●『DWEEZIL ZAPPA VIA ZAMMATA‘』その2
の円に沿って書かれる文字も含めてとても細かいので読む気になれないが、その右の正方形枠にも細かい文字はびっしりだ。そこでドゥイージルは謝辞の最後に、この限られた紙面では名前がとても書き切れないと断っていて、多くの友人に支えられてのアルバムであることがわかる。



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歌詞の印刷がないのが残念で、また筆者は2,3回しか通して聴いていないので歌詞に聴き耳を立てる余裕はなく、曲の雰囲気についてしか書くことは出来ないが、それでもざっくりした感触を言えば、本作のジャケットはイラストを使うなどして曲の世界に合わせた方がよかった。70年代のLPではジャケットのよさで買う人が多かった。それほどにジャケットはまず商品として目に飛び込んで来るものであり、後々までその作品の顔となる。本作のドゥイージルの顔写真は、ドゥイージルを知っている人でなければ買う気になれないものではないか。昨日書いた去年10月中旬のインタヴューでドゥイージルは、ZPZではザッパのバンドにいたメンバーを雇うことを好まないと言っている。今の若い世代はザッパの顔は知っていても、当時のメンバーにまで関心はない。老体であるので演奏技術もよぼよぼというのではないが、父のバンドの元メンバーを中心に据えることで人気を得る考えにドゥイージルは同意しなかった。ZPZは父の曲を忠実に演奏しはするが、若い世代に訴えるには同じ若い世代のメンバーがいいと考えている。もっと言えば60歳以上のメンバーは不要で、父の音楽における当時雇ったメンバーに負っている部分は今の若いメンバーでも代替可能であり、また父の曲を、楽譜どおりに演奏するクラシック音楽と同じ位置に置き、時代に即した新アレンジを施すべきではないと考えている。そこには異論を挟む余地はあるが、ドゥイージルにすればそれほどに父の音楽は厳格で、動かしようがないものなのだ。絵画で言えばZPZは模写ということになるが、この10年、筆者はそのことにどこか不満があった。模写は技術を学ぶうえでは重要な行為で、また欠かすことは出来ないが、それは自分の創造という観点からは副次的な行為で、模写だけで人生を終えるのはつまらない。だがそのことをドゥイージルは当初から自覚していたであろう。それに模写とはいえ、父の音楽を忠実に模すことは簡単なことではない。そして結果的に10年をその行為に費やし、そして本作が発表されたことに、筆者はようやくかという気がする一方、本作の音楽性に大いに戸惑い、またこうであるべきだと賛同する。そのうえで話を戻せば、本作のジャケットは、60、70年代風である音楽内容に合わせればもっと大きな話題になったのではないかと惜しむ。これはドゥイージルの顔写真は不要との意味ではない。昨日書いたように、写真はとても渋い仕上がりで、また自然な表情だ。それで文句なしにその写真を使うことにしたのだろうが、撮影者はシチリア島に同行した妻のミーガン(Meagan)で、ドゥイージルが家族を何よりも大切にしていることがうかがえる。ミーガンとの間にはゾラ(Zola)とセイロン(Ceylon)、それに前妻との間の子ミア(Mia)の3人の娘がいて、ゾラとセイロンは音楽に関心を持ち、本作では妻とともにバック・コーラスを担当している。そういった家族愛に満ちた音楽性が本作の特徴で、全体に微笑ましく、また童話的な世界を想像させる。それゆえに、ジャケットは童画風のイラストがよかったと思う。
 そういうジャケットは父の音楽世界とはまるで違い、実際本作はザッパの音を期待する向きには評価が低いかもしれない。だが、ZPZの活動をしながら本作のような世界を思い浮かべていることはひとつの驚異で、高く評価されるべきだろう。模写を10年も続けると、自己の創作はそれにかなり似たものになりがちだが、それは凡庸な作家の場合であって、ドゥイージルがそうではないことは本作が物語っている。父の音楽を敬愛しはするが、自己の創作となれば父と同じことをやってはならない。二代目は初代の小粒になりがちで、ドゥイージルもそのことを自覚しているだろうが、小粒ではあっても独創性があれば評価されるし、模写しか出来ないよりかははるかにましだ。ついでに書いておくと、ZPZは父の曲の演奏だけに終わらない。去年の春にYOUTUBEで紹介されたが、ZPZのステージに盲目の女性ミュージシャンのレイチェル・フラワーズが参加してギターとヴォーカルを担当した。レイチェルは鍵盤楽器が得意だが、彼女が直立してギターのソロを担当する様子をドゥイージルは暖かく見守っていた。その様子を見て筆者は思わず落涙した。レイチェルの才能の豊かさとは別に、それを見つめるドゥイージルの鷹揚さを見たからだ。ZPZは当初の予想を越えてもっと開かれた、そして愛に満ちた活動をしている。そのようなドゥイージルの優しさが本作には溢れ出ている。妻と娘3人に囲まれた生活は、時代も違うこともあって、父のそれとは大きく違うことを実感させる。だが、ドゥイージルが父風のメロディを書く才能を持つことは、最初の曲「FUNKY 15」から明らかだ。『ジャズ・フロム・ヘル』のアウトテイクかと思えるようなぎくしゃくしたメロディだが、ギター・ソロも含めてもっとまろやかで暖かい。昨日書いたようにこの曲は最も新しいが、では今後の新曲がこの曲に似たものになるかと言えば、それはわからない。本作のほとんどの曲は20年前のもので、在庫品を磨き直して一斉放出したと言えるが、そのことで過去を断ち切り、今後は本作とは全く違った音楽をやるのか、あるいは本作の路線を歩むのか、ドゥイージル自身にもわからないのではないか。ひとつ言えることは、短期間で本作をまとめ上げる能力を持っていることは、今後の多作が期待出来ることだ。それはさておき、本作はまずは父に似た曲を聴かせながら、後は意表を突くという仕上がりになっている。
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 3曲目「ドラゴン・マスター」は作詞が父で、作曲がドゥイージルとある。ザッパは1988年にツアーで本曲の歌詞を書き、レパートリーにしようとしたが、思うように行かず、歌詞を書いた紙をドゥイージルに手わたして作曲するようにと言った。ドゥイージルは作曲し、アーメットとのバンドZで一度取り上げたことがあるそうだが、アルバムに収録されるのは今回が初めてと思う。ザッパは当時流行っていたメタル系の音楽を風刺するために歌詞を書いたが、ドゥイージルはその反対の考えを採った。それは10代半ばでヴァン・ヘイレンの音楽を愛聴したことからは想像出来る。筆者はアイアン・メイデンやジューダス・プリ―ストに代表されるメタル系の音楽について全く知識がないが、そういう系統のバンドが喜んで演奏するように、ドゥイージルは歌詞を一部変えた。このことからもドゥイージルが風刺を好まないことがわかる。ドゥイージルが凝ったのは冒頭にアラビア風のメロディを置くなど、通常のメタルとは違う楽曲性だ。そして本作に収録するに当たってまた歌詞を元に戻し、本作の全体的なトーンに馴染むアレンジがなされた。4曲目「マルコヴィッチ」は同じ名前のミュージシャンの語りと歌をフィーチャーするが、謝辞にこの人物の名前が含まれ、親しい交際をしているのだろう。5曲目以降はビートルズやポール・マッカートニー風の曲が続く。そういう音楽性は一時期Zで一緒に演奏したマイク・ケネリーが得意とするが、本作ではドゥイージルの控え目なヴォーカルのためにもっとソフトに響く。マイク・ケネリーは高音域で歌えるところに特徴と持ち味があるが、その元気さは時に聴いていて疲れる。ドゥイージルの声はあまり特徴がなく、ぼそぼそとしているが、本作ではバックに使う子どもたちの声と調和している。それはドゥイージルが50近い年齢になっているからでもあるだろう。それを言えば、前述したようにやがて60代になり、その時には父の曲を演奏せずにどのような曲を書いていることか。そのひとつのヒントが本作であるだろう。ビートルズやマッカートニー的な響きはこれまでのドゥイージルにはなかったものだが、ギター・ソロはスティーヴ・ヴァイを思わせ、ドゥイージルがマイク・ケネリーやヴァイの後輩であることを納得させる。では、マイクやスティーヴの模倣かと言えば、それは感じさせない。ともかく、ザッパから育ったメンバーが持っている個性に準ずる世界をドゥイージルも共有していることを本作は示している。
 本作は全体でひとつの組曲のような構成になっているのではないが、そのように感じさせるほどに音色に共通性がある。後半はそれが特に強調され、バラード風で彩られる。8曲目「真実」は歌詞がなく、まるで子ども向きの幻想的な映画向きの音楽と言ってよいが、インタヴューによればビートルズのアルバムのエンジニアであったビジェフ・エメリックとの作業で作ったとのことで、ビートルズ的な調べであることに納得が行くが、20年前にこのような曲を書いていたとは驚きだ。この曲ではフレットのないベースをドゥイージルが演奏しているが、機材やギターへのこだわりはジャケットのトレイ底の円周文字に記される。父がロキシーで用いたSGやジミ・ヘンドリクスが使ったものなど、いくつかの愛用のギターについてわざわざ記すのは、やはりギタリストであるとの思いによる。11曲目「JUST THE WAY SHE IS」は妻に対するラヴ・ソングであろうか。ドゥイージルは淡々と歌い、しみじみと胸に迫る。バック・コーラスのハーモニーや最後のテープの逆回転を入れるなど、やはりビートルズ風、マッカートニー風の仕上がりで、その勢いのまま最後の曲「億万長者の息子」へとつながる。歌の調子は前の曲を引き継ぐが、バックの演奏はさらに60年代末期のビートルズ、ポール風で、かなり凝っている。こういう響きは父の音楽にはなかったもので、これが本作の題名にあるように、子どもが雨の水溜まりをバシャバシャと音を立てて遊び歩くような他愛ない遊び、つまり自分のキャリアにとってはちょっとした寄り道で、やがて本道へと戻る意味を込めてのものかどうかは次作を待つ必要があるが、熟考した後は気を張らずにさらりとアルバムをまとめるほどに心が広く、強くなったことを示しているのだろう。日本で若いファンを獲得するとすれば、ZPZではなく、本作の路線を歩む方がよい。インタヴューでも語っていたように、ザッパと共演したメンバーはみな70代になり、年々減って行く。当然ザッパ・ファンも同じで、ザッパの音楽を新たに捉えて楽しむ若いファンが育つ。またそうでなければ古典にはならずにそのまま忘却される。ドゥイージルの役割は大きい。
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by uuuzen | 2016-06-05 23:59 | ●新・嵐山だより(特別編)


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