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●『生誕100年記念 吉原治良展』
手元に1992年春に芦屋市立美術博物館で開催された時に買った吉原治良展の図録がある。没後20年展であった。その後ほとんどこの図録は見開いたことはないが、息子を連れて観に行った時のことはよく覚えている。



●『生誕100年記念 吉原治良展』_d0053294_1820827.jpgその時がこの美術館を最初に訪れた時で、その後一度も行っていないが、数年前から経営難で閉鎖するかどうかで問題が続いている。市民が自主運営するようなことで取りあえず話は収まっているようだが、地方美術館の運営の困難さをよく象徴した出来事だ。吉原は生まれは大阪淀屋橋の植物油問屋だが、工場が西宮の今津にあり、また学生の時に結核を患って、療養のために芦屋の別荘に住んだ。1925年のことだ。それ以後ずっと芦屋に住んだから、芦屋と吉原は切り離すことが出来ない。芦屋は谷崎潤一郎も関東大震災以後、東京から移住した場所で、その住居が確かこの美術館のすぐ隣にあったのはないかと思う。わざとそういう場所を選んで美術館が建てられたが、それでも経営難というのは、いかに美術展が儲からないものであるかをよく示している。誰もさほど関心を持たず、こうして書く展覧会寸評はもっと誰も喜ばないものであろうことがわかるというものだ。それはどうでもいいことだが、芦屋に美術館があればいいという思いは戦後すぐあたりから、吉原を初め他の美術家がすでに抱いていた。それがバブル期前夜だったろうか、ようやく立派な美術館が建ったというのに、たかだか10年かそこらで行き詰まるとは全く情けない話だ。金持ちにはなったが、精神が貧困になってしまった日本の現状をきわめてよく象徴していると言えまいか。それで、没後100年が、没後20年展にも増して作品を多く並べるのはいいが、住之江の片隅にある、あまり使われない、多目的ホール然としたATCミュージアムでということなのだから驚いた。ここは2、3年前に一度行ったことがあるが、大阪にあっても離れ小島のようなところで、気軽に立ち寄る気が起こらないところだ。吉原のサイズの大きな作品をなるべく多く展示するためにはここが最適という見方もあるが、本当の理由はそんなところにはなく、あまり入場者が見込めないし、どうせ見たい人は熱心な美術ファンであるに違いなく、どんなところでもわざわざ訪れるという算段があったはずだ。芦屋の美術館ではその後も吉原のドローイング展や具体展が何度も開催されているし、生誕100年展は生まれ故郷の大阪でという気持ちは評価してよい。だが、ATCミュージアムでは1998年にも大阪市が所蔵する作品で『吉原治良の世界』を
開催している。そのため、芦屋と大阪にとっては外部に向けてかなり売りに成り得る貴重な画家となっているが、地元に住む者にとってはいささかまたかという感じがしないでもない。
 そういうこともあって、今回のチラシをどこで入手したか忘れたが、手にした時、観に行くつもりはなかった。代表作はみんな網羅された展覧会であるはずだが、前に見て13年経っているとはいえ、もう一度見る必要をさほど感じなかった。だが、10月に見た大阪なんば高島屋での『二科黄金の時代展』では、最後の部屋に、岡本太郎の作品の近くに、どこかルネ・マグリット風な吉原の作品があった。それでまず吉原に改めて感心を持ち、次に岡本太郎とつながりがある村上善男の展覧会を尼崎で見て、前衛のシンボルである「第九室」の存在を知り、さらに『旅する”エキゾシチズム”』を見た時に会場の休憩室にこの展覧会のポスターが貼ってあって、ついに見ておくに越したことはないと思い直した。そして23日に出かけた。その日はもうひとつ展覧会を天王寺で急いで見たが、これは明日書く。さて、このところ毎週展覧会を見るためにあちこちと動いている。見た後にこうしてそこそこの長さのある文章にまとめるのはさすがしんどい。見る展覧会が多く、ここに書くのも遅れ気味になる。ブログ内容はほとんど展覧会日記と化しているが、何でもその気があるうちにしておくことに限るし、いつまた急に考えが変わるかもしれない。それでも自分の興味を持つことを書くことお同じままであるから、内容には何らかのつながりがあるだろう。そうした思考の連鎖ということをこの展覧会でも思った。吉原も作風をどんどん変えながら、そこに一貫した流れが見て取れる。これはどんな画家でもそうと言えるが、一見、全くつながりのないように作風を変化させながら、そこになお共通した精神が見られるのはスリルのスケールが大きくてよい。たとえばモンドリアンの場合は、具象から抽象に至る道程が少しずつ変化して行って、作風が一気に変態した感じはなく、とても自然な推移に見える。だが、吉原はがらりと作風が一変することが何度かあった。それもつぶさに見れば、色調やモチーフのある部分を引用したり、またマチエールの作り方など、どこかをそのまま引き継いでいて、全く何もかもがらりと変わったということはないが、それでもモンドリアンのような変化とは違って、はっきりとした断層が見られると言ってよい。これは戦争を挟んで吉原が生きた時代を考えると必然的なことでもあるように思うが、戦争の時期を経過しながらそれを感じさせない画家もあるから、吉原の場合は見方によれば軽佻浮薄な画家と感じられやすい。しかし、吉原の絵にはそういった軽さとは違う、もっと禅の精神に近い、長い思考の結果生まれ出て来た、押し殺した思いの塊のようなものが宿っている。それは流行といったものとは無縁の、物事の本質を自分独自で探り出そうとする求道的な精神の賜物だ。吉原の視野はとても広く、また絵画運動の動きもよく知っていたに違いなくとも、それには影響されずに、自分の世界に内向きに沈潜し行き、そこから誰にも似ていない絵画を生み出そうと常に考えていたことがよく伝わる。
 吉原の抽象画は戦時中に評論家からは時局にそぐわない自己満足といったようないや味を言われた。戦争に協力するような絵を描けという圧力だ。そんな中から吉原は菊の花もモチーフに描くようになるが、これが大阪人らしい反骨ぶりを示し、とても面白い。チケットにある作品は1942年の「菊」と題する油彩だが、ひしめいている人の頭の見える滑稽さがある。吉原の代表作と聞くとすぐに最晩年の円を白黒で描いた大作を連想するが、最も初期の芦屋の題材に、キリコと国吉康雄を足して二で割ったような作風の一連の作品も非常に印象深く、どの時期においても吉原ならではの味わいがある。だが、吉原は1928(昭和3)年に神戸港にヨーロッパから帰って来た藤田嗣治と会い、自分の作品を見てもらっているが、藤田はただちに他人の影響を見て、模倣はいけないと諭した。見てもらった作品とは、前述の、芦屋を題材にした風景と静物を合成した超現実主義的な絵画のことだが、この藤田の言葉を胸に、吉原は誰の模倣でもない、独自の絵画を描いて行くことを決心する。だが、これは言葉では簡単なことだが、実際はそうは行かない。戦争直後に二科の再開を東郷青児から持ちかけられた吉原は関西の二科のまとめ役として奔走するが、それから2年ほどの絵は、女性をモチーフにその唇を赤く強調して、東郷の影響を強く受けていると見える。だが、それも一時期であり、さらに画風はがらりと変遷して行く。話は変わるが、関西の戦前の洋画家の重鎮と言えば、小出楢重で、吉原の家から4、5分のところに小出は住んでいた。散歩の時に出会うことはあったらしいが、吉原は一度も訪ねて行かなかった。これは象徴的な事柄に思える。もし小出を師と仰いでいたならば、吉原のその後の作風は全然違った具象畑で充足するものに終わっていたのではないだろうか。小説『細雪』には、主人公の姉妹たちが二科展に行く描写や、小出の絵も登場するが、谷崎は同じ芦屋に住む、そして二科で出品している若い吉原の絵をどう見ていたかと思う。1938年に吉原は山口長男、斉藤義重を誘って、二科の前衛グループ「九室会」を結成する。1950年代からは線的抽象からアンフォルメルへと作風を変え、54年にはついに具体美術協会を結成したが、その「具体」の活動によって、現在の吉原の世界的な高い評価が定まった。会社の跡継ぎという経済的には何不自由ない身分であったために、「具体」を結成して若手を周りに集めることも出来たが、その「具体」も吉原の死去によって解散となった。それでも生き残りのメンバーはいるわけで、吉原の精神は死んではいない。会場出口には段差があった。それを車椅子でもスムーズに通れるようにとの計らいからか、斜めの敷き板が嵌め込まれていた。ところがこれがとても滑りやすく、あやうく転倒しそうになった。出口には60歳ほどの男性3人がいて、これを見てまた話し会いをしていた。その顔や姿からは画家たちに見えたが、おそらく具体の最後期にメンバーではないだろうか。そうした人が中心になって今回の展覧会を陰で支えているに違いない。
 さて、没後初出品約20点を含む200点ほどが並んだが、以下に各コーナーに分けて簡単に書いておこう。1『初期作品 窓辺と静物 1923-1932』は、さまざまな画家の影響が見られる。国吉康雄については先に書いたが、そのほかに岸田劉生、岡鹿之助、高橋由一も感じられた。ペインティング・ナイフの多用、また水墨の渇筆風なタッチが見られ、独自のマチエールを作っている。表現のために何でも活用するこういう態度の拡大発展したところに、その後の「具体」独自の体を張っての表現があると思える。会場の出口付近で吉原の制作風景の映像が流れていた。200号ほどの大きな画面に筆をあまり使わず、掌や腕をそのまま押しつけた体全体で挑む姿があり、絵とは手先で描くものではなく、全身全霊で打ち込むものであるということを無言のうちに表現しているように思えた。その発露がすでにこの初期の画面の描き方に見られる気がする。2『形而上学的イメージと純粋抽象 1930-1940』は、1934年第21回二科展に初出品し、5点が入選するという記録を作った当時を扱う。1936年の「作品A」は40歳頃のもので、第2回九室会展に出品され、世界的に見てアンフォルメルの先駆的な作品としてタピエは著作に図版を掲載した。実際、この作品は素晴らしい。全部ナイフを使用して描いたと思うが、比較的フラットな部分と、絵具がぐにゅぐにゅと混ざった部分が不思議に調和し、油彩ならでの面白さがある。色調は白、ベージュ、茶系統でまとめられ、静かで渋い趣があり、岩か大理石の強固な美を連想させる。画面作りの計算もあるが、どこか一発勝負的な、奇跡によって生まれた絵という感じがする。とても洒落た感覚を持っていて、永遠に新しいと言うにふさわしい。だが、吉原は同じようなものを量産しなかった。気に入った一点にはとどまらず、どんどん先を行く。3『戦時中の絵画 二つの風景 1940-1945』のいくつかの絵は、マックス・エルンストを連想させた。完全にシュルレアリスムの影響からは脱していずに、気持ちの揺れが見えそうだ。だが、それは自信のなさからではない。絶えず海外のものにも目を配って学んでいたと言う方が正しい。4『鳥と人間、そして線的抽象 1946-1954』は、ピカソに代表されるデフォルメされた人物や鳥をモチーフとするものから、戦後になって本格的に紹介され始めた海外の抽象表現主義を見据え、また一方では森田子龍ら前衛書家と交流する中で「筆線」について理解を深めた結果生まれた、線に主眼を置いた抽象画の時期だ。子龍との交流は案外大きいものがあろう。最晩年の円相を描いたものは、明らかに前衛書のイメージさせる。1950年の「静かな夜」は、黒地に白の格子を描き、さらに黒で塗り潰して完成させたもので、これは印刷ではとてもわからない。油彩画においてマチエールが、そして思考と行為がどれほど重要かを示す例だ。5『「具体」の誕生 アンフォルメルの時代へ 1954-1962』は、1962年9月1日に吉原が所有していた土蔵を改装してグタイピナコテカを開館し、60年代の「具体」の拠点として活動した時期の前後を展示する。大作が多く、しかもモノクローム調の、体全体で描いたような絵が主となる。どこか鬱屈しながらそれを破壊的に開放しようとする気分の拮抗が見られる。構図や筆致に腐心して絵を美しくまとめるという意識は全くなく、自動的に描いた様子が濃厚だ。6『「円」とその後 1936-1972』は、没後20年展でも感じたが、最後の開放的な光芒を感じさせて感動的だ。画面はすっきりと平塗りになり、極限にまで単純化された円や、明朝体の活字の一部といった形がモノトーンで描かれる。最後に到達すべきところまで行ったことを感じさせ、これ以上の変化は吉原にはなかったのではないかと思う。誰の模倣でもない、独自の絵画の完成によって、吉原は世を去った。実に見事なことで、凡百の画家では到底真似が出来ない。画業の軌跡そのものがまた芸術となっている。
by uuuzen | 2005-12-03 23:58 | ●展覧会SOON評SO ON
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