●○は○か、その32
家と名乗るのは自由で、本を出したことがなくても毎晩書いているとそう自称していいだろう。そのような人は昔はたくさんいたのではないか。日記をつけることが珍しくなかった頃だ。



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今も毎年日記帳を買って思いつくまま毎日書く人はいるだろうが、若者はどうだろう。ネットという便利な仕組みが出来て、自分の文章をネット上に載せたい人の方が多いように思う。それだけ昔と違って人の露出趣味が大きくなったと言えるが、密かに日記をつけることと違って、そこには、昨日の続きをするわけでもないが、虚飾が入り込みやすい。では、読者を想定して書く作家はみな虚飾家と言えるかだが、これはどうだろう。夏目漱石や川端康成が虚飾好きであったとなると、何だが偉い人を否定されたように感じて憤慨する人が多いだろう。梅原猛は10年ほど前か、小説をあまり讃えないようになった。その理由は作り話は人の気晴らしの読み物にはなっても、思想に決定的に影響を与えるものではないとの考えではないだろうか。戦前のような昔の小説はそうでないものがあったかもしれないが、高度成長以降の日本の小説はどれもつまらないと感じたゆえの言葉であったかもしれない。筆者は流行の小説はほぼ全く読まない。村上何とかの小説も読みたいと思ったことが一度もない。小説は著者が好き勝手に空想を書いているが、誰でも空想はするし、他人の空想を知りたいと筆者はあまり思わない。空想は空想であって、単なる気晴らし程度にしかならない。それなら自分で空想を作り上げて楽しむ、つまり昨日の言葉ではないが、ひとりよがりであれこれ思っている方がよい。そして、その空想を文章にし、つまり小説のようなものにして、誰かに読ませたいかと言えば、その気はない。それはただ小説を書く才能がないというのではなく、文章にするからには、最もそうしたい内容を盛りたいし、またそうであれば、経験した事実を中心にすることになるが、それではまず筆者の周囲の人から猛攻撃を受けるだろう。それでも書きたい欲求があれば誰にも言わずに書くが、そうして書いたものは、本やブログにせず、遺言で筆者が死んでから公にせよと書いておく。だが、それは有名な文筆家ならばかなえられる思いだが、こうしてブログを毎晩書くだけのような者は、まず筆者の思いを誰も受け止めてくれない。そんなことを連想していると、小説は面倒だなと思ってしまう。そしてさらに思うことは、小説は虚飾にまみれるということだ。つまり、SNSとよく似ている。嘘だらけと言い代えてもよい。もっとも、それが小説で、いつの時代でもそれが大いに読まれるのは、誰もが嘘をつき、嘘が好きであるからで、真実は何か、それがほしいと思っている人は、老いるほどに小説はアホらしく思うだろう。それが梅原猛の姿ではないか。だが、虚飾はふんだんにあるが、その中に一抹の真実があると思われる小説があって、それが名作と呼ばれるものになって行くとも言える。その真実とは何かだが、道徳的なことではなく、また前向きの思いといったことでもない。では何かとなるが、著者が信じているものだ。これは信じるものがないことを信じているでもよい。そして現代はそういう小説家が多いだろう。大衆の代弁者となる小説家が巨匠と目される。これは小説に限らず、表現全般に言える。それで、表現ということがつまらなくなって来たとも言える。表現などしても、格好いい女性や男性でない限り、あるいは大いに世間に注目される何か売りとなるものがなければ、誰も注目しない。これは「○は○か」で言えば、○であっても○と認められないことは多く、また認められれば×でも○になる時代ということだ。
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 さて、今日も高松市内で見つけた円形の物を撮った写真を載せるが、3枚目は彦根で撮った。まず、1,2枚目だが、1枚目は昨日の3枚目を撮った後、その写真の円形の中央に立ち、真上を見て撮った。高松市の商店街の有名なシンボルで、四辻の交差の天井がガラスの半円球になっている。これを5,6年前か、TVで何度か見ながら、いつかその真下に立ちたいと思っていたが、ようやくその望みを果たした。2枚目の写真は昨日の3枚目の前方左奥のエレヴェーターに乗ってビルの上の本屋に行く途中、その中で撮ったと思う。あるいは本屋からであったかもしれない。昨日の3枚目は円の模様の全体が写っていないが、この写真でよくわかる。羅針盤ではなく、抽象模様で、何を意味しているかわからない。かなり大きく、直径30メートルはあるだろう。これほど大きな円形模様は珍しい。京都市役所前の広場にも大きなものがあるが、それ以上ではないか。そこに高松市の気概を見る。次に3枚目だが、いきなり彦根に移動するので少々まずいが、筆者の思いの中では高松に行った後すぐに彦根を訪れ、ふたつの街はセットになっている。そして、双方で撮って来た神社の写真は別にして、双方の街を訪れたことの感想は今日でいちおう終わるという思いがある。それで、無理にでも彦根で見かけた地面の円形模様の写真を今日は載せるが、高松と違って小さな街で、アーケードのある商店街もない。だが、地図を見ながらぶらぶら歩いていて、思わぬ一画に入り込んだ。そこで見かけたのが3枚目の写真の円形だが、前方に工事柵があるように、この円形模様はまだ出来て新しいように見えた。それどころか、この円形のある一画全部が新しい家並みで、全体にベージュ色の壁を基調に、昭和レトロの雰囲気を用いながら、観光客が喜びそうな店を張りつかせている。民家も混じっていたと思うが、市の条例か何かによって、どの建物も色調が同じようにされている。一瞬夢を見ているような気になった。人はとても少なく、店も半分は閉まっていたと思うが、せっかく区画整理をして洒落た雰囲気の小さな遊園地然とした観光地を作ったというのに、肝心の人がいない。いつ出来た区画か知らないが、もう売りに出ている店があった。だいたいどの辺りかと言えば、「彦根市内を歩く」の4枚目の写真のずっと彼方を左手に入ってすぐのところだ。その区域は特別の名前がついていると思うが、おそらく一から造られた、あるいは徹底的に改造された街であるから、せっかくきれいに整理されているのに、どこか変で、さびれた遊園地を思った。そういう街を虚飾と言うのは気が引けるが、筆者として、そこを素通りし、その先にあったいわゆる本町の商店街の古さの方がはるかによかった。それで、その昔ながらの駅に通じる商店街に入る寸前の一軒の小さな家の玄関前に、小さな袋に入った小豆や、またきなこが並べられていた。商売というにはあまりにしょぼいが、小豆が思ったよりも安いので立ち止まっていると、すぐに60代の女性が出て来た。それで1袋買ったが、佐賀の親類から送ってくるものでおいしいとのことだ。数日後にそれでぜんざいを家内に作ってもらったところ、値段は正直で、さほどでもなかった。だが、それは甘さに慣れた筆者の口がおかしいのであって、虚飾のない、またさして小豆の本場でもないところで実ったものならば、それが本当の小豆というものではないか。TVでは各地のスイーツを紹介する番組が目立つが、筆者はもっと素朴で安価なものがよい。甘ければいいのであって、ゴテゴテとこねくり回した形と味の甘味は、値段は驚くほど高いのに、何だかほっとする物を食べたという気がしない。虚飾嫌いの筆者ということか。○は単純であるからよい。今はTVに出る有名な若手の書家が多いが、彼らが円相を書くと、どれほど飾り立てるだろう。突飛であるから目立つ、目立つから売れる、売れれば何でも○と考えるのは浅はかだ。だが、今はそういう時代で、筆者がこうして書くことは誰も読まない。それでも書く。
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by uuuzen | 2016-03-02 23:59 | ●新・嵐山だより


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