つごうをつけてこのカテゴリーに投稿して来たのではないが、ザッパの命日である今日、ちょうどこのタイトルだ。しかも残すところ1回となった。ザッパが死んだのは1993年だったから、日本風に言えば今日は13回忌だ。これはひとつの大きな区切りだが、何だかザッパ人気も同様に大きな曲がり角に来ている気もする。
幸運にもプラハのライヴ・ステージでのザッパの登場は、CDとなって外国のファンにも知るところとなった。概して作品というものは完成した途端に、それを発表するしないにかかわらず、自分の意識の中ではすでに済んだこととして認識される。作る行為そのもので完結してしまう作者と、発表しない限り完結したとは思えないタイプに分かれるとしても、何年も経てばなおさら、作ったことは記憶にあっても、それを公表したかどうかはよくわからないことになる。このことは、やはりザッパにも少なからず生じている。つまり、ファンのほとんどは、レコードのみによってザッパの作品を味わうが、ザッパ本人の脳裏には無数とも言えるコンサートを通じて、会場にいた一部の観衆しか知りようのない数々の演奏のアレンジも披露したという記憶がある。そのうちのほんの一部がレコード化されるが、時には発売したくとも、その機会が得られない場合もあろうし、レコード収録していないのに、したと勘違いしていることもあろう。ところが何もレコード作りだけを活動の主眼としていることはないはずで、ショーとしてのコンサートそのものの完成度を高め、自らそれを観衆の面前でパフォームして成就感を得ようという思いも強いだろう。それは膨大なライヴ録音の蓄積の中から選曲してレコードを作り上げるという、どちらかと言うと過去を向いた仕事よりも、どんどん新しい作曲を人前で演奏し続ける、前を向いた活動の方が楽しいはずであろうことからも想像できる。こういったことを考えると、オフィシャル・レコードの存在のみで仕事や本質といったものを限定認識するのは、ザッパに対する解釈を狭くする恐れが生ずる。つまり、これは当然ではあるが、全音楽活動のある部分のみがレコード化されていること、そしてそこに現れないものの中に、レコードの世界を補完するものがザッパの場合は決して少なくないことを提示している。ここにザッパの音楽世界の謎めいた部分が生じている大きな原因のひとつがあるし、そのためにまた一方で、ザッパ亡き後も、遺された録音の発表される意義があることに結びつく。
ところがザッパ自身の編集でないものがレコード化されるということは、合法的な海賊盤といった匂いが少なからずまとわりつく。ザッパが厳密に演奏、録音、編集など100パーセント関わったものだけを、ザッパのオフィシャル・レコードとして認め、他は一切排除するという見解をとるのは個人の自由だ。とはいえそれを厳密に考え始めると、やはりおかしい具合になる。例えば画家個人が描いた作品とは異なって、ザッパのレコード音楽というものは、ザッパの監督指揮下にあるとはいえ、メンバーの共同作業であるし、ジャケットやその他のものなどすべてに100パーセント関わるというのは、おおよそ不可能であって言葉としての現実味が乏しい。逆に大バッハやモーツァルトのひとつの楽譜から、現在もなお無数の演奏家が独自の解釈で音楽を紡ぎ出す行為はどうなるのであろう。それらの演奏がすべて無意味であるはずはないどころか、それらの中にしか大バッハやモーツァルトは存在しない。ザッパとて管弦楽用のフル・スコアを書いており、それらは将来にわたりもっと別の解釈によって演奏し直され続けることを待っている。つまりザッパが少しでも関与したものはすべて、いくらかのザッパのアウラがあるのではないかという立場。それを認める自由もまた個人にはある。回りくどくなったが、プラハでのライヴCDはザッパ個人のものではないとしても、非合法に作られてはおらず、ザッパが意志をもって参加したコンサートであるから、一聴の価値はある。あるいはザッパ没後の発売で、ザッパがもし生存していたならば、発表を拒否しただろうという意見もあるかもしれない。だがとうていそんなけちくさい考えでプラハまでギターを持参して出かけたとは思えない。
ザッパのアルバムがMSIからビデオアーツへと発売が変わっても、歌詞対訳者の茂木氏は重要なポジションということで起用はそのまま続いたが、ビデオアーツからザッパ作品が発売開始されてまだ1カ月も経たない11月の最初の日だったか、彼から電話があった。「実は『ブロードウェイ・ザ・ハードウェイ』の解説担当者がどうしても期日までに書くことができず、断りの電話が入った、一晩でどうにか書ける人はほかにいないと思うので、ビデオアーツにそのことを伝えた、続いて担当者から依頼の電話を入れさせるので、話を聞いてやってほしい……」。そして夜にHさんという女性から電話があった。声の調子は人がよさそうで好感がもてたし、一晩で仕上げる人がほかにいないとなればやるしかない。頼まれれば断れない、たち野郎。乞われる間が花。傘屋の丁稚とよく言われてしまうが、骨折って損するのも、たまであればいい。それに近視眼的に見ると損なことも、長い目で見ればかえって得になることも人生には多い。結局徹夜して20数枚のMSI時代とほとんど同じ調子の原稿を仕上げた。これはビデオアーツとしては異例で、そんなに長い原稿を望んではいなかったのだが、書き始めると父ちゃん・寝ばー・ストップ。ビデオアーツとしては急な仕事依頼のため、他の新しい書き手たちと同じ数枚のみの原稿を指定しにくかったのだろう。何となく弱みにつけ込んだ具合になってしまったが、徹夜してまでたくさん書く必要はなく、短い原稿を指定されていたならばそれに収めた。自由に書いてよいと言われたことで、最低20数枚を要した。本書ではそれを大幅に加筆したうえ、書いた順に並べず、アルバムの性格を考慮して12章の次に置く。
才悶がザッパのスタジオで聴かせてもらった『文明、第3期』は、86年秋の広告には『ランピィ・グレイヴィ・フェイズ3』として間もなく発売されるとあった。それがほぼ完成した頃、ザッパは来客には聴かせて反応を見ていた。O氏も聴かされたようだ。才悶の感想は、大きな話題となって一気に売れるというアルバムではないが、すごい曲が含まれているというものだった。『ザ・イエロー・シャーク』コンサートでもシンクラヴィアを使用したいくつかの曲が披露され、それらはみな『文明、第3期』に収録された。このアルバムはザッパの当初の予定より大作になったためになかなか完成しなかったのか、あるいはザッパの体力が持たなかったのか、噂がいろいろ聞こえてくるわりに正式な発売情報が伝わらなかった。そしてついに最初の予告からほとんど10年を経た94年12月、ザッパ没後に、豪華造本仕立ての2枚組CDとなってバーキング・パンプキンから通信販売が開始された。ザッパ作品をリリースして来たイギリスの会社、ミュージック・フォー・ネイションズは、同アルバムをヨーロッパ販売することになり、MSIはそれをロット単位で輸入し、対訳と解説をつけたうえで日本盤として限定発売した。95年の2月のことだ。同アルバムは現在もなおライコディスクやビデオアーツからは発売されていないので、バーキング・パンプキンから直接入手するしか方法はない。