豚玉のお好み焼きを家内とよく食べるが、大阪のB級グルメが外国人観光客にどのように評価されているのか、そんなことを調べたデータがあるのだろうか。
先日風風の湯でギリシア人の青年とサウナ室でいろいろと語り合ったことを書いたが、彼が日本の海は駄目と言った後、ギリシアの美しい海の話になり、そしてシー・フードの話題からタコ焼きの話へとつながった。タコ焼きやお好み焼きは食べたことがあるようで、おいしいと言っていたが、どれくらいそうなのか、かなりサービス心からではないかと思えた。それで昨夜は録画していた番組を見ていると、オーストラリアの40代の男性が日本の女性と結婚し、北海道のニセコの広大な土地を買って、そこに外国人用のペンションを建てると奮闘していた。その彼は現在北海道でひとり住まいをしているが、お好み焼きとカツ・カレーが大好物で、死ぬ前にそのふたつが食べられれば思い残すことはないと語っていたのが面白かった。筆者はどちらかを選べと言われると、カツ・カレーがいいが、それはおいしく焼けたお好み焼きがなかなか自宅では食べられないからだ。それで冒頭に書いたように、河原町に出ると家内とお好み焼きをよく食べるが、あちこちで食べて一番安くておいしい店にもう10年以上前から通っている。それはそうと、今日は半年ほど前から気になっていた店に家内と入った。ハンバーグ専門店で、いつ見ても店の前に数人が並んでいる。今日もそうであったが、時間があったので並んだ。予想どおりにとても安くておいしい店で、店内が満席である理由がわかった。同じメニューで嵐山なら5割は高い。それに味も今ひとつだ。ハンバーグ専門というのが、価格を安く出来るうえ、専門を深めることが出来ていいのだろう。さて、今日は冒頭に「豚」という文字を使う番であったので、無理して話題をつないだが、駅前の変化とは関係のないことばかりを書いた。1週間ぶりに嵐山駅の改修工事の様子が気になって写真を撮ったが、またコンクリート・ミキサー車が来ていた。そのコンクリートをどこに使うのかが今日わかった。プラットフォームは全部で3つあるが、その中央の左右をいつもは使っている。最南のプラットフォームは春と秋の行楽シーズンに嵐山に着いた人を下ろすのに使われる。最北はおそらく戦後からは使われたことがない。今回の工事は3つとも手を加えていて、筆者の想像では行楽シーズン用が車椅子を利用する客に便利なように大幅に改造される。それがどのような形になるのかは知らないが、今日見たところ、そのプラットフォーム上にコンクリートを積んだ手押し車が何度も往復していた。その様子は今日の2枚目の写真の左端からわかる。現場監督らしき人物が、筆者が撮影している時にこちらを真正面に見据えて文句あり気な顔であったが、そんなことは気にしない。見せたくないのであれば、覆いをするべきだ。それをせず、徹夜で騒音をまき散らしながら地元住民に挨拶のひとつもないのであるから、こっちが文句を言いたいくらいだ。
それもさておき、今日の最初の写真を撮った後、筆者は右眼に異常を感じた。視界の右側に真っ黒に焦げたような太くて大きなミミズ状の画像が浮かんだ。写真のフィルムが燃えた時に出来るような黒さと形状で、それがまばたきをするたびに形を変え、少し場所も変わる。痛みはないが、これまでにない経験で、うろたえた。何か月か前、K先生の個展にお邪魔した時、K先生が両眼の手術をして見え方の異常がなくなったと聞いた。その時耳にしたK先生の物の見え方の異常と筆者のそれがどのように違うのか知らないが、K先生は視界のあちこちに黒い斑点が生じ、網膜の異常な箇所をレーザーで少しずつ焼いて閉じたとのことであった。筆者はそれを思い出し、いよいよ筆者のそのような年齢になったかと思った。今日の写真を撮った後、その足で郵便ポストに行き、帰宅後に家内に眼の異常を言うと、すぐに眼科医に行こうと言われた。今日は自転車で向日市近くまで行く用事があったので、そっち方面にある眼科医に行くことに筆者は同意した。これが反対方向であれば、日を改めたであろう。曇天であったが、用心のためにサングラスをかけ、自転車に乗って家内と出かけた。その眼科医には去年家内が初めて診てもらったが、とても応対が親切で感心していたのだ。眼科医に向かうまで、筆者は気持ちが悪いので右眼を閉じたまま走ったが、医院内で待っている間も症状は改善しない。視力検査や眼圧検査などの後、どういう診察結果かと心配していたところ、眼球内部のゼリー状になっているところから出血しているとのことで、経過を見ようと言われた。その出血がひどい場合は網膜を剥離させることもあるそうだが、そういう症状は加齢に伴って増えるとのことだ。先日筆者に介護保険料を秋から支払うべしとの通告が来たが、65歳の誕生日を迎えると、完全に老人の仲間入りだ。気分はそうでなくても体は正直で、血圧がここ半年ほど急上昇していることも同じように加齢が原因だろう。網膜に異常はなさそうなので、手術の心配はひとまずないが、これからどう変化して行くかわからない。こうして書いている画面上に相変わらず黒い不気味な筋がくねくね動き回っていて、その黒さがやや薄くなったが、明日はすっかりなくなるのか、あるいは逆に左眼にも出て来るのか、誰にもわからない。事故は急に訪れるが、体調の変化についても誰しもそう思っている。だが、体調の変化は幾分かは自己管理にもよる。
そうそう、先日TVのキャスターが糖尿病患者で人工透析している者はみんな死ねとネットで発言し、退社する羽目になった。病気にはならないと思っていても、人間はいつか死ぬ定めにあり、その前段階として病気になる。キャスターはそういう病気ではなく、自己管理の部分が大きい糖尿のことを言っているつもりだが、それでも自己管理ではどうにもならない糖尿病との境をどう区別するかは誰にも出来ない相談だ。筆者は最近徹夜するなど、眼を特に酷使している自覚があるので、右眼の異常は何となく自分が招いた結果、つまり自業自得と思っているが、人間が生きて行く時に体を酷使することはいくらでもあり、それをしないでおくべきという考えは通らないだろう。そこには価値観の問題も関係するが、体を酷使したことで得られる成果は必ずあり、そういうことを何もせずに、何の成果も残さない生き方が最も称えられるべきとは言えない。つまり、人間は硯に擦り下ろされる墨と同じで、全部使い切らないうちにたいていは寿命を迎えるが、その代わりにその墨を使っての作品を生む。また、墨を擦り下ろすことは命を削ることであり、その間に病にもなって当然で、それは生きている証拠であり、その生が充実していることでもある。それで最初の「豚」に戻ると、昨夜録画を見たオーストラリアの男性は、こう言っては何だが、腹が出っ張って豚のように太っていた。精密に検査すると、肝臓その他、あまりよくない箇所がいくつか見つかるだろう。それでも目標に向かって毎日頑張り、夢を実現しようとしている。その夢がかない、たとえばペンションを10年ほど経営してぱたりと急死しても、本人は本望だろう。ただし、その直前にお好み焼きとカツ・カレーを食べていればなおよい。還暦を過ぎれば体のあちこちに異常が出て来てあたりまえという意見がある。筆者の右眼の異常もその部類で、あちこち少しずつ狂い始めていることを思う。