●『THE CRUX OF THE BISCUIT』その6
が鈍りそうだが、今日も本作について書く。先ほどまた写真を撮ったが、わかりにくいかもしれないので、手描きで文字を加えた。2枚の新譜のうち、本作は102となっている。



もう1枚は103とあり、それでまずは本作を取り上げることにしたが、2枚に共通するのはこれまでのザッパ没後のアルバムと同じように、ザッパ生前のアルバムのみでは欠けていた部分を埋めるための素材を含めている。それは103の『大統領選出馬のザッパ』の方により言える。そのことに関しては同作を後日取り上げる時に書くが、録音の存在は知られながら、長年未発表であった曲が含まれ、そのことが何ともありがた。それは本作にも言えそうだが、実は本作はどの曲もこれまでファンの間では存在が知られなかった。これがライヴ演奏ならば、音質の悪い会場録りを収めた海賊盤、海賊テープがあるが、本作では例外的に最長の20分近い6曲目がライヴで、これまで海賊テープがマニアの間で流通して来たのかどうかは知らない。同曲以外はスタジオ録音で、それはめったに海賊盤にはならない。そのため、アルバム『アポストロフィ』が完成するまでにどういう録音があったのか、ほとんど誰にもわからなかった。また、本作のみでそのことがすべて判明したかと言えば、全くそうではなく、まだ何倍もの録音はあるだろう。ただし、それらはみなザッパにとっては素材であって、アルバムにそのまま収めることは出来ない。さらなる加工を執念深く施した結果が『アポストロフィ』であって、ザッパにとってのアルバムは音楽家として最も重要な作品と言えるものであった。そのアルバムのためにツアーをし、スタジオで何度も同じ曲を演奏し、それらから良質の部分を抽出して、40分程度の短さにまとめたが、それは濃縮エキスと呼ぶにふさわしく、その前にあってはあるステージの演奏やスタジオでのある曲の一テイクは、かなり見劣りがする。それを言い換えれば、本作はそれら見劣りする、実際は聴き劣りというべきか、ともかくアルバムとしてのまとまり感に乏しく、前述したザッパの執念は感じられない。同じことはルース・アンダーウッドが『ロキシー・バイ・プロキシー』のブックレットに書いていた。つまり、ザッパが生きていればそうしたアルバムを絶対に出さなかったという意見だ。それに対してゲイルは嫌味を込めた反論をそのブックレットに書いていたが、一ファンの外野的な意見を言えば、どちらの思いもよくわかる、作品の完成度にとにかく厳しかったザッパにすれば、素材を人前に晒すことは嫌ったであろう。そのためにサイモンさんが本作の解説に書くようにザッパは海賊盤を大いに嫌った。それは音が悪いことのほかに、どのステージも満点の出来ということにはならなかったからだ。だが、ではザッパはなぜインタヴューも含めてどのような録音も保存したのだろう。アルバムが完成すればそのための素材は不要だが、とにかくザッパはそれらをすべて保存した。増え続ける一方の素材であるから、たとえば本作の元になった録音の大半をザッパは録音後に聴かなかったであろう。そしてそのままでは朽ち果てて行くことは当然で、それで危機感を抱いたゲイルはどうにか良質の素材だけはアルバム化しようとした。その意志はヴォルトマイスターのジョー・トラヴァースに継がれ、また一方ではアレックス・ウィンターの登場によって、またアーメットが新たに社長に就任して第2期に入ったが、常識的に考えて今後アルバムを出すごとに、良質の素材は底をついて行く。だが、103はまだそういう段階に至っていないことを示し、今後104,105がどういう内容になるのかと期待が出来そうでもある。
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 ところで、このアルバム番号だが、今回102と103というのは明らかな間違いで、再プレス時に訂正されるべきだ。というのは、前回の『ロード・テープス#3』は102となっていたからで、本作は103、そして『大統領選出馬のザッパ』は104にすべきだ。だが、それでも納得が行かない。2枚組CDの『200モーテルズ組曲』には101と記してあり、DVDの『ロキシー』に付属しているCDのサウンドトラック盤には102-2とある。これは『ロキシー』全体が102で、その音のみの盤を102-2と位置づけたのだろう。ともかく、101、102が出ていたのに、『ロード・テープス#3』がまた102、そして本作も102となっているから、アルバム番号はふたつずれている。正しい番号は『ロード・テープス#3』が103、本作が104、『大統領…』が105だ。こういう間違いは、ゲイルが亡くなったことと、短期の間にそれらのアルバムの企画が同時進行し、どれを先に出すかが決まっていなかったであろう。本作は本来なら2年前に出すべきで、今頃になった理由はわからないが、本作と『大統領…』はザッパ・レコードがユニヴァーサル・ミュージックに世界配給を任せた形で、今後ザッパ・ファミリーは同じ形に頼るはずであろうから、アルバム番号に関してはいずれアーメットが声明を出して正しいものに直すのではないか。そう言えばアーメットはその番号に関して発言したが、それはいわばいい加減にして誤魔化そうという感じがあって、おおらかなのはいいが、ドゥイージルではそういうミスはしなかったかもしれない。それはさておき、40周年記念のオーディオ・ドキュメンタリー・シリーズとして本作は69年を飛ばして一気に72,3年となった。これはかなり気になる。筆者はてっきり次は『アンクル・ミート』の素材集を出すのかと思っていた。またその発売とともに、CD2枚組になって聴きにくくなった同作の印象が払拭されることを期待しているが、ウィスキー・ア・ゴーゴーでの優れたライヴ録音をジョー・トラヴァースは発掘していて、それが『ロード・テープス』のシリーズとして発表されるのか、あるいは40周年記念のオーディオ・ドキュメンタリーの1作になるかだが、後者とすればもうとっくに40周年は過ぎていて、この調子では50周年記念になる。アーメットはまだ若いのでいいが、60代半ば以上のファンが大勢いることをもっと自覚してほしいものだ。だが、先日も書いたように、アーメットが社長になってから発売が勢いづいているし、アマゾンで安価で予約購入出来るようになり、ザッパ・ファンにとっては嬉しいことになっている。
 さて、先ほど本作のサイモンさんの解説を拾い読みすると、6曲目の「黄色の雪は食べるな/聖アルフォンゾのパンケーキの朝食」の冒頭のメロディに、ライオネル・ハンプトンの「ミッドナイト・サン」の主題が紛れ込んでいるとある。サイモンさんも最近までそれを知らなかったらしい。早速YOUTUBEで確認すると、60年代初頭の白黒のライヴ演奏がアップされている。ハンプトンはビッグ・バンドを率いながら、自分はヴィブラフォンでその曲を奏でるのだが、マイルドでたおやか、よきアメリカという感じでなかなかよい。それに、ザッパがそうした黒人のビッグ・バンド・ジャズにいかに憧れたかがわかる。またハンプトンの同曲はザッパの曲の先駆でありながら、ザッパの曲はその伝統をどこかで踏み外したところがあって、ザッパがジャズが腐臭を放っているとよく語ったことに納得出来る。確かにハンプトンのその演奏は今聴いても前衛的だが、それは予定調和の中でのもので、ザッパのような破格ではない。そこにハンプトンとザッパの世代間の差が出ていると言えるかもしれないが、そうとばかりも言えない。というのは、ハンプトンの芸術はジャズ史で見ればフュージョンに流れ込んだことになるが、ザッパはジャズ・フュージョンの範疇からも逸脱している。サイモンさんは6曲目のイントロは、「ミッドナイト・サン」のメロディのほか、「ルイ・ルイ」も加味していると書くが、リズム的にはそうだろう。そして、その2曲をベースにすることは、やはりザッパがジャズ以降のロックを栄養としていることを示すが、肝心なことはザッパが剽窃だけに終わっていないことで、「ミッドナイト・サン」にしても確かにその香りはあるが、ザッパはハンプトンが持っていたメロディの感覚をもっとぎくしゃくとさせている。もっとも、そのぎくしゃくした雰囲気もジャズにあって、たとえばオーネット・コールマンの初期作はその代表と言ってよい。ではザッパがそうした前衛と言われるジャズからぎくしゃく感を学んだかと言えば、そうではないだろう。ザッパはもっとほかの音楽からも栄養を吸収している。それは現代音楽であり、民族音楽だが、それは「ミッドナイト・サン」の香りの影響を指摘した人にはわからないかもしれない。それほどにザッパは広大で、どこから何を引っ張って来て作品に使用しているかわからない。そして、そうした影響箇所をザッパの音楽からすべて除去した時に何が残るのかという疑問が起こるが、前述したように明らかに引用とわかる場合以外は剽窃ではないのであるから、除去のしようがない。これは、他の何かに素材を求めずとも、自分の内側に沈潜することで創造出来るとの確信があったためで、ザッパには先人の誰かの仕事を模倣するという意識がなかった。
 『アポストロフィ』と本作に収録される曲で筆者が「アンクル・リーマス」に次いで好きなのは「EXCENTRIFUGAL FORTZ」だ。72年7月の録音であることが記されるが、驚いたことに、本作ではジョージ・デュークとジャン・リュック・ポンティ、そしてドラムスにジョン・ゲランが参加し、まるで『HOT RATS』つまり69年の録音かと思うが、72年にまたゲランは参加した。だが、ポンティのヴァイオリンはどこにあるのかよくわからない、テープ逆回転を多用し、伴奏は加工が著しいが、ヴァイオリンとはわからないまでにそれがなされているのだろう。『アポストロフィ』ヴァージョンと同じ1分半ほどの長さで、本作では「ミックス・アウトテイク」とあるので、ミキシングだけが異なる。この曲は短いが、凝縮感が強く、それこそ無駄を極限に切り落としたアポストロフィ感がある。ザッパがリード・ヴォーカルを担当するのは、『オーヴァーナイト・センセイション』の予告にもなっている。冒頭のメロディがとても印象的で、どこかの民族音楽を模倣した感じがするが、辺境の音楽にあえて着目したかもしれない。この曲の題名はザッパの造語で、筆者は『大ザッパ論』でどう訳したか忘れたが、「CENTRIFUGAL」は「遠心」であるから、それが「EXCENTRIC」(変人)で、また「FORZ」と続くからには、「変心力」と訳せるか。ともかく、奇妙さでぶっ飛ばせる力で、確かにこの曲にはそういう由緒不明の圧倒的な力がある。またそれがごく短いのがよい。もっと長いヴァージョンがなかったかと思うが、これは1分半という長さであるからよい。歌詞は和歌や俳句を思わせるもので、ザッパが自分の立ち位置に満足していることを描く。ザッパはスポーツに関心がなかったが、そのことを歌う後に、決して自分のEXCENTRIFUGAL FORTZにあってさびしさを感じたことがないと言う。つまり、ザッパは自分の居場所をEXCENTRIFUGAL FORTZと感じていたが、遠心力でもそれがきわめて変であるということで、これはぐるぐると回転する音楽業界の端っこに位置して遠くに吹き飛ばされそうになりながら、一風変わった姿で存在していることを思えばよい。ザッパはまさにそういう立場にいたが、そういうザッパでもゴールド・ディスクを獲得したところに、世の中のおかしさ、間違いがあるとも言えるし、ザッパのような格を越えた逸格的音楽家が認められるところに、アメリカの音楽界の懐の大きさもある。先日も書いたが、日本では尻尾を喜んで振るような連中が有名人になり、また偉そうにする。そうそう、ザッパの音楽が変態というのは、この「EXCENTRIFUGAL FORTZ」の題名でザッパ自身が言っていることにもなる。そして、そのことは難解に仕組まれているが、そういうことを面白いと感じる人がザッパに入門すればよい。
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by uuuzen | 2016-07-26 23:59 | ●新・嵐山だより(特別編)


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