●『FRANK ZAPPA FOR PRESIDENT』その5
烈に書きたいことがあるというのでもないが、昨日で終わらなかったので今日も何か書く。全く読み返さずに投稿しているので、矛盾やおかしな箇所が多々あるはずだが、暑さのせいにして訂正しないが、昨日の投稿分は最後に書き忘れたことがあったので、今6行を追加した。



今日書くのは本作のもうひとつの目玉曲「アムネリカ」だ。ナポレオン・マーフィ・ブロックが歌っている。この歌詞が初めて紹介されたのは92年のフランクフルトでの『ザ・イエロー・シャーク』公演で、それに筆者は参加し、また会場となったアルテ・オーパの玄関を入ったところで売られていたパンフレットを購入したが、その中の公演の曲目解説の中に歌詞が載っていた。そのプログラムを先ほど引っ張り出して撮影した。今日の3枚目の黄色で囲った部分が歌詞だ。『ザ・イエロー・シャーク』公演で「アムネリカ」は演奏されたが、元はシンクラヴィア曲だ。また、ザッパはその曲を『文明、第3期』収録のシンクラヴィア・ヴァージョンとして作り変える際に、ヴォーカルを含んだ本作のヴァージョンをどれほど参考にしたかが、ようやく本作の発売によって比較出来ることになったが、本作のリーフレットには本曲が何年の録音であるかが記されていない。これが不思議だが、ナポレオンがインタヴューで語っていなければ、今後質問を受けるだろう。最もあり得るのは84年だ。同年の3枚組LP『シング・フィッシュ』ではナポレオンはイーヴル・プリンス(邪悪王子)として声を担当している。もちろんそれ以降でもナポレオンはザッパに呼ばれて録音に参加したことはあり得るが、88年の最後のロック・ツアーに参加せず、84年でいちおうザッパとは縁が切れていたのではないか。それは『シング・フィッシュ』からわかる。ナポレオンは邪悪王子役として歌を担当しているが、それが『シング・フィッシュ』でまともに収録されるのは、「トーチャム・ネヴァー・ストップス」の中間部のみだ。アルバムの最後でもイーヴル・プリンスは登場するのに、ハリー役のテリー・ボージオや主役のシング・フィッシュ役のアイク・ウィリスがブロードウェイ風に歌を担当する。つまり、ナポレオンの出番がとても少ない。もともとイーヴル・プリンスはそのような弱い立場の、いわばどうでもいいような役であるからと言えるが、ザッパはブロードウェイ・ミュージカルの批評家として位置づけた。また『シング・フィッシュ』の歌詞に出て来るように、イーヴル・プリンスは収入がとても少ない。批評家とはそういうものだ。もともと音楽評論家を文字の読めないような連中と思っていたザッパは、イーヴル・プリンスに同情もしないが、聖書を信じる真面目な人物として描かれ、そこにはザッパの自己投影が多少は感じられる。ではなぜ「EVIL」と形容したかだが、これは「邪悪な」以外に「不運な」や「弱い」の意味がある。また「有害な」という意味もあるが、評論家はザッパから見ればそういう存在であったということだろう。創作の道に進めなかった人物が作品を批評することで飯を食って行こうとすると世間では言う人があるが、そういう見方は日米ともにさほど差はないだろう。また、ザッパがイーヴル・プリンスに自己投影したとすれば、それはブロードウェイ・ミュージカルには門外漢に近いが、自分のアイデアによってそこに新風を吹き込むことが出来る、つまり批評的にブロードウェイを見つめて『シング・フィッシュ』を作ったことにおいて、充分納得出来ることだ。
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 さて、筆者は『ザ・イエロー・シャーク』公演でアンサンブル・モデルンが演奏する「アムネリカ」を聴きながら、ザッパには珍しい短調の物悲しい曲で、イタリア的なものを感じたが、プログラムの解説には主題は『シング・フィッシュ』で最初に紹介されたとある。同作は筆者にとって最も聴き込んでいないザッパ作品のひとつだが、その最大の理由はブックレットに印刷されたシング・フィッシュの語りが、すべて黒人訛りそのままを文字化してあって、なかなか読みづらいからだ。それはともかく、『ザ・イエロー・シャーク』公演で買ったプログラムの解説文がなければ、「アムネリカ」が84年の曲だとは気づかなかった。帰国してすぐに確認すると、確かに「イーヴル・プリンス」というごく短い語りの曲の背後に主題のメロディが流れている。ザッパは本作の「アムネリカ」を『シング・フィッシュ』に収めるために84年に録音しながら、結局その適当な場所が見つけられなかったのであろう。実際は「トーチャム・ネヴァー・ストップス」の直後、「イーヴル・プリンス」の直前が最も妥当な場所で、そこに収めても3枚組LPの第2面は全体で19分半という長さになって、収録は出来たが、他の面は15分から16分程度であるので、やはり3分10秒の「アムネリカ」は余分と判断されたのだろう。それで、すべてカットしてしまうのは惜しいこともあって、その主題のみを語り曲の「イーヴル・プリンス」の背後に使ったと想像する。だが、LP3枚組はCD化に際して2枚となり、充分に収録時間に余裕が出来たので、「アムネリカ」を収め、また他の曲もロング・ヴァージョンを使うことも出来たのではないか。その辺りは当時のEMIとの契約、また多忙なザッパでもあったので、LPと同じ内容のCDとしたのだろう。ただし、CDは2種あって、ディスク1と2に収録される曲数が、つまり全体をふたつに分ける区切りが違っている。話を戻して、『シング・フィッシュ』では邪悪王子の出番が少なく、印象がうすい。アイク・ウィリスの声ばかりが目立っているのは、彼がシング・フィッシュ役であるので当然だが、それにしてはせっかく招いたナポレオンの出番があまりに少ない。シング・フィッシュ役は『ジョーのガレージ』で言えば、ナレーターのセントラル・スクルーティナイザーに相当するが、そのナレーターがわが者顔で物語を運んで行き、本来セントラル・スクルーティナイザー役としてのイーヴル・プリンスが目立たない脇役となっているのは、それだけ良識の力が減退し、悪が跋扈したとザッパが考えていたことになる。またそのことはイーヴル・プリンスの弱弱しさから明白だ。客観的に世界を見つめる存在としてイーヴル・プリンスを作り上げながら、その客観は全くどうでもいいような無視されるほどの存在で、代わって麻薬の流通を支配する大物としてのシング・フィッシュの思想が客観と同一視される。
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 ザッパは本作の「アムネリカ」を『シング・フィッシュ』に収めず、いつどういう形で発表するつもりでいたのだろう。その機会が訪れないまま、ザッパは死んでしまったが、その前にアンサンブル・モデルンとの出会いがあり、彼らに器楽曲としてアレンジして演奏させることになった。実際はそれ以前にシンクラヴィア曲が完成していて、それをアンサンブル・モデルンは模倣した。その元のシンクラヴィア曲は、本作のヴァージョンからヴォーカルを省いたものかと言えば、これが全然違う。そこで、アルバムで発表されているシンクラヴィア曲には別ヴァージョンがいくつもあると想像するが、実際そういう例は『文明、第3期』収録の「ビットブルクのレーガン」が2010年の『議会は……法律を作らない』の最後に収められた「ビットブルクのレーガン、もっと」の2曲からわかる。それはともかく、84年に書かれた主題が「アムネリカ」として公式に発表されたのは92年で、アルバム収録はその2年後の『文明、第3期』、そしてアンサンブル・モデルンの演奏は99年の『エヴリシング・イズ・ヒーリング・ナイスリー』だが、そこでは「アムネリカは家に帰る」と題されている。これはザッパのアイデアであろう。もちろん67年の『アブソルートリー・フリー』に収められた「アメリカ・ドリンクス・アンド・ゴーズ・ホーム」に倣ってのものだ。「ドリンクス(酒を飲む)」を省いたのは、アンサンブル・モデルンが酒を飲むどころか、きわめて真面目に演奏したからだが、それでも酒を飲んでの帰宅のようによろめいた演奏であるとのザッパの思いだ。それは、もともとシンクラヴィア曲である同曲は、人間が演奏するにはあまりに難しいからで、練習を重ねた結果、どうにかシンクラヴィア曲に似た仕上がりになった。そのことを比較するには『文明、第3期』と『エヴリシング・イズ……』を手元に置く必要があるが、どちらもザッパ家から通販されたので、所有する人は多くはないだろう。ザッパの曲を理解し、楽しむには、とにかくアルバムを全部揃え、またそれらを聴き込むことが欠かせず、あれこれ考えることが多い若者では何年もかかる。またそこまでして楽しむべき音楽と思う人は少ないであろうから、ザッパについての評価は今後も変態かつ難解に留まるはずだが、いつの時代も変態好きに比べて難解好きな圧倒的に少なく、ザッパの変態性を嗅ぎ取って興味を持ったもののうち、9割以上は難解の前であえなく挫折する。それは、ザッパが変態という、誰もが持っているスケベエ心を震わせながら、その向こうにあることにも気づかせたかったことをどうでもいいと考える者が大多数を占めるからで、ザッパはそのことを知っていたはずだ。その向こうにあるものとは、たとえばザッパはアメリカ人であったので、アメリカの民主主義のありようがある。その前提は表現の自由だが、それを踏まえながらもザッパはアメリカの民主主義が有名無実のものになっていることに危険を感じ、そのために大統領選に出馬することを考えたと言ってよい。
 『ザ・イエロー・シャーク』公演のプログラムに「アムネリカ」が「アムネシア」と「アメリカ」の合成語であることが書かれる。「アムネシア」でぴんと来る人はザッパの音楽をそこそこ聴いている人だが、これは『アブソルートリー・フリー』の「アムネシア・ヴィヴァーチェ」に使われる。それはいわば音楽の速度記号のような題名だが、「デューク・オブ・プルーンズ」の歌詞から引き継いだ情景描写ないし、セックス中の女性の恍惚感のたとえだ。プルーンの木の下でセックスに励む男女は、ゴーカートが揺れるように腰を激しく動かすが、その最中に女は相手の男のことを忘れるほどに「行って」しまう。その感覚が「アムネシア・ヴィヴァーチェ」で、その恍惚感をザッパはマザーズのメンバーを使って楽器と声で形容するが、「アムネシア」は「健忘症」であり、「ヴィヴァーチェ」は「快活に」であるから、女は男のことはすぐに忘れても、男根の味だけは覚えているということだろう。そして、大多数の聴き手もその曲の題名を快活にすぐに忘れる。それはさておき、「アムネリカ」でアムネシアをアメリカと合体させたザッパは、「アムネシア・ヴィヴァーチェ」と同様、67年には思いついていたのではないか。だが、84年にナポレオンが歌う歌詞では、性交中の女の陶酔ではなく、麻薬と関連づけられる。60年代のザッパはセックスや政治を歌詞に盛った割りには麻薬についてはさほど辛辣ではなかったのではないか。それが顕著になるのは麻薬でロック・ミュージシャンが次々と亡くなり、また社会的地位のある者でもその虜になるという社会の変化が目に見えて大きくなって来た70年代半ば以降だろう。日本はアメリカほど麻薬が蔓延していないようだが、覚醒剤を含み、薬物による事件はいよいよ増大化している。それに、日本は戦前は麻薬と大きく関係し、中国に阿片を大量に売って莫大な利益を得、それが日本の政治家から軍隊へと流れたとされるが、一方では薬品会社が大きく成長した。阿片戦争でイギリスは中国を骨抜きにしたが、同じことを日本もやったので、イギリスばかりを非難は出来ないだろう。だが、そういう国の歴史は学校教育では教えられないから、ものの10年や20年ですっかり国民は忘れ、そして知るための手立ても失う。ザッパが学校をやめろと言うことは、国は決して国の悪事めいたことを教えないからでもあるだろう。では図書館に通い詰めると客観的になれるかと言えば、昔の新聞や本も国の意向に沿ったものが多く、そのことから推して、今も似たような状況を為政者が巧妙に作り出していると考えることがまともだが、ザッパが言うように世間は全くアホだらけで、自分の頭で何も考えようとしない。それどころか、為政者を通じて金をもらい、喜んで扇動者になるような連中ばかりがマスコミで大きな顔をし、議員になろうとする。ま、日本の話はやめておこう。日本が今後もアメリカの忠犬であるからには、ザッパの思想はいずれ日本にもそのまま当てはまると思っておいた方がよい。いや、もっとひどいかもしれない。
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 本作の「アムネリカ」の歌詞は、「賄賂で買収され得ないものは死ぬか忘れ去られる――生き延びられない。それらの恐ろしい創造、それらが生まれながらのものとなる。それらはこのような悲しみを思い出させる。「わたしの神聖な病のみが救いだ」。わたしは聖書を覗き込んだ。そうだ、自分には負うべき罪はない。それらの恐ろしい創造はみんな死なねばならない。」 この歌詞の中のある言葉は『シング・フィッシュ』にも使われるので、「アムネリカ」が同アルバムに収録するための作品であることは明らかだが、「わたしの神聖な病のみが救いだ」という下りは気になる。これはザッパが自分の癌を知っていたか、予見したかのような雰囲気がある。汚濁にまみれたこの世からおさらば出来るのであれば、それは救済であるとの考えは、強い正義感の敗北だが、個人がいくら正義の名のもとに行動しても、それはただのアホと思われるということで、今の日本でもそれは同じだ。人は人とつながって生きているので、賄賂や付け届けはあたりまえで、アメリカだけではなく、日本では特にそうだ。東京都知事選で、議会の長のドンぶりが伝えられたが、地域のドンということは早い話がやくざと同じで、筆者が何年も前からこのブログに書いているように、日本はやくざ国家であると思えば今さら何も驚くことはない。どの地域に行ってもやくざはいると言われるが、それはどの地域にもやくざとつながるドンがいるということで、そういう連中が地域を動かし、国を動かしている。それでみんながいいならば誰からも何も文句は出ない。本作の4曲目のインタヴューでザッパはアメリカの民主主義は穴だらけと言っているが、どの議員もみな同じように見え、人々は誰を選んでも同じと思って投票率が上がらない。全く日本もそうで、それで地域のドンがいつまで経っても陰で何事も自分たちが潤うように事を運ぶ。そういう状況に納得が行かないのでザッパは出馬しようとしたが、その奥にあるのは、政治家はみなどうしようもないいかさまに見えていたからでもある。そのいかさまぶりは日本の議員立候補者たちも同じようなもので、選挙用ポスターの顔写真を見ただけでどういう人生を送って来たかが丸わかりだ。だが、そういう人物たちばかりであるので、選挙に行かないではいつまで経ってもそういう連中の思惑どおりの世の中になり、選挙に行っても何も変わらないでは、『よしオレが立候補してやろう』という気になるのだろう。ザッパはそんなひとりであった。
 今日は少し長く書いたが、本作の最後の曲「アメリカ・ザ・ビューティフル」は88年ツアーからで、海賊盤では知られていた。これをジョー・トラヴァースが最後に持って来たのは、後味がいいようにとの思いがかなり働いたためであろう。さんざんアメリカの悪口を言いながら、ザッパはアメリカの民主主義は愛していた。それが無視されることには激怒したが、日本では民主主義はアメリカと大いに違い、戦争があっても意識はさして変わらず、そのことは福島原発の事故以降を見てもわかるが、アメリカのいいところを学ばずに、悪いことばかり真似していては、そのうちまた焼野原同然になるかも。だが、それでまた国民が頑張れば昭和と同じように輝かしい成長時代がやって来ると妄想している人もあるだろう。それはともかく、『アンクル・サム』のオペラが書かれていたとして、その最後に「アメリカ・ザ・ビューティフル」やそれに似た国家讃歌の曲が置かれたであろうか。筆者にはそうは思えない。「アメリカ・ザ・ビューティフル」は88年ツアーの組曲のひとつであった「レパブリカン・スウィート」のために用意されたが、生前のザッパはアルバムに収録しなかった。それはまだまだ言い足りないことがあるとの思いからだ。それで、本作にそれが収録されたことは、ザッパがようやくたどり着くべき場所に着いたと考えられ、そこに一抹のさびしさを思う。常に未完であり、戦い続けるザッパに、「美しいアメリカ」などという表現はふさわしくない。日本でも「美しい日本」という標語が盛んに言われるが、洗脳もはなはだしい。「美しい日本」を言いたいのは、自分たちを美しいと自惚れている醜さの権化である政治家だ。わざわざそんな標語を掲げなくても、誰でも日本の美しさは知っている。それはさておき、本作は同時発売された『ビスケットの十字』以上にまとまりがよく、またデビュー当時と最晩年のザッパが概念継続していたことを端的に伝えてくれるが、未完的味わいが避けられているところは、ザッパ最後のアルバムと位置づけるには理想的である一方、一抹のさびしさを感じさせる。ザッパのオペラ的な長編のアルバムは、起承転結が明確ではなく、また話のつながりも必然性が感じられない場合が多く、たとえばそのことは昨日取り上げた「茶色の靴はやめておけ」でも言える。歌詞の流れには省略が多く、またその省かれた部分に思いを馳せることが聴き手の楽しみでもあるが、そういう想像力の足りない人にはちんぷんかんぷんの内容となる。ザッパの歌詞は行間を読み取ることが重要で、またそうしながら歌詞からイメージをはっきりと思い描くことが大切だが、それは訳詩からはなかなか把握しにくく、自分で英単語を逐一追って体験すべきもので、そのことで改めてザッパの歌詞の無駄のなさや暗示していることもわかる。ジョー・トラヴァースはそういうことを全部知りながら、あえて「アメリカ・ザ・ビューティフル」を最後に置いた。
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by uuuzen | 2016-08-17 17:19 | ●新・嵐山だより(特別編)


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