●『THE CRUX OF THE BISCUIT』その3
所や権利関係が不明な録音を使ったザッパのCDがアマゾンでよく売られている。海賊盤と同じようなものだと思うが、ザッパ・ファミリーがどんどんCDを出すのであれば、そういうアルバムは商売は無理と判断して少なくなって行くだろう。



筆者は海賊音源の収集に全く熱心ではないが、そういう音源を誰よりも多く持っていることで自分がザッパの音楽の何から何まで知っていて、誰よりも面白い解説を書けると思っている連中は世界に100人くらいはいるだろう。そういう勘違いのファンを生んでしまうほどにザッパはライヴ・ステージを数多くこなしたが、一方ではスタジオでも録音していたので、いくら会場で隠し録りをした音源を無数同様に持っていても、今は使ってはならない言葉だが、「片手落ち」と言うべきで、そのことを最初からわかっていれば、よほどの内容でない限り、海賊盤には手出しをしない。本作でサイモンさんが書いているが、ザッパは海賊盤業者をひどく嫌っていて、そのことはサイモンさんが1982年にザッパ家を訪れてインタヴューした時にはっきりと返事された。それでというのでもないだろうが、サイモンさんは海賊盤収集に関心がない。にもかかわらず、ザッパに非常に親しい人物として信頼を勝ち得たのは、ザッパにすればいわゆる業界人とは全然違う性質を感じたからだろう。ザッパは容易に人を信用しないところがあって、自分に近づいて来る者は何か利益を得ようとする魂胆があると思っていた。有名人になると、わさわさとそういう人物は近寄って来る。ザッパがオーディションをして雇うミュージシャンの場合、つまり自分から人を探す場合はいいが、求めてもいないのに近寄って来る人物というのは、何か下心があると考えていい加減であるのがこの世の中だ。先日書いたが、アレックスにカセットテープを送ったDJのカッパレラは、ザッパと一緒に写真に収まることを求めて了承を得たが、そこに写るザッパの表情はカッパレラとはあまりに違って渋面と言ってよい。また、インタヴューは次第にザッパが不機嫌になって行ったとカッパレラは書いていて、ザッパはひとつの宣伝になるのでインタヴューに応じたが、そうでなければ会いたくもなかったのだろう。サイモンさんは日本の当時のレコード会社側の人物ということでザッパにインタヴューをすることが出来たが、実際はレコード会社とは関係がなく、ザッパに会って話をしたい一ファンで、それで日本のレコード会社と接触した。当時サイモンさんは日本の中学校で英語を教えていたのだ。そして、サイモンさんのザッパ・インタヴューと、筆者が確か82年にレコード会社に送った文章が83年のLPのブックレットに掲載されたが、筆者の文章を読んだサイモンさんはいつか筆者に会いたいと思い、それがほとんど10年後に実現した。わざわざやって来ていただいたが、サイモンさんの人柄に接してザッパが信頼したことはすぐに了解出来た。そして、サイモンさんの関心は主に歌詞にあって、それまで誰もあまり詮索しなかったことをザッパに直接訊くことが出来る立場を得た。だが、ザッパは多忙で考えることが多く、また癌の治療もあり、サイモンさんの質問にすべて長文で答えるというのではなかったと思う。本作にサイモンさんは書いているが、ザッパはある曲に込めた多様化することを好んだ。たとえば「ONE SIZE FITS ALL」を思い出せばよい。これが何を意味するかはザッパ自身は語っていない。帽子などのフリー・サイズ表示としてその言葉をタグに印刷してある場合があるが、セックスに絡めて想像すると、1個の女陰はすべての男根に利用可ということにもなる。このように、多様に解釈出来るザッパの歌詞や題名であるから、サイモンさんは質問するにも困ったであろう。「ONE SIZE FITS ALL」は文字どおり、「ひとつのサイズはすべてにフィットする」で、ザッパにしてもそのように答えたであろうし、実際は何を思っていたかを明かす必要はないと考えたであろう。もちろん、サイモンさんはそのような微に入り細に入る質問はせず、どうしてもわからないことだけを質問したと思う。たとえば「SLEEP DIRT」で、これが「目ヤニ」であることは、サイモンさんがザッパに直接ファクスで質問して判明した。
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 ファンとしてザッパに質問が許されるとして、ザッパの身になれば、同じような質問ばかりでは退屈であろうし、また質問者は自分があまりにも初心者であることを相手に悟らせてしまうような質問は恥ずかしくて出来ないというのが常識だが、中にはそんなことを思わない質問者も大勢いたはずで、そんなことを予め想像してしまうと、ザッパを目の前にしてしまうと、言葉が出て来ないだろう。サイモンさんはそうであったという。それで、ザッパに勧められて質問を始めたとのことだが、その様子を想像すると、ザッパは第一印象でサイモンさんの人柄を悟り、信用したことがわかる。ザッパに何かを訊くということは、それほど素直で、真面目、しかもザッパの音楽に対して深い知識が必要だ。そして、そうでない人間とわかればザッパは適当に返事をしたであろう。これはザッパに限らず、誰でもそうで、表現者に会うということは、その表現者の作品をひととおりは知っておくべきだ。それはともかく、多様に解釈され得ることを好むということは、毀誉褒貶すべてを受け入れるというのとは違う。あくまでも建設的な考えを歓迎する態度だ。そういう例を今日は書く。本作で筆者が最も好む曲は2曲目の「アンクル・リーマス」だ。そう言えば、フランクフルトでザッパの『ザ・イエロー・シャーク』公演をサイモンさんと見た3日の間、街中のジンカステンというライヴハウスに行った。そこで数人のドイツ人のザッパ・ファンとしばし語り合い、肩を組んで「アンクル・リーマス」を合唱したザッパの歌声による同曲が会場内で大きく鳴り響いたからだ。ザッパの曲はそれだけが鳴ったと思う。筆者はこの曲の別ヴァージョンがないものかとこれまで夢想して来た。本作でそれがかなったが、1分ほど長いロング・ヴァージョンでしかもミキシングが全く違う。ザッパがどこをどう削ってアルバム『アポストロフィ』に収めたのかがようやく判明し、これまで聴いて来たヴァージョンの、あまりにすぐに終わってしまう短さの物足りなさが払拭されたが、一方で複雑な思いもある。カットされた箇所は、歌詞の繰り返しで、ザッパにすればLP1枚に収めるためにはどの曲もどこかを少しずつ削る必要があり、中には泣く泣くカミソリを入れた曲もあるだろう。本作ではその代表が「アンクル・リーマス」だ。これはジョージ・デュークやジ・アイケッツのメンバーがいなければ実現しなかった曲で、ザッパの黒人に対する眼差しが最大限に感じられると言ってよい。また、カットされた部分ではハモンド・オルガンの響きがゴスペル調のピアノと異なるメロディを奏で、そのわずかな間奏はザッパのどの曲にもない唯一のものだ。それを言えば、アイケッツの歌声もかなり大きく、また合いの手が実に印象的で、それが『アポストロフィ』でカットされたことは何とも惜しい。だが、ザッパは歌詞の繰り返しを部をすっかり削ってしまうことを断行し、それにつれてせっかくの聴かせどころも没になった。これは歌詞が全編で違ったものになっていれば、今回のヴァージョンが『アポストロフィ』に収録されたことを意味するが、実際そうであったと思う。だが、ザッパは伝統的なポップス曲と同じように、後半は歌詞を繰り返した。それは、長い歌詞にするより、ごく限られた歌詞で充分視覚的でまた言いたいことはすべて言えると思ったからだ。
 「アンクル・リーマス」は、黒人の貧しい若い男の生活を描く。だが、そこにはいつの時代にも通じる普遍性がある。真面目に工場で働けば、そのうちどうにか形になると言われるが、そのことを信じて我慢する若者ばかりとは限らない。ザッパも最初の結婚をした20代前半、グラフィック・デザインの仕事に就き、花柄模様などを描き続けたが、そういう根を詰める仕事では埒が明かないことを悟り、やがて自分が好きな音楽の道に進むが、そのことで結婚は破綻してしまう。この曲の歌詞で描かれる黒人の若者はザッパでもあるだろう。また、筆者はこの曲を本作で改めて聴いて、世界に吹き荒れるISの行動を思った。あるいはヨーロッパで嫌われる移民たちだ。バングラデッシュでは裕福な青年たちがレストランを攻撃したと言われるが、彼らは貧しい人たちが大勢いる国の、世界の矛盾を感じていたであろう。日本でも事情は同じで、人を刺したいから刺したという事件が起こる。あるいは人の大勢いるところを狙って大きな車で突っ込む。そういう事件がいつの時代でもあることをザッパは知っていたであろう。先に書いたように、そういう時代に沿った読み取りが出来ることをザッパは好んだ。この曲の歌詞では、工場勤めに嫌気がさした若者を描くが、そういう若者が目立つお洒落をするという描写は、今で言えば刺青を入れたり、ピアスをすることを思えばいい。また、この曲より後年になるが、ジョン・トラボルタが主演の映画『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』では、黒人ではないが、肉体労働者の若者が週末にお洒落をしてディスクに繰り出すことを描き、若者の鬱屈した思いをガス抜きするための娯楽産業にザッパも乗じて成功したことをザッパは自覚していたであろう。話を戻して、この曲の歌詞では、若者は仕事着を脱ぎ捨てて、夜の闇に乗じて金持ちが暮らすビヴァリーヒルズに行って、夜が明けるまでに玄関前の芝生に飾られている騎手の彫り物を全部引き抜こうとする。夜が明ける前なので、誰にも見つからない自信がある。そして、歌詞の最後ではその騎手の彫り物に露が下りていると歌われる。つまり、黒人の青年は無事に悪戯を終えることが出来たのだろう。肉体労働者の黒人青年は、みんなが笑うような奇抜なお洒落をするか、金持ちにそういう悪戯をすることでしか、うさを晴らすことが出来ない。そのことを、その青年に才能や我慢がないためであると言うことは簡単であるし、青年もそのことはわかっているだろう。
 芝生の飾りものを抜き倒す程度の悪戯であればまだいいが、それが盗みのために家に押し入るとか、またそうなって家の人を殺めるということに発展すると、この歌のように笑い話にはならない。だが、この曲はそういう可能性があることを言外に示している。だが、ザッパとしてはどうしようもない。ザッパはビヴァリーヒルズの住民で、この歌に描かれる青年のような貧しさは経験しなかったが、好きな音楽をやって生きて行くことはその可能性が常にある。たまたま売れたのでビヴァリーヒルズ住民になれたが、そうでないミュージシャンの方が圧倒的にどの国でも多い。ではザッパはこの曲の歌詞で、自分が才能のない黒人青年に完全に勝ったという見下げる気持ちを込めたかと言えば、全くそうではない。むしろ、限りない同情がある。共犯と言ってもよい。歌詞で歌われる青年は、自分の髪がアフロ・ヘアになるのを待てず、ボロ服を脱ぎ捨てて車をビヴァリーヒルズに走らせるので、いかにも根性の足りない若者のようだが、格好いいアフロ・ヘアになったところで、貧しさから脱出出来ない。いつの時代でも若者は金がないのが相場で、この曲の歌詞は大多数の若者について歌ったものと言える。実際に金持ちの家に入って悪戯するかどうかは別にして、自分とは別世界の大金持ちがいることを知っていて、そこに社会の矛盾を感じている。努力すればいいではないかと言う人があるが、この曲の歌詞の青年のように、工員として働き続けていつか大金持ちになれることなど絶対にあり得ないと知っている者は多く、それでせめて悪戯でもしてうさを晴らそうとする。庭の飾り物を引き抜かれて倒された程度では金持ちは蚊に刺された程度ほどの痛みもない。この曲の歌詞ではその騎士像というのがとても現実的で目に見えるようだ。その像に落ちる夜露は、黒人青年の涙でもあろう。その青年がその後どうなるかをザッパは示さないし、格差社会が悪いともいいとも言っていないが、そういう青年がいつの時代にもいることだけは示しておきたかったのだ。どれも同じようなラヴ・ソングとは全く違う歌詞で、ジンカステンでザッパ・ファンが肩を組んでこの曲を合唱したことは、ザッパが貧しい若者を見る目に共感していたからだ。日本ではこういう歌詞を書くと放送禁止になるかもしれない。ザッパが歌詞を書いても天才ぶりを示したことはこの1曲からもわかる。なかなか先に進めないが、もう1,2回投稿する。
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by uuuzen | 2016-07-23 23:59 | ●新・嵐山だより(特別編)


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