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●神社の造形―錦天満宮
週のように河原町に出かけていたことがあったが、平安画廊がなくなってからは月に一度出るか出ない程になってしまった。



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筆者は行動範囲が広くないので、京都市内にいても歩いたことのない地域の方が多いくらいで、このカテゴリーに取り上げるべき神社は京都市内に限ってもすべて網羅することは出来ないだろう。それが目的ではないのでかまわないと思っている。それに訪れた神社でも後で調べると摂社や末社が境内にあったことを知る。それに気づかなくても市内ならばいつでも訪れることが出来るようなものだが、このカテゴリーの投稿は基本的には一神社一回と思って始め、撮った写真が多い場合は2回に分けることにして来た。つまり、当初の頃とその後とでは釣合いが取れていない。それで投稿しなかった写真がそのままになっている場合が少なくないが、それらを今さら思い出したように「その2」として投稿する気になれない。というのは、あちこちの神社を訪れては写真を撮っているからで、それらをまず先に投稿しようという気になっている。最初から厳密に計画を立てて始めたヵテゴリーではないため、このようなことになるが、あまり厳密に考えることはやめておこう。それはともかく、今日は一昨日の平安神宮の後、家内と家内の妹との3人で河原町まで歩き、喫茶店で休憩した後、新京極商店街を阪急河原町駅まで向かう途中で思い出したように撮った。つまり9月25日のまだ暑い盛りであった。新京極通りの商店街はしばしば歩くので錦天満宮は珍しくなく、写真はいつでも撮影出来る。それで本来ならもっと以前に投稿出来たが、今頃になった。この神社とても人通りの多いところにあって、最近は外国人観光客の姿をよく見かける。不思議な雰囲気に異国情緒を感じているようだが、それは京都人でも同じだ。なぜこんなせせこましい場所にこのような神社があるのか、考えてみれば不思議だ。西に向かって京の台所としてTVでよく紹介される錦市場の商店街があるが、そこが外国人で溢れ返るようになり、そのついでに突き当たりに見えるこの神社を訪れるのだろう。たくさんの提灯がぶら下がり、京都らしい雰囲気があってよい。商店街の中に神社というのは高松でも見かけたが、この錦天満宮ほどには目立っていなかった。錦通りの突き当りに位置するところが存在感があるが、この神社がなければ錦通りはまだ東へ向かって伸びていたのだろう。そう思えばやはりこの神社は不思議でもあり、貫禄も感じさせる。貫禄というのは錦市場の守り神といった気がするからだが、それならば稲荷さんを祀るべきなのに、学問の神様の天満宮というところの理由がわからない。筆者はずっとそう思いながら、調べもしなったが、この投稿を機に先ほどネットで確認すると、学問の神様を祀るのは当然として、商売繁盛の御利益もあるらしい。それはそうだろう。それに日本の神様は何でもありのところがあって、どんな望みでも聴いてくれる。
●神社の造形―錦天満宮_d0053294_1255721.jpg この神社の歴史はかなり古い。菅原道真の父の旧邸を六条河原院に移してそこに寺を創建し、その鎮守社として天満天神を祀ったのが最初で、それは紀元1003年のことだ。1000年ほど経っていることになるが、そのような長い年月の間にはいろんなことがある。まず大きな動きは秀吉が京の町を大改造した時にあった。寺と鎮守社を現在の地に移転させたが、錦通りの東端という場所によって錦天満宮と呼ばれるようになった。それはわかりやすくてよい。では寺はどこにあってどうなったかだが、明治の神仏分離によって寺は東山五条に移り、神社だけが現在の地に残された。寺はいわば最初の地に近いところに戻ったので、それはそれでよかったかもしれない。また神社の方も賑やかなところに長らくあったので、それを東山五条の寺に近い場所に移すことには反対があったと思える。寺のあった場所は現在は商店になっているのかどうか、古地図を調べるとわかるだろうが、ひょっとすれば裏寺町通りにあったかもしれない。六条河原院は現在はその面影も何もない場所となっているが、歴史的に有名な場所で、そのことを説明する立て看板がある。そのことをこのカテゴリーで紹介するのは1か月ほど後のこととなる。ともかく、狭い京都の中に何重にも歴史が積み重なっていて、今後も変化し続けるから、1000年後にどうなっているか想像がつかない。残して行こうという意志がなければどんなものでもすぐに忘れ去られ、消えて行く。これからの価値観の変化に神社仏閣が耐えるかどうかだが、安泰と高をくくっていると衰退は早いのではないか。そのことで思うのは千本通りにあった出世稲荷だ。経済的な理由で移転したと聞くと、どんなものでもマネー・ゲームに翻弄される現実を改めて思う。これを世知辛いというが、なくなってしまうより移転してでもあるのはまだましと考えるべきで、それはこの錦天満宮の歴史からも言える。
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 この神社は80年代に雑誌で取り上げられて割合有名になった。今日の写真でもわかるように、石の鳥居の先端が両脇の建物の内部にめり込んでいる。参道を鳥居の柱の幅だけ確保出来ればいいと考えたことのミスによるが、両脇の商店ではその部屋に飛び出た鳥居の先端上に清めの水をコップや皿に入れて毎日取り変えているそうだ。ただし、筆者は雑誌やTVで見ただけで、その店の2階に上がって確認したことはない。この名物によって両脇の店が潤っているかと言えば、そんな甘い話はないはずで、事情を知っている人は筆者のように外から写真を撮るだけであろう。また鳥居とはどういう形をしているものかという関心や知識のない外国人は気づかないはずで、名物と呼べるほどのものでもないかもしれない。境内の面積の割りには鳥居は立派で、よくぞこれを建てたと思うが、ぶら下がる御幣によって、外国人観光客の目に留まるだろう。そして奥の灯る提灯の方向へと歩を進める。境内はせせこましいが、きれいな水が湧き出手いて、商店街とは全くの別空間となっている。牛の銅像が人の手によってさすられてピカピカに光っているが、それを見た外国人観光客は理由もわからず、必ず同じ場所を触ってさらに光沢が増す。その牛は今日の最初の写真の右端下に小さく写っているが、頭部が特によく撫でられることがどうにかわかると思う。末社が3つほどあるらしいが、筆者は気づかなかった。いつでも撮影出来るが、それらの末社の写真を紹介するのであれば次回であるべきで、かなり日が開いてしまうと、興が削がれる。末社よりも筆者が目に留めたのは、くじを運んで来るからくり人形だ。牛の銅像の隣りにあって、2枚目の写真だ。ガラス・ケースの中に小さな赤い鳥居と一対の燈籠があり、人形は奥から赤い鳥居に向かってやってくる。これはいつからあるのだろう。からくり人形は江戸時代からあるし、そのための本も出たので、案外300年ほど前から同様のものがあったかもしれないが、実際はかなり新しいのではないか。コインを投入すればそれに反応するという仕組みは新京極通りにあるゲーム・センターの遊びとほとんど同じで、からくり人形とはいえ、内実は80年代以降のロボット技術を使っているかもしれない。ともかく、見世物としては繁華街に似合うし、狭い境内のこの神社にはふさわしいだろう。筆者が撮影する直前に中国人のカップルがそれでくじを買っていた。字が読めなくてもそのゲーム・センターの機器らしいところを面白がっているようであった。この神社はいつも人が入っていて、新京極通りがただの商店街でないことを最もよく主張している。秀吉のお蔭であろう。
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by uuuzen | 2016-03-16 23:59 | ●神社の造形
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