●庭から披雲閣を見る
や姪に筆者と趣味が合う者はいない。それでもたまに会うと話は弾む。そして、筆者が知らない間に成長したなと思わせられることがある。



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お互い齢を重ねるのであるから当然だが、いつまでも甥や姪の小学生の頃の姿を思い出すので、彼らが30過ぎの年齢と聞くとぎくりとする。そう言えば、ザッパが来日公演したのは1976年2月上旬で、ちょうど40年前だ。全く信じられないほど歳月の経つのが速い。もう40年も筆者は生きられないのは確実で、そんなことを思うと、何だか身辺を少しずつ整理し始めた方がいいのかと思う。物を溜め込むのは認知症の兆しのひとつであるらしく、筆者はその傾向が出ているのかもしれない。14畳の仕事部屋は所狭しと本やその他の物が山積し、蟹の横歩きも難しいほどになっている。自慢にならない話で、家内は病気と思っているようだ。そんな筆者を甥や姪はどう見ているのか知らないが、関心のないことは存在しないも同然で、人間はうまく出来ていて、関心のないことの方がはるかに多く、血がつながっている人間がたとえ立派だと世間で認められることをしても、さほど関心があるということもない。ただし、悪いことをして世間で評判になると、身内であればかえって素知らぬ顔をされるはずで、血縁とは何かと思うことが筆者はよくある。それはさておき、筆者が甥や姪を見て思うことがあれば、甥や姪が筆者に思うこともあって、何事もお互いさまだ。そして、自分で思っているほど、身内も含めて他者は自分のことをよくは思っていないであろうが、それがいわゆる客観的な見方ということで真実の姿を伝えてくれるかもしれない。これは、人は人との関係で生きていることから当然のことで、自分でいかに自惚れていても、それは意味も価値もない。すべては自分以外の人の判断、評価がものを言う。そのためにも、人はなるべく他者と会って話をした方がいい。相手について何か感じることがあると、必ず相手もそうで、お互いがお互いを値踏みする。そういうことの積み重ねで自分がどう見られているかを知ることも出来る。どう見られてもかまわない、どうせ自分の偉さは誰にもわかるはずがないと、内心自惚れるのもいいが、そういう心持では生きにくい。だが、生きにくくても、自分を押し通すことしか出来ない人もある。つまらない人物と話すことで時間を無駄にするより、その方がはるかによいと考えるのも生き方で、たいていの人はそのように思って、結局馬の合う人となるべく話をしたいと思うようになって行く。それが無理ならば自分ひとりで好きなように時間を過ごすが、そのひとつの例がこのブログだ。
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 なぜこんな話になったかと思えば、今日の写真は昨日載せた披雲閣の部屋から眺めた庭で、今日はその庭から披雲閣を眺めた写真を載せるからだ。意識してそういう写真を撮ったのではない。写真をブログ用に加工した際、内から外、外から内部を見た写真があることに気づいた。そしてその双方があることで、披雲閣の様子がなおよくわかる。これは、自分を客観視することの必要性につながる話ではないか。だが、自分を客観視するとはどういうことか。幽霊にならなければ本当はそれは無理だろう。あるいは誰かにどう見ているのかと訊ねるかだ。とはいえ、そんな質問を受けると誰でもいぶかしげな顔をする。関心のない他者はどうでもいいからだ。多少関心があっても、本人を目の前に悪口は言えないから、適当にいいことだけを並べ立てる。つまり、自己の客観視はなかなか難しい。そして、客観視する必要などないと思ってしまう。誰しも自分の世界があり、それが接している他者の世界との間に関心を持つし、つまり接点のない人とは話が合いにくいし、そのために会おうともしない。その接点は趣味のような関心事が前面に出ているが、趣味が合っても馬が合わない人はいくらでもいるから、接点は定義しにくい。だが、結局は馬が合うかどうかが一番大事で、それは人間としての嗅覚、本能に属するもので、理屈では割り切れない。では、こうして屁理屈ばかり連ねている筆者は、本能が衰え、自己も他者も見えにくくなっているかと自問するが、そう考えるとそうとも思え、無駄な文字を書く時間を無駄と自覚した方が健康にもよい。それで、どうでもいいことで2段落も費やしたので本題に入るが、4枚目の写真からわかるように、披雲閣は2階建てだ。それは知っていたが、メディアアート展を見て回った際に2階に上がる階段には気づかず、2階を意識しなかった。ただし、入場券は2階で演奏されるライヴも見るためのものも売っていて、2階があることは前もって知っていた。その2階を庭から眺めると、確かに演奏が出来そうな大きな部屋がある。これは、内側にいて気づかなかったことが外から眺めてわかることであって、やはり客観視の重要性がわかる。現代は便利は機器があって、自分の行動を誰かにこっそりと撮影してもらい、その映像を後で見れば、それがひとつの客観視になる。
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 さて、今日の1,2枚目は、披雲閣の玄関に向かって右手で、1枚目は松の盆栽がたくさん並べられているところが面白い。玉藻公園内は松の木が多いが、寿命があるから、どこかで苗木を育てる必要はある。盆栽はいつまでも盆栽として育てられるはずで、苗木にはなりにくいと思うが、1枚目のようなたくさんの盆栽を並べるのは高松が松の盆栽の名産地であるからだろう。写真左端にそれを謳う看板がある。盆栽は国際的にブームで、それを思って高松市はなおのこと、外国人観光客を呼び込みたいのかもしれない。TVでよく放送される盆栽の産地は埼玉県の大宮にあって、これは江戸に近く、大名のための植木職人が多かったためだ。披雲閣は庶民は見ることが出来なかったかと昨日書いたが、植木職人は別で、彼らの話によって、大名屋敷の内分がどのようであるから、おおよそ庶民は知っていたであろう。だが、話に聞くのと実際に見るのとでは大違いだ。わが家には去年の秋にたまたま持って帰ってもよいと表示された盆栽数鉢のうち、松をひとつもらって帰ったのがあって、たまに水やりをしながら、枯れずに青々とした葉がたくさん出ている。たまには盆栽の育て方をネットで調べて、水やりに注意する必要がある。2枚目の写真は1枚目の盆栽棚の左端よりさらに左手の奥で、白梅が咲き始めているのが目についた。背後の建物はお土産店か案内所で、披雲閣に連なった木造がよいが、中には入らなかった。買うべきお土産は商店街で見つけようと思ったからでもある。玉藻公園と披雲閣の配置図をもらって来たが、今日は面倒なので取り出さない。とにかくとても広い園内で、同じところを二度回った。披雲閣の庭もそうで、3,4枚目の写真を撮った後、10分後にまた同じ位置に出て来た。筆者の出鱈目な方向感覚は家内がよく知るところで、それが早くも発揮された。それはそうと、披雲閣の部屋から庭が丸見えであることは、そのぐるぐる回る筆者らの姿がメディアアート展を見て回っている人に見えていたことになるが、その様子を想像の中で客観視すると、とても滑稽で、その姿が筆者の真実であることを思う。自惚れるのではなく、かなり割引して考えていい加減で、そういう態度であればまだ本能的に好かれるのではないか。明日は続きを書く。
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by uuuzen | 2016-02-12 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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