花見は春だが、秋は菊が咲くので、花見に対しての紅葉狩りという言葉だけが思い起こされるのは短絡的かもしれない。
山中はいざ知らず、紅葉の季節にはまだ少し早く、近所を歩くと陽当たりのよい小さな庭先に大きな薔薇が咲いていたり、また菊を大事に育てている家もあったりして、秋も花でカラフルだ。さて今日も数日遅れで駅前マンションの建設現場の写真を載せるが、去年10月25日の撮影だ。現場に変化がないのに、なぜ集中して撮影したのか記憶にないが、そのことを自覚したため、次は11月下旬、そしてその次は翌年つまり今年4月まで撮影しなかった。その間に変化がなかったかと言えば、実はあった。発掘調査が行なわれた。結局たいしたものは出て来ず、すぐに埋め戻しされた。発掘中に何度か撮っておくべきであったのに、11月から4月まで長らく空き過ぎたこともあって、ほとんど忘れていた。ともかく、今日の投稿の次は来月下旬、その次はこの調子で行けば、つまりこれまでどおりに撮影から1年後を守るのであれば、来年4月ということになって、コノカテゴリーは当分休みとなる。現在建設中のマンションは来年春には完成し、入居も済んでいるだろう。マンションが建つと何が変わるかと言えば、それだけ人口が増えて賑やかになることと、なによりも建物のためにこれまでまともに見えていた嵐山や愛宕山が半分以上は見えなくなるだろう。それは場所によりけりだが、今日の4枚目で言えば、右手に見えている駅前ホテルと同じ高さの建物が写真の中央に建ち、背後の愛宕山の裾は見えなくなることがわかる。この写真は阪急嵐山駅前のバス停で、右下隅に車のミラーが見えているが、昔はガソリンスタンドがあった。それが儲からなくなり、コイン駐車場に変わった。
駅前ホテルと駅前マンションは筆者がこのブログのために勝手につけた表現だが、ふたつはほとんど同じデザインで、平行して建つ。そのため、ホテルの宿泊客は窓からの眺めを都心と同じように感じるだろう。つまり、無粋だ。マンション建設用地が更地になる前は料亭の庭を見下ろせた。その様子はたとえば
「その242」の最後の写真からわかる。この緑が多い眺めが、10メートルほど向こうにマンションの窓が見えるのであるから、嵐山のホテルという風情が感じられなくなる。それでもこのホテルは毎日満員だ。そして夕暮れになると、調理の臭いが駅前やわが家まで漂って来て洗濯物にそれが移ると家内はうるさい。狭い日本を実感する瞬間で、外国人観光客はその狭さを第一印象として持ち帰るだろう。京都人は特に狭いところにすし詰め状態になることを好むと言ってよく、またそのことでいろんな暗黙の決まりが生まれても来た。そしてそれを守らない、知らない人を陰で嘲るが、そのことはたとえば駅前に出来た温泉だ。先日地元の年配者と話していると、その人はその温泉の前の庭が雑草で荒れ放題であることに苦言を呈していた。それで気になる雑草を抜いているとのことで、筆者と同じだ。また、抜いても抜いても生えて来るのでもうやめたと言っていたが、その点も筆者と同じだ。そして筆者は温泉内部の話をした。その年配者は利用したことがないので興味深く聞いた。筆者が言ったことは、うたせ湯のシャワーが壊れたままになっているのにもう1年も放置されていることや、タイルのせっかくの白い目地が黴であちこち黒くなっていることなどで、中国人客のマナーの悪さまでは言わなかった。するとその年配者は納得した様子で、前庭を見れば内部もわかるという顔をした。経費節減のために勤務する人を最小にしているので、美観や環境面まで気が回らないのだ。それは古老からすれば最初からわかっていたことで、オーナーたちは儲けられる時に儲ければそれでよく、儲からなくなればさっさと撤退すると言っていた。嵐山という名前で金儲けしたいだけで、地元への愛情のかけらもない。そのとおりなのかもしれない。
それでその古老が言うのは、嵐山や嵯峨で商売するには、地元に住んでいる人でなければ駄目というものだ。東京辺りからやって来て商売する者は、金のことしか頭にないとえらく厳しい。それこそが京都人ならではの地元意識の悪い面と言えなくもないが、金がすべてを支配する原理の国では仕方がない。たとえば駅前マンションの建設現場も、以前は地元住民が細々と商売をしていた。それが高齢化と客に減少があって商売をやめた。となると少しでも土地を高く売って、移転先で老後をのんびりと暮らす。後のことはしったことではない。東京の資本が入って来て何をしようが、それは仕方がないとの思いで、またそのことを謗ることは誰にも出来ない。結局長い目で見れば、嵐山のいい場所はすべて金をよりたくさん持っている連中が手にし、儲けられる時に儲け、そのブームが去るとまるでばば抜きのようにして土地を誰かに売って次の儲け場所に移って行く。だがそうなれば嵐山の環境保護はどうなるか。そんな面倒なこと、つまり時間も金も取られることによそから来た商売人が協力するはずがない。そのことはせっかく桜の林を潰し、それに面している駅前温泉の前庭の荒れた状態を見てもわかる。自分の所有物でされ、そうであるのだから、嵐山に植樹する活動などに参加するはずがない。ということは、長い目で見れば嵐山が荒廃して行く。またすでにそうなりかけている。そうであっても観光客にはそのことはわからないし、わかってもすぐに忘れるから、何の問題も起こらない。