人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●神社の造形―平安神宮
災を願うのがもっぱらだが、護摩木が年末が近づくと自治会宛てに3本回って来て、それに願い事と名前、年齢を書いて、担当者に持参する。



●神社の造形―平安神宮_d0053294_17183615.jpg
仕組みがよくわからないが、担当者は平安講社に属し、京都のどの自治会でも1名はいるようだ。護摩木は1本300円だったと思う。会長と副会長が自腹で支払う場合もあるが、自治会に対する強制であるので、筆者が自治会長の時は自治会費から支払うことにした。この護摩木は個人でも買えるもので、ほしい人は平安神宮に行けばよい。自治会は平安講社に対してこの護摩木代以外にこれも強制で寄附している。その金額は1世帯当たりいくらか忘れたが、自治会費から支払われる。自治会費はみんなどういう使われ方をしているのか無関心だが、一度は確認しておくべきで、無駄な使われ方があると思えば自治会長やまた連合会の会長を問いただすべきだ。筆者が自治会長をしていた4年の間に、そういうことをした人はひとりだけいて、連合会の総会の際に厳しい口調で質問していた。だが、その総会の後はもう1か月も任期がなく、新たな自治会長になるともうその質問したことは受け継がれずに忘れ去られる。ま、そんなことは「駅前の変化」のカテゴリーに数年前にさんざん書いたので繰り返さないでおこう。ともかく、自治連合会が平安講社と関係があることがわかっただけでもよかった。平安神宮は10月22日に時代祭りをする。これは市内の各自治連合会にどの役として行列に参加するかが数年先くらいまで決まっている。その中心の数十人を要する本役となると百万円以上必要のようで、その余裕のない自治連合会は辞退する場合がある。それでは他の自治連合会に対して格好悪いというので、どうにか費用を捻出して参加するようだ。また馬に乗る武将に扮する人は各連合会からほぼ毎年一名が割り当てられ、自腹で何度か馬に乗る練習をする必要があり、自治連合会の会長となれば何年かに一度は時代祭りのそういう役割が回って来るが、みんな名誉と思い、また経済的に困窮している人は連合会の会長にならない。これも書いたことがあるが、自治会長になると平安講社から平安神宮の神苑にいつでも無料で入ることの出来る1年限定の無料パス券がもらえる。自治会と平安神宮のつながりがそういうところに表われている。よほど暇な人でない限り、年にそう何度も訪れることはないが、記名式で、誰かに譲ってもわからない。京都に住む人が最も馴染み深いのは毎年各戸に1枚配布される御札だ。これはずっとデザインが変わらず、大量に印刷したものがどこかに倉庫に保管されているのだろう。あまり御利益がありそうな書体ではなく、もっと字のうまい人に書き直させればいいと思うが、そういう声は出て来ないのだろうか。
●神社の造形―平安神宮_d0053294_17184671.jpg

 平安神宮に初めて訪れたのは小学5年か6年の遠足だ。このことも以前に書いた。岡崎は美術館や図書館が集まり、筆者はよく出かけるが、江戸時代は広大な畑以外に何もなかったところで、そういう場所であったために思い切っていろんな新しい施設を集めた新しい地域として開発することが出来た。それは平安遷都1100年記念で、明治半ばの頃だ。博覧会を岡崎で開き、その際に平安京を開いた桓武天皇を祀るための神社を創建することになったが、最初は岡崎ではなく、千本丸太町界隈であった。千本丸太町の交差点から西へ300メートルほどのところに京都市立図書館があり、そこには80年代からよく通ったが、千本丸太町交差点北西の児童公園に説明パネルや碑が建っていて、平安京が出来た当時はそこが中心であったといったことが書かれている。遷都1100年を記念してその大内裏を復元しようということになったが、今でもその辺りは民家が密集し、用地の買収がうまく行かなかったらしい。それで同じ丸太町通り沿いのずっと東の端である岡崎が決まった。畑なら取り壊す民家がなく、はるかに安くて済む。明治半ばの千本丸太町界隈がどのような様子であったか知らないが、戦前は現在の四条河原町と変わらないほどの繁華な場所で、それほどに西陣が潤っていた。今は西陣がさびれて千本通りの丸太町通りより北は疲弊が目立つので、用地買収は明治のころよりはかどるかもしれないが、人口密集は相変わらずで、実際はどうなのかはわからない。現在の千本丸太町交差点付近に朱雀門を造る予定であったと思うが、そうなると大内裏の区画は現在の千本丸太町交差点を塞ぐ形となった。それでは交通はその大内裏が邪魔になって周辺を迂回する必要があるから、現在の千本丸太町の西北区画を平安神宮とする可能性が大であったろう。つまり大内裏の東端が千本通り、朱雀門のある南の端が丸太町通り、そして西端はどこかと言えば、現在の平安神宮と同じ規模とすれば、市立図書館のある七本松通りまでということになる。北はどこまでかとなると、筆者は千本丸太町北西地区をほとんど知らないが、寺がいくつか密集している。それらを移転させると現在の平安神宮と同じ規模の敷地は千本丸太町北西に確保出来た。問題は用地が買収出来なかったことに尽きる。明治時代でそうであれば、今後もそのような壮大な計画はまず無理だ。第一、新たに巨大な神宮を建設するなど、宗教の問題もあって反対がきわめて多いだろう。そう考えると明治半ばの頃はまだ思い切ったことが出来た。遷都1200年の時には後世に残るような需要で意義あることはほとんど何も行なわれなかった。逆に考えると、神道を押しつける時代ではなくなり、一種の息苦しさからは解放された。
●神社の造形―平安神宮_d0053294_17185739.jpg

 現在の平安神宮は神苑の池がなかなか見物だ。千本丸太町付近に出来ていたならば、その池はどうしたでか。御池通りにある神泉苑を思い出せばいい。庭園の水辺くらいの水はどうにでもなるのだろう。岡崎は美術館や図書館、動物園などが集まる文化ゾーンで、現在のそれらをそっくり千本丸太町界隈にある姿を想像すると、何だか面白い。現実に可能かどうかはさておき、南東には二条城、東には御所があることになって、広大な緑の地域が京都市の中央に集まる。また府庁や府警はその緑ゾーンのほぼ中央に位置し、京都の印象はかなりまとまったものになる。ところが結果的はそうならず、二条城北西すなわち千本丸太町界隈は観光客がほとんど踏み込まない雑然とした下町になっている。それはそれで面白いが、前述のように西陣が衰退し、これからの京都像を考えた場合、千本丸太町北西は再開発地域になるのではないか。では再開発して何を新たに設けるかとなると、マンション群しか思い浮かばない。それでは平安神宮に比べてあまりに夢がない。だが、京都が明治の頃のように壮大な夢を抱けることが今後あるかとなると、わが自治連合会からもわかるように、それはまずないような気がする。嵐山でも新たに出来る建物は京都の資本ではない。京都以外の金持ちが京都で儲けようとし、儲からなくなればすぐに撤退だ。それはさておき、平安神宮が千本丸太町に出来ていたならば、岡崎は現在どうなっていたであろう。移転した多くの寺はそのまま残り、また田畑は住宅になり、それが老朽化すれば5,6階建てのマンションになったはずだ。だが岡崎は洛外であり、そのような姿になっても別段よかったのではないか。あるいはこういう意見が今ならあるだろう。いくら遷都1100年記念とはいえ、大きな神社を造る必要があったのかだ。つまり、千本丸太町の大内裏を復元しようとせず、もっと別の何かを造っていればよかったとの考えだ。それが何か言えば、京都の誇りとなって観光客にも喜ばれるものがよく、結局緑の多い、災害時は避難場所になるような施設となる。京都に直下型の大地震が起きた場合、千本丸太町の密集地の住民は逃げ場がない。二条城はまだ近いが濠で閉ざされている。御所までは2キロはあり、また近くに大きな川があって、その河川敷にでも避難するかと言えば、そういう川もない。となれば、明治の計画のように、平安京の大内裏を復元し、平安神宮にしておけばよかったのではないか。明治半ば以降京都市内は甚大な被害の地震が生じていないが、明治半ばの京都の都市計画として千本丸太町の大内裏復元は災害についても目を向けたものであった気がする。岡崎に平安神宮が出来たことは、その後の京都の力の低下を物語っているとも思える。
●神社の造形―平安神宮_d0053294_1719764.jpg

 さて、先ほど調べると平安神宮は近年重文になった。市民であるのにそれは知らなかった。今日の写真は去年9月25日に撮影したが、気づいたのは大鳥居の奥、大極殿に通ずるまでの間、以前は公園であったところの一部が整備され、また凸凹していたアスファルトの道が石畳となった。京都会館がローム・シアターとして衣替えすることに伴なってかどうか、やや雑然としていた舗装がすっきり見栄えがよくなった。だが真夏は照り返しが応えるだろう。2枚目の写真は最初の写真の撮影位置から南を振り返って撮った。右手が図書館、その奥に国立近代美術館、左は市美術館がある。3枚目は応天門前の左手にあったと思うが、さすが伏見の酒が目立つ。4枚目はその門から奥の大極殿を臨む。大極殿は拝殿となっている。これも先ほど調べて知ったが、1976年1月に平安神宮は左翼によって放火され、大極殿より北にある本殿などが焼けた。そう言えばそんなことがあったと思い出すが、当時あまり大きなニュースにはならなかったのではないか。あるいはそう報じられてもすぐに話題は小さくなった気がする。全国から寄附が集まって再建され、そして近年重文になったから、明治半ばの人たちが考え、また実行したことは京都の大切な遺産となった。
●神社の造形―平安神宮_d0053294_17191681.jpg

 平安神宮は正面の大極殿よりも、その手前両脇の特徴ある楼閣が印象的だ。5枚目の写真は大極殿に向かって左手の白虎楼で、この左右の楼閣を筆者は小学生の遠足の時に見て、思ったより小さいと感じた。それは今も変わらないが、平安神宮は平安京の大内裏を8分の5の規模で復元したから、そう感じるのも無理はない。8分の5はわかりにくいが、6割だ。これは半分より少し大きい程度だ。原寸大で千本丸太町に復元されていたならば、西端は七本松通りを越えて図書館をすっぽり包み込み、まださらに西まで覆い。ちょうど二条城と同じ程度の面積になった。これからはますますそんな計画は無理だが、秀吉級の政治家が登場し、また大地震で洛中に大きな被害が出れば、現実味を帯びるかもしれない。さて、6枚目の写真は5枚目に写っている「古札納所」だ。どうせなら5枚目に写る緑色のゴミ箱も朱色に塗って神社らしい雰囲気にすればよい。それはともかく、この古札納所は三方から古札を投げ入れられるようになっている。赤い文字で「納札所」と書く扁額が真正面に見える位置が正面で、昨日触れた「松江のお宮」と同じく切妻が正面を向いている。これや造りが簡単ということと、神体を祀る社ではないとの理由もあるだろう。ともかく、「松江のお宮」と同じく、人が対峙した時に屋根の切妻と対面する形だ。屋根は反りがついていて、それなりに手間をかけている。もちろんこの反りがあるのが正しいという意味ではない。「松江のお宮」のように屋根の傾きが真っ直ぐな社もある。ついでに書いておくと、9月25日は家内の妹の書が「みやこめっせ」の一室で展示されるというので出かけた。趣味で書いている人の書は緊張感が感じられず、面白いものはないが、当日2,3は目に留まったものがあった。主宰者の男性と少し話をしたが、書の談義をする場ではないと考え、筆者はほとんど話さなかった。もともと筋のいい人もあれば、家内の妹のように全くそうでない人のものもいる。総じて学芸会的雰囲気で、義理がなければまず見に行かない。それでも趣味で楽しい時間を過ごせるのはいい。金も時間もあって、どのように時間を潰そうかと思案する高齢者は多い。家内の姉は妹に対して、「そんな習字なんかやめてしまいなさい。どうせ何にもならへんのやから」とえらく現実的だ。筆者はそういう言葉も黙って聞いている。
●神社の造形―平安神宮_d0053294_17192413.jpg

by uuuzen | 2016-03-14 23:59 | ●神社の造形
●神社の造形―近江八景欄間彫刻 >> << ●温泉の満印スタンプ・カード、その3

 最 新 の 投 稿
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?