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●『偉大なるシルクロードの遺産展』
副題は「中央アジア オアシス国家の輝き」となっていて、中国の文物を紹介するシルクロード展が多い中、これはもっと西方の遺跡から出土したものを展示する。



●『偉大なるシルクロードの遺産展』_d0053294_13485868.jpgチラシの表には「ウズベキスタン、タジキスタンの至宝 日本初紹介」とあって、後援のひとつに「ウズベキスタン共和国」が見える。ソ連が解体した今、中央アジア諸国としても自国の文化を積極的に海外に紹介して、少しでも観光の宣伝になるのがいいであろうし、これはそんな思惑が見えそうな気がする展覧会だ。中央アジアの出土品の展示はこれまでにも何度もあった。筆者が所有する展覧会図録やチラシで少しまとめる。まず1982年6月から京都KBSホールでの『草原のシルクロード展』、1991年7月から京都文化博物館での『南ロシア騎馬民族の遺宝展 ヘレニズム文明との出会い』、1999年3月から京都高島屋での『黄金のシルクロード展 東西文明の交差を訪ねて』、2002年7月からMIHO MUSEUMで『中央アジアの黄金の国 古代バクトリア遺産』といった具合だが、中央アジアからもう少し範囲を広げるとすぐに倍の多さになる。よほど日本はシルクロード・ファンが多いと見える。毎回似た展示物であるので、図録も適当な1冊があればいいが、新発掘の成果などが少しずつ新たに盛り込まれるから、数年に1回程度の展覧会であるならばまた出かけることになる。今回もそうであった。ただし、文化博物館では3階の映像ホールで毎日、昔の映画上映があって、それもついでに楽しめるから、展覧会の内容の予想はついてもなるべく出かける。先月26日にひとりで行ったが、ホールで見た映画については明日書く。
 ウズベキスタンはどこにあるか。今『朝日百科「世界の地理」』を見ると、イランやアフガニスタンの北であることがわかる。この本はソ連時代のものだが、中央アジア諸国の国境は変わっていないだろう。中央アジアとは、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、キルギスタンの4か国だが、これらカスピ海と中国西端に挟まれた横並びの4か国の北側に位置する大きなカザフスタンも含むことがある。大昔はこのような国境とは違ったから、発掘される出土品も今の国単位で分けては本当はまずい。たとえば前記の『草原のシルクロード展』では、レニングラード(当時)のソ連邦国立民族学博物館とカザフの民族学博物館などが合同で出品し、しかも中国を除く全域のシルクロードから文物が選ばれた。今のモンゴル辺りで昔に使用されていたものが、レニングラードやカザフスタンの博物館に所蔵され、それが日本に運ばれて展示されたわけだが、これはシルクロードというものを考える時、何だか話がややこしい。ソ連という国がなくなって、かつては表面上仲よくやっていたソ連邦の国々も今は戦争するほどになっている例もあるが、そんな今、博物館の所蔵品がそれが出土した国の博物館に返却されることが行なわれているだろうか。そんなことはまずないだろう。大昔の国がなくなってはいても、そこにまだ同じ民族が住んでいる場合とそうでない場合があるが、結局現在の国の力関係で、発掘品の帰属問題が個々に解決して行く。それはさておいて、今回のような中央アジアのシルクロード展を開催する時、鑑賞者としては、主催者がどの国が最も優れたものをたくさん持っているかを調べ、そこから借りて来るのが妥当な気がするが、そういう大がかりな展覧会とは別に、たとえばの話、『魅惑の17-19世紀フランス絵画展』のように、ある特定の所蔵先から借りて来て、そこそこおおまかな展示内容で展覧会を構成するということも当然あり得る。今回はそういうものと言ってよく、ウズベキスタンから運ばれた。これはこれで今までになかったことであるから、とてもよいことだ。だが、ウズベキスタンにどれだけよそにはないシルクロード文物の優品があるかが問題だ。会場を訪れて驚いたが、第1のセクション『東西の交流のはじまり アレクサンドロスの遺産』の展示物の大半はMIHO MUSEUMから借りて来たものだ。
 話がそれるが、MIHO MUSEUMがこうした品物をどのようにして入手したかも興味のあるところで、結局は「買った」はずだが、これは先の昔と今の国境の違いの問題と並んで何となく釈然としない。古代の発掘品の闇取引売買はしばしば問題になっているし、政情不安などの問題に乗じて、金持ち日本がどんどんとこうした古いものを買えば、ウズベキスタンといった経済的小国は宝物がどんどん失われはしまいか。それでまたそうした国がせっせと発掘すると言えば、皮肉になってしまうが、正常な取引で買うのがどこが悪いのか、また日本が買うことによってかえって保存が行き届いてつごうがいいではないかという考えも出来るから、発掘品の所属問題は一筋縄では行かない問題を孕んでいる。また、こういうことを書くのは、シルクロードの古い文物として展示されているものでも、由来が怪しくてどこまでが本物かわからないことが多いのではないかと思うからだが、日本が喜んで何でも買うとなれば、巧妙に贋作されたものがどこかで密かに作られていることも考える必要がある。そのため、「中央アジアの至宝」と聞いても、よほどのものでない限り、眉唾ものという気が先に立つ。最初のコーナーの『東西の交流のはじまりアレクサンドロスの遺産』ではアケメネス朝ペルシア時代のペンダントや腕輪、イヤリング、貴石印章、胸飾り、銀杯、銀貨など、小さいがかなり豪華な感じがするものや、紀元前6世紀から4世紀の牡鹿型リュトンや、石灰岩で出来た二頭の馬の浮き彫りといった、もっと見栄えのする展示物で占められていて、後に続くセクションとは違和感があった。これは時代も地域も違うから当然だが、シルクロードと一言で言っても、あまりに広大で歴史が長く、人によってイメージするものが全然異なることを示しもする。MIHO MUSEUMからこれらの展示物を借りて来なければ、展覧会としてはさまにならなかったのはわかるが、それは会場が広過ぎたせいもある。セクションは全部で4つあったが、正直なところ4番目は民芸品コーナーのような様相を呈していて、埋め草的に何か適当に持って来たという感じがした。しかし、それも見方によってはシルクロード地域の現在の諸国がいかに多様な文化を持っているかの紹介になる。
 セクション2は『騎馬民族の興隆と仏教美術の伝播 クシャン朝』で、次の3とともにこの展覧会の最も見所ある部分となっていた。クシャン朝は紀元前1世紀よりアフガニスタンからインド北部に及んだ中央アジア初の騎馬民族の大帝国だ。最初の王カニシカは仏教を信奉した。インドの仏教文化とヘレニズム文化の融合が見られ、ウズベキスタン芸術学研究所が所蔵するさまざまな発掘品が展示されていた。だが、完全な形のものはほとんどなく、断片が多くて無残な感じがした。「統治者坐像断片」は、ウズベキスタン南部のスルハンダリア州にあるハルチャン・テパの出土で、紀元前1世紀の宮殿建築跡から35体以上の塑像が発見されたもののひとつだ。「騎馬像断片」「三楽師断片」「菩薩立像」「貴族像頭部」が続き、いずれもこの地方独特の表情がある。タリム盆地西端のカシュガルと中央アジア東端のフェルガナを結ぶクワ遺跡から出土した「魔王(魔羅)頭部」は、7世紀の塑像で頭にドクロの鬼神がついて密教美術の影響を示していたが、一方「菩薩像胸部」は、テパ仏教寺院から出土したギリシア風の顔をした化粧漆喰を施した2-3世紀の粘土像で、こうしたものが並列されているのを見ると、東西の交流という言葉をいやでも感じないわけには行かない。3『ソグド人とゾロアスター教 シルクロード交易の精華』は、紀元前7世紀に「東方の真珠」と言われた大きな交易都市サマルカンドに住んだソグド人に光を当てていた。サマルカンドは今でもウズベキスタン中央部にある街だが、彼らはシルクロードの交易商人としてサマルカンドやブハラ(サマルカンド西40キロ)などのオアシス都市に割拠して国を作らなかった。5-8世紀に最も繁栄し、ゾロアスター教(拝火教)を信仰した。ゾロアスター教はアケメネス朝にイラン全土に広まったもので、ササン朝ペルシアの国教となった。正統なゾロアスターは偶像崇拝を認めないが、地域によっては在地性や外来信仰の影響が見られる。サマルカンド東方70キロのゼラフシャン川流域のペンジケントは、現在のタジキスタン西端に位置してタジキスタン国境に近いとこにある都市で、そこにあるソグド人の都城跡は1946年ヤクボクスキーによって発掘調査が始まった。今回は出土した色鮮やかな壁画が来ていた。そこに描かれる女性ハープ奏者は、今回のチラシやチケットには大きく印刷されていて、東洋と西洋の混血を思わせるその顔、手や指の表現は、画家の手慣れた技術をよく示している。ペンジケントの城は5世紀に建てられ、内部の壁面積は13万5000平方メートルもあるが、8世紀にアラブ人の侵攻によって廃墟と化した。その戦いの場面ではないだろうが、微笑むハープ奏者のすぐ右手に戦闘の場面が描かれ、とても奇妙な思いにさせられる絵だ。戦いと娯楽が同居していたというのだろうが、それは実際人類の生活そのものであって、ソグド人はそれをよく知っていた。国家を持たない民が残したこの壁画の断片は、「至宝」とはよく言ったもので、人間がはかなく消えてはまた勃興する幻であることを示している気がする。
 4『イスラム美術と民族文化』は、3までを見て来るとより理解出来る。中央アジアが現在イラン、アフガニスタンと国境を接していることを考えれば、イスラム文化が全域を覆っていることは容易に想像出来る。中央アジアの土着民族のうち最大数を誇るのはウズベク人で、ソ連時代でもその数はロシア、ウクライナ人に次いで多かった。また多民族が住んでいて、古くはイラン人、ユダヤ人、クルド人が入り、ロシア領になってからはロシア人、ウクライナ人、ドイツ人や朝鮮人まで移住した。ソ連時代からウズベク人の85パーセントがウズベキスタンに住んでいるが、このことからもウズベキスタンが現在のような独立国としてあるのはよいと思える。前述のように、ペンジケントは8世紀にアラブ人に滅ぼされたが、中央アジアにイスラムが浸透し、サマルカンドやブラハに遺されているモスクやメドレセなどイスラム美術を代表する壮麗な建築は、現在世界遺産に指定されている。このセクションはその宣伝を大いに兼ねたもので、精緻で華麗な工芸美術の披露の場となっていた。ウズベキスタン国立工芸博物館ょ所蔵品で、1982年の『草原のシルクロード展』でも似たものが多く来ていた。その時はまだソ連時代であったが、今回はこうして独立国としての展覧会であるので、まことに国家の歴史よりも文物の方がはるかに長生きすることを実感する。19世紀前半の木彫りの柱や扉がまず展示されていた。壁面をタイルにして、扉や柱にザクロや唐草などのアラベスク文様を彫った木が用いられたが、砂漠地帯では木はきわめて大切であるので、日本で思うより現地ではかなり重要なものだ。次にオッスアリーというゾロアスター教信者の遺骨を納める蔵骨器、オイルランプ、陶器、木製彩色工芸、帽子、経絣絹ベルベット布、馬具と刺繍馬衣、花模様で埋め尽くすスザニやその他の刺繍布といったように華やかで多彩な工芸品の展示が続いた。布や衣装は100年も経っていないものが多いが、これは消耗品であるので当然と言える。陶器は10-12世紀末のモンゴル侵入までサマルカンドの旧市街アフラシアブが一大生産地であったとのことで、これは知らなかった。そうした陶器だけに光を当てても展覧会が開催出来るだろうし、すでにあったかもしれない。
by uuuzen | 2005-12-07 23:54 | ●展覧会SOON評SO ON
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