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●嵐山駅前の変化、その409(マンション)
リギリスが死んだ後にクツワムシが鳴き始めると聞いた。一昨日は夜8時半に地元の小学校前に集合して夜回りをした。



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少年補導委員の毎月1回の役割で、今年は来月が最後であったか、あるいは一昨日がそうなのか忘れたが、晩秋から真冬にかけて行わないのは、夜遊びをする子どももいないとの判断だ。一番子どもたちが夜遊びをするのは夏休みの間で、それを過ぎると深夜のコンビニにたむろすることも減る。夜回りは当日集まった委員の数で、どこをどのように回るかを決めるが、一昨日は24名で、二手に分かれて南の松尾方面に行くグループと、北に向けていくグループとなったが、人数が多い場合は三つに分かれる。そういうことは今年は7月にあったが、主婦の委員も多く、彼女たちはなかなか夜は出にくいので、平均すると20名台だ。本部役員を含めると50名近いが、その半分程度が毎月参加する。筆者は8月は箕面のホテルに宿泊したので参加出来なかったが、そうそう、夏休み期間中はほぼ毎週あった。筆者は必ず学校から北部を回るグループに加わる。わが家のある方向の地域に馴染みがあるからだ。わが家の前は通らないが、阪急嵐山駅前に出て、そこから風風の湯、そして自転車道路をぐるりと南下して松尾橋まで行き、そこで南を回っているグループと合流して学校の正門前に戻る。それが一昨日は自転車道路から学校に近いところに出て、そのまま正門前に行った。そこには大きな時計が夜もよく見えるように頭上で光っているが、40分ほどしか歩いていなかった。普段より15分ほどは少ない。これは松尾橋まで行ってももう子どもたちもいないだろうとの判断だ。それでいつもより15分早く解散したが、その夜はとても印象に残った。自転車道路を歩いている時、川岸でたくさんの秋虫が鳴いていて、それが素晴らしかった。鈴虫とコオロギがほとんどだが、それ以外にも混じっているのだろう。たまに機織り機のように忙しくうるさい虫がいる。クツワムシだ。それが本当にガチャガチャと鳴いているようで、思わず昔覚えた童謡を口ずさむ。「ガチャガチャガチャガチャクツワムシーー」。これは本当にそのとおりだ。だが、クツワムシは鈴虫やコオロギほどには多くない。自転車道路で言えば10メートル感覚ごとに鳴いていた。それにしてもこのクツワムシが混じって秋の虫が一斉に鳴くと、わびしさよりも楽しみを感じる。愉快というのが当たっている。筆者の隣りを歩いていた人が、やがてこのクツワムシも鳴き声が途切れ途切れになって行くと言ってくれたが、それを想像して急にわびしくなった。みんなで真っ暗な道を歩いているので、さびしくも恐くもないが、筆者はふともう2,3週間後にひとりで同じ道を歩いて、めっきり数が減り、また鳴き声が小さくなった秋虫の声を聞いていることを思い浮かべ、何だかぞっとした。それは、人間にも当てはまることだからだ。あれほど元気だった人が、気づくと歯は抜け、背が曲がり、そして次に気づいた時にはもう死んでいる。人生のそうした速さを筆者はますます感じるようになって来ているが、それを言えば少年補導の夜回りがそうだ。以前書いたように、筆者は30年ほど前に一度それを担当し、同じように毎月20数名の委員と同じように桂川沿いの自転車道路を歩いた。それが昨日のことのようであるのに、実際は30年経っている。もう次の30年はないから、人間の人生も虫とあまり変わらない。あまりどころか、全く同じと言ってよい。
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 秋虫の1年の命に比べて人間は何十回と四季を経験することが出来るが、何十回経験しても一度であっても、そう変わらない気がする。要は鮮烈な経験であるかどうかで、何十と繰り返すとそれは薄れる。何でも初めてがいいのであって、二度目はないと思うことだ。あってもそれは味気ない。それで、秋虫の話に戻ると、無数の鳴き声は虫の交響曲で、いい音質で録音出来ればいいなと思った。ただし、臨場感はステレオでも実物の現場にはとてもかなわない。秋虫が盛んに鳴いていたのはたぶん300メートルほどの区間だが、それが数メートル移動するたびに違った方向から違った音色が聞こえて来る。その意外な愉快さは、しばらくどこかで立ち止まって聴き惚れていたいほどのものであった。わが家の裏庭にも何匹かの鈴虫やコオロギが鳴いているが、それとは比べものにならない大々合唱だ。そして、それは来年の同じ頃でなければもう聴くことは出来ない。そう思うと、今度は急にさびしくなった。一方で思ったことは、大雨が降って川の水が一気に溢れる時期であるから、そんな大雨の時に彼らがどこでどう避難しているのかだ。雨に濡れることはまだしも、人間でも簡単に流される洪水の時、彼らはどこに隠れるのだろう。間抜けな虫はそのまま流されるだろうが、案外どの虫もそこは本能で安全な場所に行くのだろう。だが、それより前に産んだ卵は流されないのだろうか。そんな心配はきっと不要なのだろう。人間がいようといまいが、毎年必ずまた大量の虫が鳴き、われこそはと雌に鳴き声を聞かせようとする。その健気な本能を人間も持っているはずだが、独身のまま生を終える者もいる。それが年々増えているようで、秋虫よりも人間の方が劣っているのかもしれない。6月だったか、7月だったか、同じ夜回りで蛍を見かけた。それで家内を連れてその光を見に出かけたが、蛍の次は秋虫で、自然は忙しく循環する。それもまた人間も同じで、先ほど書いたように、気づけばもう知り合いが死んでいる。いつかそれは自分にも訪れるが、自分が死んだことはわからない。誰かが昔書いたように、死は他者のことであって、自分の中にはない。経験出来ないからだ。経験したと同時に、その経験したことを知覚できない。それほどに死は他者に属するもので、誰も自分の死を恐れる必要はない。あるとすれば、身近な人たちが死んで行くことで、それは秋虫が少しずつ音色を小さくし、途切れ途切れにして行くことと似ている。つまり、たとえようのないさびしさ、わびしさだ。そういう気分が支配的になって行く人間の晩年とはどういう意味があるのか、筆者にはまだよくわからないでいる。誰かが筆者の死を惜しむということもまああり得ず、誰かのために生きて行くという考えは筆者にはほとんどない。筆者が先に死ねば家内はさびしがるが、女は男より強い。いずれまた元の生活を取り戻すだろう。さて、今日の写真は去年9月12日に撮った。駅前マンションの建設中で、塀に囲まれてさっぱり工事の状況がわからない。今はもうこの状態はなく、その意味で、秋虫とは違う。秋虫なら来年も同じ音色を聞くことが出来るが、工事中の様子は鉄筋コンクリートであるので、60年ほど経たねば同じような写真を撮ることは出来ない。60年に一度鳴く秋虫みたいなもので、その分、秋虫の60倍の風情があるかと言えば、全くそれがないのは、人間の作るものの味気なさを意味している。
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by uuuzen | 2016-09-13 23:59 | ●駅前の変化
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