●緑の絨毯とタペストリー、その29
毛という言葉はマイナスのイメージがある。髪の毛がまずそうだ。先日筆者は母から会った瞬間に前髪が少なくなったなと言われた。



d0053294_0314563.jpgチャンスの神様は前髪だけしかないとされるが、その前髪が少なって来た筆者にはもうチャンスはないということか。60を越えると男の髪に目がよく行く。京都専門のミュージシャン上がりのTVタレントは筆者と同じ年齢かひとつ上だと思うが、前髪どころか髪全体が多く、しかも真っ黒だ。数年前はそのことが気にならなかったが、今は違う。その顔を見るたびに家内に「あれは鬘や」と言う。第一、前髪の分け目が見えず、かなり不自然だ。だが、そのように若作りしているタレントは多い。だが70、80になっても20や30と同じような豊かで真っ黒な髪がある方が不自然ではないか。60を超えて何を悪あがきしているのかと、見苦しくもある。先のTVタレントで言えば、まるでアホ面ではないか。いつもへらへら笑って、若者の仲間と思っているのだろう。はははは、ひとつ思い出した。今日筆者は近所を歩いていると、最近風風の湯でよく見かける近所の70代半ばの体格のいい老人と出会った。その人は隣りの自治会に住むので、親しく話をしたことがないが、一度だけ30年ほど前にその経験がある。その頃、その帆とはまだ髪は黒々として、バイクに乗ってどこかに勤務していた。釣りが好きな人で、玄関前には小さな水槽があって、釣って来た魚を一時泳がせていることもあった。表札で名字はわかるが、顔見知りとは言えない。それが最近風風の湯で顔を合わせ、会釈程度を交わすようになった。今日はその人は同世代の男性と道端で話をしていた。もうひとりは知らない人だ。筆者の姿を見た途端、向こう挨拶をして来た。こちらもそれを返すと、その人は隣りにいた男性に、「この人とは風呂でよう会うんや。いつもきれいな顔してな」と言った。その言葉にどう返したものか面食らったが、「毎週金曜日に行かれるんですか」と訊くと、「うんそうや。けどな回数券を買うてるからな。それに地元のよしみでサービスも多いしな。あそこは」と言葉が返って来た。帰宅してその話を家内にし、ふたりで笑い合った。筆者より一回りよりもう少し上の人だが、背が高く、また背は曲がっていないし、髪は多い方で真っ白だ。筆者はいつもそれに見惚れる。そしてその人は筆者の顔をきれいだと思っているとすれば、それはまだ若いということだろうが、男からきれいと言われると変な感じだ。それに64のおっさんをつかまえてお世辞でもそれはないだろう。つまり、その人からすれば筆者は女々しく見えるということなのかもしれない。
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 不毛は嫌な言葉で、筆者もその人のように髪が豊かなまま真っ白になりたいが、これは遺伝によるのでどうしようもない。家内も最近筆者の前髪の少なさをよく囃したてるが、帽子の被り過ぎかもしれないなどと言う。それはないと思うが、前髪以外はぼさぼさと多いし、また黒い。前髪だけ少なくて白いのは、脳が活発に動く部分と関係があるだろうか。それはともかく、不毛の反対の写真を今日は久しぶりに載せる。この「緑の絨毯とタペストリー」のシリーズは最初は隣家のリフォームについて書いていた。今年中に少し隣家の3階を掃除し、またわが家の3階の本を多少移動しようと思っている。壁紙を貼ったり、新しい照明と取りつけたり、床を貼り替えるなど、リフォームの業者を本当はさっさと入れればよいが、それはいつでも出来るとの思いがあるし、また自分で出来るところはやりたいと考えている。そしてその思いのまま作業を中断しているが、近所の人たちはもったいないと思っているようだ。リフォームして誰かに貸すとガレージつきで月10万ほどになるし、借り手はいくらでもいるからだ。そうすればほとんど無収入の家計に役立つし、スーパーのポイント・カードがなかなか増えないなどとしみったれたことを言わずに済むのに、筆者も家内もきっと普通の人間ではないのだ。金が本当にほしいのであれば、積極的にそうなるように動くべきなのに、その考えがふたりにはほとんどない。隣家は本当は図書室兼作品の展示室にするのが夢だが、そのことを地元の親しい人に話すと、それでは儲からないどころか、損するだけと言われた。全くそのとおりで、儲けるつもりがない。ごく親しい人だけが訪れるような空間に出来れば最もよいが、それは夢に終わるだろう。掃除下手の筆者は、物で溢れ返った部屋や家は、そのまま捨て去って別のところに移住したい方だ。だが、そうしてもそこがまた物で溢れ返る。
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 郷土玩具を万単位の数で収集した人が、70代半ばを過ぎると、そのコレクションの行く末を考え始める。そういう例はごく普通のようだ。今はネット・オークションがあるが、70代半ばでそれにこつこつ出品して処分する人は少数派で、それで同好の士に声をかけて頒布する。筆者もそういう場所でかなり分けてもらったことがあるが、買って来た時のまま隣家に包んで置いてある。自分で探してほしいと思ったものではないので、愛着の度合いが少ないのだ。それで最近は筆者も本やその他買った物の処分をいつどのようにすべきかと考えることがよくあるが、そう思う一方で本やCDが毎日のように届く。これは中毒かなと思う。筆者が死んだ後、そういったものは1点10円ほどで業者に引き取られるだろうから、生きている間に売ってしまうべきだが、そのことを考えると、手元に残したいものはごくわずかな気がする。それは若い頃に買ったものだ。郷土玩具に話を戻すと、玩具はしょせん玩具で、美術品ではないので、安い。1点数百円程度が普通で、そういうものを万個単位で集めてもほとんどがらくたと呼ぶにふさわしい。金持ちなら一晩の小遣いで何百、何千と買ってしまえるものだ。そういうものを生涯費やして集めても虚しいだけと思うのは、収集家の思いを知らない人だろう。収集家は、とにかく数をたくさん集めたい人と、自分の気に入ったごくわずかなものを厳選するという人とに分かれるが、筆者は後者で、前者とは話が合わない。何から何まで無数同然に集めても、生きている間にどこかに寄贈するか、自分で展示場を作るかしないでは、宝の持ち腐れだ。だが、筆者もそうなりかけているので、生きている間に処分することをもうそろそろ考えなければならない。物に熱を上げるのも70までではないか。また、熱を上げたとして、その収集を何らかの形として届けておく方策を考えるべきだ。だが、せっかく集めた収集品は、豊かな髪の毛のようなもので、それが手元を離れると、丸禿げになったようでさびしいだろう。それで全部処分するのではなく、思い出が最も強いものを少しだけ手元に置けばよい。さて、今日の写真だが、最初は8月28日に家内と行った名古屋のフラリエで撮った。この庭園は以前筆者がひとりで訪れ、家内にも見せたかったが、名前が変わり、また無料になったので、気軽に入れるのがよい。2枚目は9月10日に訪れた倉敷の商店街の中で見かけた。3枚目は先日載せた倉敷の大原美術館の玄関前の壁だ。4枚目は9月22日、大阪城で見かけた。外濠に架かる天守閣へと至る門で、蔦が目に入った。蔦は冬場には枯れて不毛状態となるが、人生の冬が老齢とすれば髪が薄くなるのは自然なことで、悲しむことはない。
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by uuuzen | 2015-11-08 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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