●『ROAD TAPES #3』その2
ソコンでCDを聴いてこれを書いているので、ジョー・トラヴァースのライナー・ノーツにある記述が今ひとつピンと来ないところがある。そう言えば昨日ディスク1を聴き始めた時、音があまりよくないなと感じた。



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昨夜はアメリカの大西さんからメールがあり、発売予定日の27日に本作が届き、早速ブログに感想を書いたとのことだが、今回筆者に割合早く届いたのは、昨日の写真からわかるように、発送が日本からとなっているためだ。東京にあるユニヴァーサル・ミュージック・エンタテインメントがその手配をしたのだろう。それはともかく、大西さんはどのような装置で聴いているのか知らないが、筆者は手っ取り早くパソコンを使用し、また他の作業をしながらのことだ。それにパソコンについなぐのは小さなスピーカーで、そのせいでもあるのか、左右の音のバランスに違和感を覚えた。それでスピーカーを筆者の顔の真正面に左右対称になるように配置し直し、最後近くの「ザ・ナンシー・アンド・メアリー・ミュージック」に至ると音質の悪さらしきものは気にならなくなったが、2枚を聴き終える頃にライナーに目を通した。すると、次のようなことが書かれていた。つまり、ディスク1の全半に当たる35分は、以前に録音された音がわずかに残っていて、しかもそれが逆回転で聞こえるという。当然静かな演奏部分にそれは目立ち、また演奏の音量は不充分という。以前の録音がわずかに残った分、新たな録音の音量が減ったのだ。ザッパはそのことに気づいていて、そして主に「ザ・ナンシー・アンド…」から『チュンガの復讐』に使ったとも想像出来るが、ともかくミネアポリスのタイロン・ガスリー・シアターで録音した5本のテープのうち第1巻は不幸な録音状態にあり、そのことが本作の発売に際して技術的な加工を強いた。そのことはアナログ時代では無理であったかもしれないが、ともかく何でも録音、録画しておこうとしたザッパは将来の技術革新に賭ける思いがあり、その考えは正しかった。5本のテープは2チャンネルのステレオで録音されたが、第1巻は中古品で、ザッパはそれを知りながら本作のライヴ録音に使ったのだろう。それで以前の音がわずかに残ったが、そのことはオープン・リールのテープ・レコーダーを使った筆者の世代では理解出来る。一般人が使う家庭用の録音デッキでは当時は録音速度が2種あり、またトラックはテープ幅を4分割にして往復ともステレオつまり半分ずつを左右に分けて使うか、それともテープ幅を2分割にして往復を半分ずつ使うモノラル録音が利用出来たが、ややこしいことにステレオ録音では4分割されたテープ幅の隣り合うふたつのトラックを使うのではなく、飛び飛びとなっていた。それはステレオの分割効果を高めるためには必要な措置であったのだろう。そうしてステレオ録音したテープを今度はモノラル録音に使うと、往路ではステレオの片側を覆い、復路でもう片方を覆うということになるが、復路ではテープの逆向きに重ね録音することになる。
 本作の5本のテープはどれも2トラックの片道録音で、テープ幅半分ずつを左右のチャンネルに振り分けた。中古になる以前にどのような使い方をされたかだが、左のチャンネルに以前の録音が逆向きに残っていたということは、家庭用デッキのようにテープを往と復で使っていたのだろう。図示するとわかりやすいが、そのような録音では録音時の磁気の並びは往路と復路とでは逆になる。これはビロードの毛羽立ちを思えばよい。テープの部分を顕微鏡で見た時、往路と復路とでは毛羽立ちが逆に見える。そういう状態のテープを今度は全体幅を往路で録音した場合、毛羽立ちの向きが同じ場合は以前の音はスムーズに消されるが、毛羽立ちが逆になっている場合、そこをいくら撫でても、撫でた方向にうまく馴染まない。つまり、その馴染まない部分が以前の音として残り、しかもそれは逆回転となる。ここで蛇足ながら書いておくと、ニクソン大統領による民主党の盗聴疑惑問題は、当時録音テープの詳細な分析が話題になった。日本のドリル何とかという、ドリルで証拠となるパソコンに穴を開けた日本の若い女性議員がいるが、ニクソンの側近も主人に被害が及ばないように盗聴テープに重ね録りをして証拠を消した。そこでそのテープを仔細に調べると、何度重ね録りをしたかがわかった。確か6,7回であったが、録音テープは重ね録りをすれば以前の録音が全くきれいに消えるかと言えば、厳密にはそうではないらしい。話を戻して、本作のディスク1の前半に相当する部分は左チャンネルにかすかな逆回転音が入っていることによってステレオのイメージはより強調された形になっていたが、聴くに耐える商品とするにはもちろんそのような冗談は言っておられず、その逆回転音を削除せねばならない。ジョーはそれをクレイグ・パーカー・アダムスという人物に相談したようだが、左チャンネルから以前の録音である逆回転音だけを除去することは不可能だ。それで左を使わず、右だけを疑似ステレオに加工した。それは70年代でも可能であった技術だが、今ではもっとそれらしく出来るのだろう。だが、前述したように、筆者はディスク1の前半には違和感があった。それは疑似ステレオであることを本能的に察知したのかもしれない。
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 さて、本作がアマゾンで予約が始まった時、曲目の紹介があった。そこにストラヴィンスキーの「アゴン」が真っ先に目に飛び込んだ。海賊版の公式アルバム化の『ビート・ザ・ブーツ』に、本作と同じ70年のステージを収めるものがあり、そこに「アゴン」は含まれていたが、正式には今回が初めての紹介になる。「アゴン」は20分近い曲であったと思うが、ザッパは冒頭のファンファーレのみを曲のムードを変えるつなぎとして使っている。70年当時にそのマザーズの演奏がストラヴィンスキーの曲からの引用であることを知っていたファンはごく少ないだろう。今でもその事情は変わっていないと思う。ザッパ研究家を自認するのであれば、現代音楽のそれ相応の知識は必要だが、そのことはザッパの音楽に踏み込む敷居を高くしていて、大多数のファンはそんな知識は不要であると考える。だがそれはザッパにとっては不幸なことではないか。筆者が最初にザッパについて「大ザッパ大雑把論」を書いた時、たとえば本作にも収録されている「コール・エニィ・ヴェジタブル」の最後の演奏パッセージがストラヴィンスキーの「兵士の物語」からの引用であることを知っていたが、当時は誰もそのことに言及していなかった。またそれが不満で「大ザッパ大雑把論」を書いたとも言え、またそういう引用を知ったことでザッパの音楽になおのめり込んだ。これも以前に書いたが、筆者が22か3の時に買ったジェスロ・タルの2枚組『リヴィング・イン・ザ・パースト』に、臨時メンバーのジョン・エヴァンが活躍する長い器楽曲が入っていて、そこにクラシックの名曲の数秒から10数秒といった短い引用が含まれていた。それらの原曲を知るとなおのことを楽しいが、当時の解説書にはそんなことには触れられていなかった。何しろロックは反対性であり、クラシック音楽などあえて聴くなという考えが大勢を占めていた。筆者は数年後にその曲を筆者より若い女性に聴かせると、全部ではないが、たちどころにそれらの原曲を言い当てた。それが教養というものだ。だが、同じ女性に「コール・エニィ・ヴェジタブル」を聴かせ、最後に「兵士の物語」の引用があることを答えられたであろうか。クラシック音楽を幅広く知ると言っても、それは20代ではなかなか手間のかかることだ。それに現代音楽寄りとなればなおさらで、ネットが発達した今ならいいが、70年代の前半にたとえば「アゴン」を知っているというのはよほどの現代音楽ファンで、それをザッパ・ファンに求めことは無理な話であったかもしれない。だが、ひとつ忘れてはならないのは、ザッパは若くして現代音楽ファンであって、たとえば本作でもストラヴィンスキーに惚れ込んでいたことがよくわかることだ。ディスク1の12曲目「キング・コング/イゴールのブギ」の「イゴール」はストラヴィンスキーの名前だが、アルバム『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』で同曲を聴くより、本作ではさらにストラヴィンスキー調が強調されているように感じる。本作に参加しているキーボードとサックス担当のイアン・アンダーウッドは後年ザッパの音楽について、タネを明かせばストラヴィンスキーなどの現代音楽を味付けに使ったなどといったことをインタヴューで発言した。そこにはそのタネがわかれば誰でも同じような曲が書けるという一種の悔しさのようなものが混じっているように感じるが、現実としてイアンはザッパのような有名な音楽家にならなかった。それは何を意味するか。一旦わかってしまえばタネは簡単と言えるが、そのタネを見つけて応用するところに天賦の才能があるということだ。
 ストラヴィンスキーのような作曲家はもう輩出しないが、ザッパがストラヴィンスキーの二番煎じのような方向に進まなかったことは正しい。また、それは不可能でもあった。歴史的に見ればストラヴィンスキーの後継者はブーレーズということになるが、ザッパはそれを見抜いていたし、またそうであれば、またストラヴィンスキーを敬愛するのであれば、全く違う音楽をやるという覚悟があったはずだ。そこがまた一流になるか凡人で終わるかの別れ道で、凡才は尊敬する先達の模倣に終始してその足元にも及ばない。尊敬すればするほどに違う方向を目指すべきで、その尊敬される人もそうして来たことをよく知る必要がある。ザッパは多少禅に関心があったようだが、禅の本質を本能的に理解していた。師とは違うことをやる。それが本質だ。話を戻すと、イアンはザッパの手法をよく理解したが、自己の創造に進むには力不足であったか、あるいは経済力不足もあったのだろう。そこにはザッパがよく言ったように、アメリカで音楽家として生きて行くことの難しさがある。「アゴン」を引用したところで、99.9999パーセントの人はそれがわからないし、またいつの時代でも絶対的多数者であるそういう人たちは、大いに宣伝されるもっとわかりやすい音楽に熱を上げる。そういうアメリカでどういう音楽が可能か、どういう方法が可能か。その試行錯誤とその時その時の結晶がテープ保管庫に大量に残されていて、本作はまたその一端を示すことになった。また話を戻すと、ストラヴィンスキーを引用するのはメロディよりも複雑なリズムだろう。そこにはジャズにもないものがある。そしてザッパは72年には「アゴン」のファンファーレを発展させたような「アプロキシメイト」を作曲するが、そうした複雑なリズムの曲を書くに至る原点がストラヴィンスキーにあり、またフロ・アンド・エディを迎えた70年にはすでにあったことが面白い。20代半ばとはそういうものだ。多くのものを吸収し、将来への糧とする。さて、本作のヴォーカル曲について少し書いておくと、ザッパはフロ・アンド・エディ用に書き下ろしはしたが、当初はとりあえず以前のアルバム曲を歌わせることにした。本作で目立つのは、『ウィア・オンリー・イン・イット…』のテープ早回しによる奇妙な声をフロ・アンド・エディに歌わせることで、本作によって同アルバムのライヴ演奏が実現したし、またザッパは同アルバムのヴォーカル曲を本当はキーが合う生の声で録音したかったのではないかとも思わせる。だが、当時は適当な歌手が見つからなかったのだろう。それにザッパはスタジオに籠ってテープを加工するという作業が一方でも好きであった。それに対して本作では全く逆の性格が示される。簡単に言えば閉じこもりの反対の解放性で、それは即興演奏によく表われている。もうひとつ強調すべきことは、過去の曲であってもギター・ソロを加えるなど、改変が目立つことだ。変化し続けなければ時代遅れになるとでも思ったかのような目まぐるしい活動で、それは1970年に最も凝縮していた。本作は1970年のライヴ・ステージを丸ごと収録する唯一のテープとのことだが、その希少な記録性からもCD化はなされるべきであった。明日も書く。
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by uuuzen | 2016-06-02 16:03 | ●新・嵐山だより(特別編)


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