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●嵐山駅前の変化、その395(脇道沿いの空地)
マによってとんでもないことが起こる状況はネット時代になって増えたのか減ったのか。小学生の3年か4年だったか、道徳の授業で、狼少年の話を学んだ。



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今は道徳の授業がない学校が大半なので、狼少年の物語を学校で教えるのかどうか知らないが、デマという言葉を知る前にその物語を学校で学んだことは、今この年齢になってもよく覚えているので、義務教育の影響力の圧倒さを改めて思う。それはいいことなのかどうかという問題もある。ある一定の価値観を植えつけられるので、義務教育も方法によってはとんでもない人間を生む。道徳教育が特にその影響が大きいので、筆者らより後の世代は廃止されたのかもしれない。そこで狼少年の話だが、狼がやって来ると吹聴した少年は村人を不安に陥れるが、少年は遊びで嘘をついた。二度目もそれがうまく行き、三度目は本当に狼に遭遇して前と同じ言葉を叫んだのに、誰も本気にしなかったのだが、一方で仏の顔も三度という話を聞き、二度の悪事はまだ許されても、三度目は西洋でも東洋でも許してもらえないことを知る。もっとも、そういう道徳的な話を教えられるまでもなく、筆者は悪いことは悪いと小学校に入る前に母親から問答無用で徹底的に教え込まれたので、狼少年の悪ふざけは理解出来なかった。そういう少年はあまり面白くない大人になるだろう。厳格過ぎる、真面目過ぎるというやつだ。実際筆者は通知表にそのように担任から書かれた。自分が真面目であるのはいいとして、それを他者にも強要するのは嫌われる。大人からは人気があっても同級生からはあまりそうではないだろう。それはさておき、狼少年の話に戻ると、それを学校で教えられた時、同級生がどれだけ筆者と同じようにそれに聞き耳を立て、また記憶したであろう。たぶん半分くらいの数は先生の話をろくに聞かず、記憶に留めない。そういう連中が馬鹿だというのではない。見方を変えれば、そういう連中は義務教育の悪しき部分に染まらなかったので幸福であったとも言える。狼少年の話は寓話で、嘘を吹聴すると、いずれそれが自分に跳ね返って来て大損をするという教訓だ。同じような話に、「金の斧」があった。これも道徳の授業で学んだが、イソップ童話だ。正直者は大きな富を得るという話で、筆者は今でもその物語を感動とともに思い出すが、おそらくまた級友の半分ほどはその話をまともに聞かず、また覚えなかったであろう。それでそういう連中が正直者にならなかったのかと言えば、全くそうとは限らない。そんな話を学校で教えてもらったからと言って、正直な子どもが増えるはずがないし、また正直な子どもが金持ちになることもまた確実ではない。それどころか、何か後ろめたいことをしなければ金持ちなどなれるはずがないという現実を成人すれば誰でもすぐに知る。あるいは、後ろめたいという自覚のない者がそうだ。つまり、悪いことを悪いとも思わない連中ほど金儲けはうまい。それで大人になって「金の斧」の話を嘘八百と罵るかと言えば、それはない。そういう話はそれなりの真実を秘めていて、それはそれで美しい。そしてそういう美しい話を小学生の時に学校で教えてもらえるのは義務教育の優れたところだ。ただし、そう思わない連中は半分ほどはいる。
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 何が美しくてそうでないか。それは人さまざまで、学校で教えられるものではないと言う大人がいるかもしれない。何でも自由が第一で、これが美であるなどと教育で決めつけられるのはかなわないという言う人もあるだろう。だが、最低限、他者に直接迷惑を及ぶようなことは美しい行為ではないという社会の了解はあっていいだろう。ところが、その他者への迷惑がどの程度ではよくないのかと、また文句を言う馬鹿がいるから困る。なぜ今日はこんな話になっているかと言えば、ちょっとした不愉快なことを電車の中で経験したからだ。今日は3つの用事があって岡崎に出かけた。5時間ほど過ごして午後4時頃にわが家に着いたが、帰りの電車の中で、真向いに20代半ばの女性が座った。染めた金髪が長く、それをブラシで梳かすかたわら、蒸し暑いのか、盛んにTシャツの裾をばたばたさせながら腹や胸に風を送る。そしてティッシュを取り出して汗をぬぐい、そのティッシュをポイと捨てた。その後はケータイ電話で大声でしかも男言葉で話し始めたが、スタイルはとてもよく、美人でもある。だが、何と行儀が悪く、育ちが想像出来る。彼女は美というものをどう思っているのだろう。筆者は30年後の彼女の姿を想像した。年齢不相応に老けた醜い老婆になっている姿だ。そのようにでも思わない限り、筆者が垣間見た彼女の醜悪な態度に当てられた思いの持って行き場がなかった。昔からそのような女はいるはずだが、筆者は話には聞いても、直接そのような行動をする女性を見ることはほとんどなく、それだけにゲンナリしてしまう。だが、女の半分くらいは醜悪と思っておいていい加減で、いつも書くように、それは男の半分がそうであることと均衡を保っている。マルセ太郎の舞台を昔見たことがあるが、そこで彼は、女性が陰部を広げている姿を醜悪なものの代表のように語った。男として枯れかかっているのであればそれはわかると言う意見は少なくないだろう。なぜ女がパンツを履くようになったかと言えば、隠すほどに男が欲情するからだという意見がある。もっともらしいが、マルセ太郎の考えからすれば、ただ醜悪であるから大っぴらに見せるなと男が思っているからとなる。これは半分以上は正しい。男は好きな女の陰部であればそれが大っぴらに広げられても正視出来るかもしれないが、醜悪な女と思っている場合は、拷問みたいなもので、そのことを女はよく自覚しておいた方がよい。もっとも、男の半分は醜悪な女を相手にするから、結局のところ、こういう意見はデマのように思われるし、女はきっとそう決めつける。そこが醜悪であるということに気づかずにだ。そうそう、ザッパは男は馬鹿だと言った。女陰を求めて何でもするからだ。そして女はそんな男の性を知っていて、男を操るが、そのことをザッパは女が醜悪ではなく、男が馬鹿だと言った。では男としては女にどう対処すべきか。マルセ太郎のように、女陰など決して見たくない醜悪なものだと思うことか。
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 さて、ビートル来日50周年、ザッパのデビュー・アルバム発売から50周年と、今月下旬は区切りとなる話題が目立つが、そういうことについて書いてもいいかと思いながら、話がここまで来た。最初の言葉を「デマ」にしたためで、「デッカイ切株」でもよかったが、今日は使用しないその切株が植わっていた大きな穴と切株が女陰と男根のようにも思えたので、先のような話になった。今日の写真は3枚目までが午前11時頃の阪急嵐山駅で撮った。最初は先日から書いているムンクの絵に出て来そうな大木の始末だ。根がとても深いようで、小型のユンボが大きな円形の穴を掘って根を取り除いた。切株にそれらがつながった状態で、そのままではトラックで搬出出来ないので根をまず全部細切れにしようというわけだ。ふたりがかりでそれをやっていた。2,3枚目はプラットフォーム上で撮った。2枚目は南側、3枚目は北側で、どちらにも簡易詰所が組み立てられている。これは、1か所だけならいちいち駅前広場をぐるりと回る必要があるからで、どっちの現場にいてもすぐにその部屋が利用出来る。3枚目の写真からはわかりにくいが、南側と同じように大きな木が何本か伐採された。もっとも、南側のムンクの木ほどの樹齢のものはなかった。南北の広場を同時に整備しているので、同じ時期に竣工するだろう。道路側からの方がよく現場は見えるが、観光客はプラットフォーム上から見る。それがどういう具合かを確認するために今日は出かけてよかった。観光客の立場になると、南北の狭い土地の整備はほとんど気づかないほどと思う。そのため、こうした投稿はよほどの暇人のすることと自覚するが、長年見続けて来た大木が最後はどのようにしてすっかり消え去るのかを確認しておきたい。それが植わっていた場所には直径2・5メートルほど、深さはたぶん1・5メートルほどの穴が開いていて、岡崎から帰って来た4時に撮影した。それは別の機会に使うとして、同じようにして撮った切株とそれから切り離された枝の積み重ねの写真を4枚目に載せる。これは緑色の金網フェンスが写らないように、高さ60センチくらいの擁壁に立って撮った。雨が降っていたので、左手に傘を差した状態だ。切株はかわいそうに雨と土で真っ黒になっている。しかも逆さで、これを明日はクレーンで吊り下げてトラックに載せるのだろう。たった1本の木を跡形もない状態にするのに、準備から含めると20日もかかっている。「だから木など植えるな」という声が聞こえて来そうだが、逆に大木は大切にしようという考えもある。ボルネオのジャングルが狭められて象の棲息地域が半分以下になってしまったというNHKのTV番組を先日見た。人間が豊かに生きて行くためにはそれは仕方がないとされている。アマゾンの森林を限界にまで少なくして行ったことも同じだが、そういう構図が未開地のみかと思っていると、嵐山のようなところでも行なわれている。規模が小さいのでほとんど誰も気づかず、文句も言わないだけのことで、人間が考え、やっていることは、いつの時代も世界中似たようなものだ。そうそう、デマの話を忘れた。先ほどまた熊本で震度4の地震があった。南海トラフ、あるいは東京の大地震があるぞとTVで何度も聞かされていると、いよいよ本当に起きるかという不安よりも、「また言ってる」というデマ観が涌く。地震学者が狼少年とは言えないが、狼少年よりたちが悪いかもしれない。予想が外れても、「自然は予測出来ませんから」と平気で言えるし、またそれが許される。地震研究に費やす金額を全部預金しておいて、それを地震が起こった時の被害者に配る方が合理的ではないか。
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by uuuzen | 2016-06-29 23:59 | ●駅前の変化
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