆者は存分に好きなことをやればよいと言われた。それはとても励みになっている。いろんな意味で才能が熟し、思うまま表現せよということで、それから20年近く経っているが、ふと自分の行為を振り返ると、思う存分やっていることは間違いないが、まだまだやり足りないことを思う。さて、今日は11日に京都国立博物館で見た楽家の茶碗展について書くが、知部さんならどう評価するだろう。人のことを悪く言わない女性で、たぶんいいことだけを連ねると思うが、同じ陶芸家として思うところはあるだろう。知部さんは銅版画に関心を抱いて市民アトリエで学んだことからもわかるように、絵が得意だ。それはとても優しく、愛情あふれるものだ。TVで小象を見て早速作ったという作品は、小さな象の本当のかわいらしさが滲み出ていて、動物に注ぐ温かい眼差しを強烈に感じさせた。筆者ならとてもそんな作品は作り得ない。それは絵が上手とは下手という問題ではなく、作品から伝わる人柄だ。そして、もっと書けば、男には知部さんのような絵は描けないのではないかと思う。男は男なりの、女は女なりのと言えば、男女の芸術に違いがあるというのはけしからんという声が聞こえて来そうだが、全く性差による芸術の違いはないとも断言出来ないだろう。吉田秀和は音楽は、特に演奏は女性の方が向くと発言していたが、それは筆者の考えと同じ部分がある。吉田秀和は、女性特有の神経の使い方、愛情というものは、演奏に込められやすいと思っていたのであろう。音楽を癒しと捉えるのであれば全くそうだと思う。だが、女性からは、吉田秀和は男の身勝手さからそんな発言をしたという意見が出るかもしれない。女もさまざまで、男以上に男っぽいのもいるだろう。それを言えば男も同じで、よく女の腐ったような男という表現が筆者の幼少の頃に使われたように、女性的な男もたくさんいる。それで、女も男もなく、区別するのはおかしいというのが、今流行りの考えだが、男と女は肉体が違い、考えも違って当然ではないか。どっちが悪いとかいいとかの問題ではなく、違うというのは事実だ。そして、女には男がわからず、男には女がわからない。またそれは当然でもあり、またそうでもない。 楽家の長次郎と初代はいつ生まれたかわからない。朝鮮か中国の陶工か、その子孫であったのは間違いなさそうだが、450年ほど前に手びねりでしかも低い温度で焼く茶碗を作り始め、それが代々引き継がれて今は十六代目がいる。父親の十五代目は佐川美術館の専門のコーナーに作品がたくさん展示され、その内部の障子の仕事を筆者の知り合いの表具屋が毎日通ってこなしたというので、一度は見ておかねばと、完成して間もない頃に見に行った。茶碗の題名に、中国の古い詩から採ったかなり長い、つまり五言絶句や七言絶句をそのままつけていて、それがとても鼻についた。また、茶碗は彫刻と絵画を足したような饒舌ぶりで、アメリカ人なら喜ぶかというように感じたが、それは長次郎の何の装飾もない、真っ黒の素朴な円筒型の茶碗が念頭にあったからだ。時代が変われば、また十五代も続けば、初代と同じことをやっているわけには行かない。伝統とは革新と同義で、特に京都ではそうで、時代に応じた表現をしなければならないという不文律がある。そのため、何代も続く創造者の家柄は大変で、必ず以前の代の作品と比較される。その点、十五代はこの450年の間でもっとも日本が激変した時代に生き、これまでの茶碗とは同じであってはいけないという強迫観念が想像以上に大きかったことは想像に難くない。それはよく承知したうえでなお、筆者は伝統からあまりに逸脱して、装飾過多に陥っていると感じた。その最大の理由は、茶碗は片手で持って茶を飲むための器ではなく、必ず両手で包んで飲むもので、その両手で包むという仕草に最もふさわしいものが長次郎の茶碗と思うからだ。つまり、包み込みたくなる優しさがある。だが、十五代目の茶碗は前述したように絵画的彫刻と表現してよい、全くの鑑賞用で、両手を添えて口元に運ぼうという気がしない。それを拒否しているところさえある。前衛を標榜するのであればそれもいいかもしれないが、茶碗は茶を飲むための器という用からは免れ得ないし、また免れてはならないだろう。だが、そんなことは百も承知で、なお何か新しいことをせねばならないという立場を自覚し、またその自覚を見事に具現化して来た十五代は、歴代の中でも最も創造的であると言えるかもしれない。去年だったか、NHKで十五代と十六代が出演するドキュメンタリー番組があって、筆者はそれを見た。その時感じたことは、佐川美術館の暗い部屋でたくさんの茶碗を見た時の印象に多くを付与するものはなく、また今回の展覧会も同じで、その意味で十五代の仕事はとてもわかりやすいと言える。これは矛盾かもしれないが、却って無装飾の長次郎やその後の代、また光悦の茶碗の方が見ていて飽きず、また奥が深いように感じる。だが、そうした見方があることも十五代は知ったうえでこれまで前衛的とも言える茶碗を数々作って来ているはずで、一度は無装飾の対極にある仕事をすべきと自分に課したのだ。そして、その行為はほぼ終わりを迎え、今回は焼き締めなどの、無装飾の茶碗が最後のコーナーに展示されていた。また、その仕事はこれまでの装飾過剰を経ての装飾削ぎ落としであるから、最初から無装飾ばかりをやっていたのとは当然違う味わいがある。それも十五代が昔から計画していたことであろう。思う存分前衛をやった後に、また初心に戻れば、そこには長い旅路の果てにしか生まれない独自性が宿ると信じていたはずで、実際そのような茶碗になっている。だが、そのあまりにもTV向き、あるいは小説的な出来過ぎたような演出は、先に書いた中国の古い五絶や七絶をそのまま題名にすることに似て、「これを見てほしい」という自意識がまず目につく。長次郎の茶碗にそういうけれん味がないかと言えば、450年も経っているので、その味が薄れているだけとの見方もあろうから、十五代の茶碗が450年後にどのように見えているかはわからない。生々しさが消えて、枯れた味わいが顕著であると見られているかもしれない。つまり、450年前の茶碗と現在の茶碗を並べて比較することは無茶で、また代が新しいほど、損をしているとも言える。それも理解しながら、なお十五代の作品は抜群の技術を持つのはよくわかるが、あまりにも見てくれを意識し過ぎていて、とても両手で茶碗を包み込みたくなる気はしない。では飾っておくのがいいかとなると、筆者なら陶磁で作ったオブジェを好む。口が空いた茶碗では飾っておけば中に埃が入り、とても飾り物にはならない。つまり、中途半端なのだ。 十五代が突然変異で登場したかと言えば、そうではない。そのことを示すのが、十四代が昭和38年に焼いた平茶碗だ。これがとても面白い。その理由は、いかにも当時の時代を感じさせるからで、モダンな流水のような色絵の文様が描かれている。そのような文様はそれ以前の代に全くなかったとは言えないが、それでも十四代に至って一気に顕著になった。そして、時代の空気をとてもよく反映している。それがいいかわるいかは見る人によって意見が分かれるが、筆者は戦後の当時としては、茶碗のみが絵画や彫刻、その他の造形の一種の流行から距離を置くことが出来なかったことがわかって、半ば痛々しいような同情を覚える。というのは、そうした流行への反応は、時代に即するあまり、つまり大衆の週刊誌と同じで、すぐに時代遅れになるからだ。だが、一方では十四代も続いているという自負があって、多少流行に反応しても、作品が古びないと考えたのだろう。そこに何代も続く家柄の凄味とも嫌味とも言える立場がある。その十四代の試みは十五代で何百倍にも拡大する。そのため、十五代の茶碗は、現代芸術のあらゆる潮流と比較されるであろうし、単なる茶碗という域を超越して、純粋造形として鑑賞に堪えると評されるし、またそのための今回の展覧会でもあった。さて、意外かどうか、十六代の茶碗が3点出ていて、それがとてもよかったことに驚いた。好みで言えば十五代よりいい。「これ、見て」という意識が少ないからだろう。作品は恐いもので、人柄がそのまま出る。作品と作者は別と言うが、作者はすぐに死に、作品が残される。そして人々は作品で作者を想像するしかない。また、人々は作品に人間性、どう生きたかを見るのであって、作品を素晴らしいと感じるのであれば、それは作者がそうであったと思うことと同じだ。かくて、芸術家は時空を越えて作品がある限り、生き続けるが、誰にも感動を与えないではいずれゴミと化す。そしてそういう運命をたどる作品の方がはるかに多い。そのことを知りながら、また時に生活を切り詰めながら、製作を続ける人は、一般人から狂っていると思われても仕方がない。だが、芸術家からすれば、何も作らず、また作品に関心を示すこともなく生きている人を狂人と思うだろう。女と男の間に深くて暗い河が流れているが、芸術家と一般人の間も同じで、また芸術家同士の間もそうであろう。11日はこれまでにないほどの多くの来場者で会場はとても混雑していたが、それほどに人気があることは十五代の功績であろう。展示の後半は十五代の個展で、フランスで撮った風景写真も並んでいた。それに十五代の茶碗を平面に展開した写真も何点かあって、茶碗のぐるり全体がひとつの抽象的な風景画に見えていた。それは茶碗の凹凸を再現しない平面写真であるから、実際の茶碗はその写真よりもっと多くの情報を持ち、しかも破綻のない完璧な造形と言ってよい。偶然が支配するような多色の釉薬のかけぶりであるのに、その平面展開写真は、どれもそうでしかあり得ないような釉薬の光景を作り上げていて、想像を絶するほどに神経の細やかな製作をしていることが偲ばれる。そして、その強靭な意識が、茶碗を近づき難いものにしている。知部さんなら、もっと気楽に優しい雰囲気のものを作るだろう。そして、誰が作っても茶碗にはそれなりの味わいが出るから、どんどん作るのがよい。
by uuuzen | 2017-02-17 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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