●残り福
渡りのような生き方と言えばギャンブラーということになりそうだが、誰しも明日はどうなるかわからず、生きていることそのものが尊いと言える。



d0053294_16525842.jpgだが、自分の命が大丈夫であれば、他はどうなってもかまわないかと言えば、そうでもないのが人間で、命が一番とは言えないだろう。これは、いずれ死ぬのであるから、生が何よりも大切というのではなく、その生の中身が重要であることを意味する。ではその中身とは、世間一般より贅沢な暮らしをする経済的な尺度で測れるかと言えば、そうではない。何をしている時が一番気分いいかは人によって違うが、家内はふとした拍子に筆者に何が食べたいかと訊くことがあり、改めてそれを考えると、さして何も食べたいものがないことに気づく。一方、家内の妹はよくおいしいものが食べたいと家内に話すらしいが、そういう欲望があるのは幸福かもしれない。筆者は腹が膨れれば何でもよい方で、肉や寿司と騒いでいるTVのグルメ情報にさっぱり関心がない。それはあらゆるものを食べて来たので飽きてしまったというのではない。世間には筆者が知らない絶品の味わいの食べ物がたくさんあるだろうが、それを食べてみたいという欲求が筆者にはないのだ。こだわりがないことは無粋だが、何事にもこだわりがないというのでは全くない。本当はそういう境地に至ると一番気楽で長生き出来そうな気がするが、筆者はまだそこまで達観出来ない。アメリカの死刑囚は刑の執行の前に好きなものが食べられると何かで読んだが、たまに何も食べないと主張する者がいるらしい。たいていは豪華な食事か、あるいは子どもの頃に食べた思い出の味を求めるが、何も食べたくないと考える者は刑の執行に抗議しているかと言えば、案外そうではなく、死に直面してもう食べることにも関心を失って覚悟を決めたからだろう。それはなかなか潔い姿ではないか。何が一番食べたいかという家内の質問をたまに布団の中で思い出すと、だいたい筆者は10歳頃かそれ以前に食べたカレーライスを思う。とても黄色いルーで、安っぽい味だったが、それがその後に食べたどのカレーよりも強烈に記憶にある。それと同じカレーを作ることは市販の固形ルーでは絶対に無理で、自分で香辛料を揃えて作らねばならないだろう。そんな手間を家内に言うことは出来ず、それでその昔よりは格段においしいはずの今のカレーを食べるが、おいしくはあるが、これだという感激がない。遠い子ども時代の思い出を美化する必要はないのだが、最初に染み込む感動はなかなか鮮烈で、それを否定することもあるまい。だが、そういう記憶はやはり記憶に留めておく方がよく、実際にその大昔のカレーライスが目の前に出て来たとしても、あまり感動しないように思う。それは、味の記憶は幾分かは残っていても、筆者がそれから50年以上も生きて来て、何かが変わっているはずであるからだ。ではその変わった状態で子どもの頃と同じように、鮮烈な感動を追い求め続ければよく、各地のレストラン目指しておいしいものを探求すればいいが、そう言うエネルギーを筆者は別のところに使っている。
 さて、元旦から休みなしで毎晩深夜までパソコン画面を睨み続けているが、たまには出歩いて運動せねば却って効率が悪い。散歩は無駄な時間なようだが、その後に仕事ははかどる。動物であるからにはそれは常識だ。それが頭でわかっていながら、筆者は家から一歩も外に出ない日が何日も続くが、足腰の弱り以外に内臓にもよくないだろう。風風の湯で血圧を測ると、昨年夏からか、上が200を超える。前にも書いたが、下が家内の上よりまだ高い。これはかなり危険な状態だろうが、自覚症状がないので油断している。ストーヴを焚かない寒い部屋で終日いるので血圧が高くなるのは道理だが、真夏でも同じ血圧なので、部屋の温度は筆者の場合、関係がない。家内が心配して塩分を少なくした料理を作るが、味に鈍感な筆者は塩っ気がなくてもそんなものかと思って食べる。血圧が急に高くなった理由は自分でもわからないが、ひとつ思い当たるのは、あまり梅津のスーパーに買い物に行かず、歩くことが減少したからのように思う。スーパーには週1回という頻度で、夫婦ふたりの生活ではその買い物で冷蔵庫がいっぱいになる。食べる量が知れているのだ。一度冷蔵庫を空にすればと思うが、満杯になっているのにまた買い物に行く。いっそ冷蔵庫がない方が毎日その日に食べるものを買いに行かねばならず、運動量が増えて健康になるだろう。つまり、筆者の血圧の高さは文明病みたいなもので、便利のつけが回って来ている。人間は愚かという見本だ。金持ちは運動不足解消に金を使ってフィットネス・クラブに行くが、その滑稽でグロテスクな図を本人は意識しないどころか、選ばれし人間と自惚れているだろう。さて、運動不足解消の思いもあって、家内がゑべっさんに行こうと言い出した。宵ゑびすに行く予定が多忙なあまり、行きそびれ、ついに残り福の11日になった。大阪まで出かけるのは大変で、例年どおり京都のゑびす神社だが、去年も同じように多忙で行きそびれたことを思い出した。それで沢辺さんと会うのは2年ぶりだなと思い、どういう帽子を被って行こうかと考えた。沢辺さんに作ってもらった帽子はそう言えば去年は着用せず、今年もまだだ。それは新たな帽子を買ったからでもあるが、その帽子を家内は気に入らず、似合っていないので被るなとうるさい。あまりに目立つと思っているのだ。筆者は目立ちたいためではなく、その形が気に入っているから被るのだが、気に入っていることと似合うことは別ということはよくわかっている。だが、似合うとは、本人が照れずに自信を持つことが前提で、また自信があれば何でも似合うものだ。ともかく、家内が反対するその帽子はやめて、数年前に買った帽子にし、それに合わせてコートと靴を選んだ。こだわりというほどのものではないが、何でもいいとなればそれこそ頭から足元までがちぐはぐになって却って目立つ。沢辺さんはいつものようにガレージ・セールをしていて、筆者を見て2年ぶりと言った。1年に一度しか会わないが、気楽に話せる。商品は宵ゑびすと本ゑびすでほとんど売れてしまったとのことだが、足元に例年のごとくCDがたくさんあって、それを確認した。たいてい1、2枚はほしいものがあるが、初心者用のシューベルトの名曲集があって、それを100円で買った。帰宅して確認すると、2枚組だ。シューベルトは「冬の旅」つまり冬という連想が働くが、ディスク1に「菩提樹」が入っている。2枚を3回ずつ聴いたが、知らない曲もあってなかなか楽しい。一方でやはりダイジェスト盤の物足りなさがあって、じっくりと「冬の旅」やピアノ・ソナタが聴きたくなった。話を戻すと、沢辺さんと長話をするのを家内は嫌うので、そこそこにしてガレージを出て神社に向かった。そして、今年初めてのくじを引いた。吉と出て、方向は南がよいと言う。南はここ数か月よく行く向日市が該当するが、大阪もそうだ。シューベルトのCDを見つけ、そして少しの幸運の吉が出たので、残り福そのものではないか。綱渡りのような危うい生活を長年続けながら、ささやかな楽しみで充分で、欲張らないことに限ると思い続けている。
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by uuuzen | 2017-01-13 23:59 | ●新・嵐山だより


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