●柴又帝釈天
ただしい思いで訪れた柴又帝釈天で、観光バスを利用していないだけでそれと似た団体のパック・ツアーと似たようなものであった。昨日書き忘れたことがある。



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京成電鉄は柴又駅までの途中、高架が続き、北西の景色を眺めていると、青空の遠い彼方にピンク色に染まった富士山状の山の頂が見えた。東京から天気のいい日には富士山が見えるとのことで、ひょっとすればそれは富士山かと思ったが、方向が違うのではないか。日暮里の北東から北西方向にどのような高い山があるのか知らないが、山脈ではなく、富士山のようにぽつんと形のいい峰がひとつだけ聳えていた。地図で調べると、その方面には山はあるが、富士山のような形の山かどうかはわからない。電車の窓からしばらく見え続けたあの山は、雲であったかもしれないと今は思っている。話を戻す。今日の最初の写真からもわかるように、帝釈天参道にはその文字とともに菱形の紋が目立つように配されている。五枡紋かと思うと、そうではなく中華料理のラーメン鉢などによく見られる雷紋だ。庚申で猿の石像はわかるとして、この雷紋を帝釈天が使うことにどういう由来があるのだろう。帝釈天参道のどこであったか忘れたが、法華経の題目を彫った石碑があったように記憶する。それで帝釈天は日蓮宗かと思ったが、そのとおりだ。ネットによれば17世紀前半の開基だ。日蓮が彫ったとされる帝釈天の本尊が江戸中期に行方不明になり、それが見つかったのが庚申の日であったので、それでその日を祝うことになった。今日の最初の写真からわかるように、参道は途中で車道に遮られる。これが艶消しだ。江戸時代はそんなことはなかったはずだが、道路を整備する際に迂回させられなかったのだろうか。参道の突き当りに大きな門が見える。道幅が狭い割りに店の庇が参道に突き出し、写真を撮るのに遮られる。2枚目の写真はその様子を示すが、この門を見て思い出したのが嵯峨の清涼寺だ。雰囲気がよく似ている。清凉寺門前はもっと鄙びているが、それだけに嵯峨らしくてよい。柴又は寅さんのイメージが強く、もっと庶民的だ。そのことが2枚目の写真の門前の道幅の狭さと庇の出っ張りに表われている。
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 この門は二天門と言い、明治半ばのものだ。本堂や庫裏の建て換えも明治半ばで、それまでにそうとう疲弊していたのはなぜか。庚申信仰が廃れていたのか、あるいは地域が貧しく、この寺を立派にするだけの檀家などがなかったためか。あるいは廃仏希釈が関係するのか、この寺のホームページにはそのことが書かれていない。だが、観光で訪れる人はそういった歴史の長さにはあまり関心がないだろう。二天門が500年前のものと言われればそう信じるし、またそういう重みをこういった建築物は持っている。それが強みでもあり、鉄筋コンクリートや石造りであれば、途端に時代がわかってしまう。京都では明治半ばの建築と言えばまだまだ新しいと感じるが、そこが東京と違う点で、日本の古い歴史を味わいたい人は東京では物足りない。さて、帝釈天ではそれなりに写真を撮ったのに、今日載せる分しか写っていなかった。二天門を入った真正面奥に帝釈堂があり、それに向かって右隣りに本堂がある。柴又駅前の広場から参道の商店街に入る角辺りの店で、眼鏡をかけた40代の女性が、「帝釈天にお詣りするならば靴を脱いで本堂の奥まで見てください」と言いながら、小さなチラシをくれた。庚申の縁日の日付を書いたもので、今年は初庚申が2月8日、その後4月8日、6月7日、8月6日、10月5日、12月4日と続く。3枚目の写真は、その店員の言葉どおり、靴を脱いで本堂の階段を上がり、そこから二天門を見て撮った。もう2,3枚別角度で撮ったのに、この1枚は樹木で門は見えず、つまらない写真になっている。帝釈堂と本堂は渡り廊下でつながっていたように思う。店員は帝釈天の見物は精緻な木彫りであることを伝えたかったのだろう。4枚目の写真の渡り廊下の欄間にそれが見える。これは無料で見られるサービスで、序的なものだ。もっと立派な彫刻がそのすぐ奥の有料区域内にある。そこには庭もあるが、家内は京都で寺やその庭に慣れているので、緋毛氈が敷かれた廊下の奥には行かなくてよいと言った。それに11時前で筆者らはそろそろ空腹を覚え、しかも次に浅草に出ようと思っていたので、彫刻と庭は省略することにした。また、その庭のすぐ奥の江戸川の堤に出てみようと思っていたので、4枚目の写真を撮った後は本堂前に戻った。家内とは二度と訪れない場所かもしれないのに、目の前にあった有名な彫刻や庭を見ずに終わったことは、観光バスを利用するパック・ツアーよりひどいことになる。だが、限られた時間内に予定したものをなるべく多く見るには仕方がない。筆者のその予定には、知識不足から帝釈天に見物の彫刻や庭を見ることは含まれていなかった。
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 二天門から境内の外に出ずとも、帝釈堂のすぐ際に「矢切りの渡し」の小さな立て看板が見えた。その矢印方向つまり東に進むと、庭があるが、当然塀で遮られて見えない。そして駐車場の横を通って境内の北辺の道に出る。そのまま同じ方向に行くと堤防が見える。そのことは明日書くとして、帝釈天付近を歩いて思ったことは、寅さんの映画から伝わる庶民性とは少し違うことだ。筆者らが歩いた区域は狭いが、寅さんが住んでいたとされる家は帝釈天参道の団子屋で、いわば『男はつらいよ』に登場する町を実際に見たことになる。そうそう、参道の商店街に、『男はつらいよ』の第1,2作目まで撮影に使われたことを宣伝する団子屋があった。映画の人気が出て、セットを使うようになったが、最初は実在の店で、それが今でも商売を続けていることは楽しい。参道にはシャッターを閉めた店はなかったように思う。それほどにまだまだ人が多く集まる。筆者はどこかの店で草団子でも食べようかと家内に言ったが、それほどおいしいものではないとの返事で、では家内の好きなおかきでも買おうかと言えば、東京のおかきはおいしくないとにべもない。話を戻して、帝釈天を中心にその四方一帯を道に迷ったこともあって歩き回ったが、映画に出て来る小さな印刷屋はなさそうであったし、大阪で言う下町よりかなり洗練されていた。そういう地域から寅さんのような香具師でフーテンと呼ばれる人物が出て来るだろうかと疑問に思った。もちろん映画であるので作り話であるし、また時代が違ってしまっている。昭和の40年代ならまだこの地域はもっと庶民的であったかもしれない。おそらくそうだろう。どの街でもここ20年ほどの間に昭和のレトロ感が急速に消えた。10年ほど前だが、長浜に行った。その数年前にも訪れ、その時にはたくさん目についた味のある昭和時代のたたずまいの店が、どれも洒落た、それでいて薄っぺらい建物に変わっていることに驚かされた。筆者が長浜を再訪したのは、記憶に強烈であった古い店を見たいためでもあったし、今でもその印象は鮮やかだが、それがもうない。それどころか、10年前にはあったまだ多少古い店も今はもうないだろう。そのことから推しても柴又が年々変化して当然だ。またそうあるべきとも言える。古いものは新しくなる。新しくすべきでもある。寅さんの映画は今後も古典として見続けられると思うが、古典だけで柴又は食べて行くことは出来ない。寅さんブームが去った後は観光者にとって別の魅力が必要だ。そのことは、寅さんという有名なイメージがあってもなお街の活性を持続させることが難しい日本の実情を示している。
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by uuuzen | 2016-01-17 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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