●飛び出しボーヤ、その29
ぶと聞くと勉強の嫌な人は拒否反応を起こす。学校を卒業してもはや学ぶ必要がなくなったことに人生最大の解放感を覚える人もある。



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だが、そんな人でもたとえば車の免許を取るのにそれなりに必要なことは学ばねばならないから、人間は一生学ぶと言える。筆者が20になるかならない頃に、上の妹が印象的なことを言った。高校の友人の父親が毎晩机に向かって本を読んでいるというのだ。友人はそのことを不思議でしかも尊敬すると筆者の妹に言ったのだ。つまり、高校生にとって、机で勉強することは苦行であり、大人になればそれから解放されて薔薇色の人生に変わるということだ。今でも同じことを思っている青少年は多いだろう。というよりほとんどすべてではないか。結局筆者の妹は本など全く読まない大人になったが、そこには机に向かって勉強する人物に対する嫌悪がある。妹から先の話を聞いた時、筆者は返事しなかった。あたりまえと思ったからだ。筆者は大人になれば毎晩好きなだけ好きな本が読めると思った。それで本に囲まれて今は生活していて、トイレから階段、どの部屋にも本がある。それはさておき、学校が存在するのはなぜか。親はそこで何を学ばせたいのか。江戸時代なら読み書き算盤が出来れば充分で、丁稚奉公で大人の社会の掟を少しずつ学んだ。筆者が小学生の頃とは違って、今では学校はただ知識を教え込む場になったようだ。先生は尊敬されるべき存在ではなくなっている。そこが筆者の小学生時代とは大きな違いだ。知識を覚えるだけなら学校へ行く必要はなく、効率よく学べる熟で充分だ。ロボットのように毎日どうでもいい知識の断片を記憶させられ、本人もそれでいっぱしの賢い人になって行く気がする。クイズ選手権に出て上位者になるような知識と言ってよく、役に立つことと言えばその程度だ。そのために貴重な数年や何百万円もの金を学校に払うのであるから日本の教育は馬鹿を大量生産していると言ってよい。しかもそういう馬鹿が一流企業の社員や政治家になるから、国が馬鹿になり、義務教育もまやかしになってあたりまえだ。どこで何が狂って来たかと言えば、筆者の記憶では戦後の教育方針にあるだろう。
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 中学の先生に、アメリカでは先生と生徒は対等で、日本のように敬語などなく、お互い友人のように話し合うと言った人がある。その先生はそれを理想としていたのだろうか。そのように生徒に教えると、生徒は本当に友人に接するように先生に対する言葉使いも変える。対等であるから、喧嘩や反抗しても平気で、まるで尊敬や敬愛はない。それは同世代の友人よりもむしろ激しい。自分の父親世代の先生が対等と言うであるから、同世代の友人より先生は歳を食っている分、馬鹿と自称しているのと同じであるからだ。先生がそのようなことを考えずに発言したのだとすれば、本当に先生は馬鹿であった。戦後にそのような先生が増え、今ではおそらく大半以上がそうだろう。それで父兄はこれでは駄目だと感じ、せっせと塾に通わせて効率よく点取り虫になるように仕込む。そして子どもは尊敬や敬愛ということをほとんど何も感じないまま大人になる。だが、誰でも自尊心はあるから、不遜きわまりない人物になる。自分を大切にするのであれば他者に対してでもだ。義務教育でそういったことを教えているのかどうか知らないが、一方で他人をだし抜くために勉強し、帰宅後は塾にも通うという生活であるから、大事なのは自分だけとどのような子どもでも教え込まれる。学校の先生など不要で、ロボットに教えさせればいいではないかとの意見が出て来て、いずれそうなるだろう。そしてそうなれば義務教育はなくなるか、家庭で自己責任で行なうべしとされる。そうなると先生たちは困るが、では先生が必要な役割は何であるかを誰に対しても説得出来る必要がある。義務学校でしか学べないこと。それは何か。仰げば尊しとされるほどの先生の人格というのがあるのか。またあったとして、それが教育の現場で居間は求められるのか。求められるとしても発揮することが可能か。規範とすべき、理想的な人格者がそれほど世の中にいるか。いたとして、そういう人格者を尊敬すべきとどのようにして小さな子どもに教えられるのか。また、親たちはその人物を信じるか。それどころか、道徳的なことを教える時間があれば、もっと成績に直結することに時間を割いてくれと言われるだろう。
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 柳沢淇園の本を先日ぱらぱらと拾い読みしていると、文字の読めない人を役立たずと書いてあった。江戸時代の識字率は高かったが、淇園が言うのはただ字が読めるだけでは駄目で、詩文が書けないにしてもそれが理解出来る人物でなければ駄目ということで、これは現代でも通用するが、義務教育に照らすと大半の子どもたちは結局役に立たない大人になる。それでも世界は回って来たし、今後も回って行くので、淇園が言いたかったのは、自分と同じような能力を持つ者でなければ話し相手にならず、退屈であるということであったのだろう。文人とはそういうものだ。話を戻して、義務教育は読み書き算盤以外に尊敬を教える場だと筆者は思っているが、筆者以降の世代では後者が欠落して来ているように思う。それは先生が誰を尊敬すべき人物かと教えにくくなっているからではないか。ひとりの人間を殺すと殺人者だが、大量に殺せば英雄とされる矛盾を今の子どもはよく知っているだろう。ではどんな人物が尊敬に値するのか。これは難しい。戦前なら神としての天皇でよかったが、戦後は何しろ先生と生徒が対等なアメリカ文化を信奉し始めたから、では尊敬すべき人物はアメリカ人かということになるし、そのように思っている子どもは多いだろう。そしてその親も同じように考え、小学生か幼稚園から英語塾に通わせるが、まあ、ろくでもない人間になる。淇園の言葉で言えば役立たずだ。それがわからない親に育てられるのであるから、子どもがその親以上になるはずがない。日本語もまともに理解出来ず、英語も中途半端な人間にどのような価値があるのか。それでも親は教育を信じていることには変わりがなく、また義務教育は義務であると知っていて、子どもを通わせる。そして子どもを交通事故から守るために飛び出しボーヤの看板を作って街角に設置する。さて、今日の4枚の写真だが、最初は今年の夏に上桂で見かけた新品の0号で、滋賀から購入したのだろう。このタイプは上桂ではきわめて珍しいが、上野橋をわたった梅津ではよく見かけるので、その影響を受けたか。2枚目は昨日の4枚と同じタイプで、上桂の小学校の片隅に置かれている。3年前に同じ場所で10個ほど置かれているのを見かけた。それがほとんど街角に出動し、残るは1個ということだ。3枚目も上桂で、10年以上は経っているかもしれない。4枚目は梅津で、痛々しい。だが、このように破損したものはそれなりに運転手には効果があるのではないか。もっとドキリとさせるものがあっていいかもしれない。
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by uuuzen | 2015-11-16 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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