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●第4章その3 フランク・ザッパの死以後①
久しぶりにこのカテゴリーに投稿する。このカテゴリーも残すところ今回を含めて3回となった。ちょうど年内には全部と思っているが、まだ1か月あるので、後2回では足りず、次に用意しているカテゴリーも始ることになるだろう。



●「フランク・ザッパの死以後」
才悶は93年秋にポール・マッカットニーの来日公演で、通訳として同行して東京までやって来た。その時に電話をくれて、才悶は同年は夏までに2度ザッパに会いに行き、かなり弱ってはいるものの、まだ当分大丈夫だと思うと話をしてくれた。しかしやがて同年12月、ザッパの死亡のニュースがやがて伝わる。MSIのO氏が電話で知らしてくれた。いつかはと覚悟していたが、やはり本当にその記事を新聞でまのあたりにすると辛い。しかもザッパの写真はあまりいい表情ではなく、病気でかなりやつれたような顔をしたものがたいていの新聞では使用された。扱いも大きいとは決して言えなかった。死亡後、いくつかの音楽雑誌が特集をした。その余波で依頼を受け、数枚程度の原稿を書いたりした。それと前後して、O氏の紹介があって、あちこちの音楽雑誌にいくつかの文章を書いた。それらはすべて、短い文章であっても書き初めは「フ」の文字を使用するように気を配った。内容もみな違うので、本書に一括して収録するのも一案だと当初は考えたが、煩雑になるし、収録の紙面がない。それらのほとんどすべてを割愛するが、94年3月号の『レコード・コレクターズ』ザッパ特集号に書いたものは、ザッパと会った時の印象をまとめたものであり、『キ印の饗宴』の付録とした『ザ・イエロー・シャーク』公演の記事と合成し、内容を大幅に改めて第15章とした。
 ザッパが死んで、世の中がまるで失楽園のように寂しくなったか。これからますます法外な活動をしてくれるはずであったとを思うと残念でならない。いつか本当の大作をと思いつつ、結局はその時々の作品が作者の経歴となって後に残り、やがてその中から代表作が確定する。自分ではまだまだ代表作をものにしていないと思いつつも、その格闘の連続の中で作ったある作品に自ずと代表作としての貫祿が備わる。たいていのところ、代表作、大作は構えていざ作ろうと思って、ものにできるものではない。日々を真剣に挑み続ける限りは、それらが必ず得られる。そうでないと、生き続ける毎日の意味が乏しくなる。ザッパは充分な仕事をした。それはデビューから死の時まで、いつでもずっとそうであったといってよい。そう考えるとザッパが成した作品で充足すべきで、それを繰り返し吟味し直すことで、寂しさも薄らぐように思える。それに、ザッパの死亡が伝えられても、それを実際に確認していないので実感がないというのが本当のところだ。音楽作品を聴くということでつながっていたファンにしてみれば、あいかわらずLPやCDは手元にあるし、編集ものが中心とはいえ、今もザッパの作品は一定の月日を置いて発売され続けている。死亡を長い休憩だと思えばよい。音楽を聴けばまたかつてそれをよく味わった頃の思い出が心をよぎる。以前はそう思わなかったのに、今聴けば妙に悲しい場合があったりする。それは自分の青春が遠く過ぎ去ったことへの惜別の情からか、あるいはようやくザッパがいわんとしていた本当のことがわかる年齢に達したからなのか。おそらくそのどちらでもあるのだろう。自分の年齢とともに作品も歳を重ねる。
 MSIはザッパCDの日本発売権のほとんどすべてを最初に手がけて来たが、ザッパ没後の販売権利獲得競争に巻き込まれて、94年秋にはライコディスク・レーベルの発売権を失う。10月からはビデオアーツ・ミュージックがそれらを新しく発売し直すこととなった。この時点ではMSIはザッパのバーキング・パンプキン盤に関してはまだ権利を有していて、それは95年春まで続いた。それがさらにビデオアーツに移行するのは同年6月からのことだった。つまりこの時になってビデオアーツはザッパのほとんど全てのオフィシャル盤の発売を新たに承認盤に使用し直して開始した。さまざまなザッパ・グッズを用意して、ザッパのCD販売促進に役立てられたが、これらはザッパの肖像権の問題が発生しないように、かなりの制限を受けたものにならざるを得なかった。『「序」の息子の帰還』の初めに書いたザッパ・フロシキというのは、この時の景品だ。どういうものか見たいのは山々でも、同じCDをまた購入するほどのマニアでもないので、これらの景品に関しては実際に見ていないものが多い。当然MSIはライコディスクとは関係ないザッパものを手がけることはできるので、94年以降単発的にそういう類のものを多少発売し、現在に至っている。ザッパの通信販売会社からは、現在通常の店頭販売ルートとは無関係に、ザッパのアルバムは2点流通している。それらはライコディスク、ビデオアーツからは発売されておらず、いわばマニア向けの作品として位置づけられている。だがザッパが生きていたとしても、自分のアルバムの流通問題に同様の転換をもたらせた可能性はある。今後、このザッパ・ファミリーによる通信販売の動きがどのように発展するのかは注目すべき問題となっている。
 話は戻るが、フランクフルトにおける3日目の『ザ・イエロー・シャーク』公演の後、才悶と息子とともに、市内のライヴ・ハウスに行った。目的はザッパのカヴァー・バンドであるマフィン・メンの出演を観るためであった。その会場入口を入ってすぐのクローク・カウンターで、珍しくも東洋人親子が来たからだろう、主催関係者のひとりである人なつっこいドイツ人のザッパ・マニアから声をかけられた。住所を教えろというので、名刺を交換し合った。名前はマルティン・テーゲバウエルという。マルティンは漢字では「丸珍」が適当か。だがこれではマルティーニ神父の忠実な下働きの坊主みたいだ。マルティンによると、中国語では「馬丁」の字を当てるとのことだが、そりゃあんまりだと手紙に書いてやったことがある。帰国後、マルティンからはまるっきり連絡があると思わなかったのに、珍しいことに予想を覆して1カ月足らずで手紙が来た。ザッパの珍しいレコードなどをトレードしないかといった内容で、さっそく探しものがあるというような相談だった。ところが、ザッパのものなら何でもかんでも集めまくるというほどのキ印ではない。海賊盤、サンプル盤1枚が数千円以上もするというのは全く馬鹿げた話で、そういうものすべてを集めようとするのは果てしない拷問だ。どうしても入手できないものに日夜悩むという図を想像しただけで、喉が乾き、ミイラになった気分になる。マルティンは極端なマニアで、『ホット・ラッツ』だけでも20種類近く所有しているという。私的なものにせよ、いつかファンの誰かがザッパ博物館を作るには、珍しいものはなるべく分散させず、徹底的にコレクションしたい人がすればいいと思う。マルティンとは現在までずっと文通が続いていて、疑問に答えてもらったり、珍しい海賊盤や雑誌等、貴重な資料の提供を受けたりしている。もちろん日本でしか入手できないものもあり、こっちから送るものも少なくない。94年の初春のある日、そのマルティンから、ザッパが91年6月にプラハのステージに登場した様子を収録したCDが届いた。これをさっそくMSIに伝えて、後はMSIがプラハのレコード会社と連絡を取り合ってCDを一括輸入し、解説書をつけて日本盤として発売する段取りがついた。残念ながらそのために書いたかなりの量の解説は本書に含める紙面の余裕がない。

by uuuzen | 2005-11-28 23:58 | ○『大ザッパ論』サプリメント
●大阪日本民芸館-『タパの美』 >> << ●庭の露店風呂とたくさん並ぶ縦...

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