沼地のようになって水がなかなか引かない様子がTVに映った。水浸しになった家具や電化製品はみなゴミで、それだけならいいが、水に浸かったままになっていると、変な病気が発生しないとも限らない。
今日は2年前に嵐山が水被害に遭った。先日から書いているように、天龍寺の友雲庵という広間でシンポジウムがあって、午後3時から5時半までそれに参加して来た。前回も去年の今日であることを知った。つまりちょうど1年ぶりだが、もっと経っていると思って先日はそう書いた。1年ぶりということは、2年前の出来事を忘れないようにしようとの考えだろう。前回もそうであったが、シンポジウムに参加するにはFAXで予約する必要がある。Fさんによればわが自治会からはもうひとり参加者があるとのことであったが、筆者が会場に着いた時はほぼ満員状態で、最前列が空いているというので、その中央やや右寄りに座った。それで何度も振り返ることは憚られ、顔見知りがどれほど来ていたのかはわからなかった。2時間の予定が30分ほど越えたが、結論を言えば去年と同じ内容で、出席して損したような気分だ。そして、主催者が何を考えているのかわからない。はっきり言って頼りない。申込みのFAXには小さな質問欄があって、そこに何か書いてやろうかと思いながら、誰かが同じような質問をするだろうと思って空白にした。予め質問を把握するというのは、シンポジウムを長引かせないためだが、司会者が紹介した質問はふたつで、それとは別に京都新聞社から言われたこともつけ加えた。それは、今回の勉強会では話が進みませんねということで、筆者が言いたいことを新聞社が直接言ってくれた。最後に天龍寺の事務方の一番偉いさんが話をして締めくくったが、その中に「これからこの問題を若い人に継いで行ってほしい」とあって、筆者はびっくりした。毎年同じ勉強会をこれから何十年も続ける気なのだろうか。話がいつの間にはすっかり変質している。去年は、国交省が早急に渡月橋付近の道路の嵩上げやパラペットの設置などの工事を実施したがっていて、一時も早く地元の意見を取りまとめる必要があると聞いた。そして国交省が造った竣工具合のコンピュータ画像も配布されたが、その話がいつの間にか消えている。筆者はてっきり長くて1年以内に地元住民の意見をひとつにまとめて国交省に提示すると思っていた。国交省は地元のその声のとりまとめを待っていて、それを聴いた後にまた内部で調整して地元に意見を投げ返すという段取りであったはずだ。したがって、1年ぶりにシンポジウムが開催されたことはあまりに遅く、しかも去年と同じ内容を聞かされたとなると、国交省が突きつけている図面の差し迫った話はどうなったのかと思う。この調子ではまた来年の9月16日にシンポジウムがあって、また同じような識者を呼んで来て、同じ話を聞かされる。いったい、地元の商店街の人たちは何を考えているのだろうか。全くまとめる能力のない連中の集まりと言わざるを得ないではないか。確かにまだまだ去年の今日開催されたシンポジウムの内容を地元住民が知っているとは言い難い。だが、それは永遠に無理だ。参加者の半分以上が入れ替わったところで、100年続けても地元住民全員がこの問題を知ることはない。筆者の考えでは、去年のシンポジウムが終わった直後に、国交省が言っている工事がどういうものか、それに対して地元がどういう取り組みをすべきか、つまり現状の問題点をわかりやく書いた冊子でも作って自治会を初め、大量に地元に配布することだ。そういう情報戦略の能力が今は皆無だ。これでは仮に国交省の工事が始まった時、地元住民から苦情が出る。自分たちの知らない間に、知らない工事が進んでいるという非難を浴びるに決まっている。京都新聞社が司会者にぶつけた疑問はもっともで、いつまで同じ勉強会をするのか、そのことの説明も今日はなかった。
去年と同じということは、筆者がこれまでさんざんこの問題については書いて来たので、もう繰り返す気になれないが、今日の話をまとめると、嵐山らしい治水は景観を維持しながらどうすべきかが問題で、大きな堤防を造って100年や200年の豪雨に耐えても、300年に一度の雨では水は堤防を越えるから、その時は今回の関東の豪雨の被害と同じことが起こってしまうということだ。つまり、大きな堤防は金もかかるが、壊れた時の被害が甚大になるので、50年に一度の雨で水が堤防を溢れるようにした方がまだいいという考えだ。だがこれは学者の意見で、国交省はどんどん工事をしようとする。ゼネコンを設けさせると経済が活性化するという考えで、堤防はなるべく巨大なものにしたい。それには景観は二の次の問題にしなければならないが、それでは嵐山の景観で飯を食べている地元の商店主たちは困る。ところが、景観を守って堤防を大きくしたり、川底を無残なほどに掘り下げないのであれば、松尾橋付近で水が堤防を越えやすくなり、その地元の住宅が2,3階まで冠水してしまう。これは上流も下流も理想的な解決方法はないと言ってよい。それもあって嵐山嵯峨の商店主たちは勉強会が出来る程度で、それ以上の積極的な運動はしにくいのだろう。では、誰がこの問題の先頭に立って旗を振るかだが、筆者の見るところ、誰もが役不足で、勉強会をするだけで精いっぱいではあるまいか。そうなれば国交省の考えどおりに工事が始まるが、それは酷いもので、景観は完全に破壊される。それでも国交省は地元住民の命と財産を守るためと胸を張るし、また松尾当たりの、嵐山の景観に関してさして何も思っていない人たちは、とにかく洪水の被害が100年や200年に一度の割合になって喜ぶ。だが、それは安心が保証されることではなく、250年や300年に一回の雨によって、たぶん家は簡単に流され、命も落とす。そして国交省などの役人が言うことは、「想定外でした」で、それで罪は逃れられる。川沿いに暮らすことは、いつかは家が水浸しになることと思っておくべきだ。これは津波と同じで、海沿いに住むと漁民は何かと便利だが、いつかは家を津波で持って行かれる。うまく辻褄は合っているもので、これはスーパー堤防を造っても同じことだ。すっかり安心していると、ある日突然堤防が決壊し、家がおもちゃのように引っくり返る。このような話は、東大の教授に来てもらって話を拝聴するまでもなく、子どもでもわかる。勉強会はもう充分で、もっと具体的に住民がどうこの問題を知るか、またどう対話するかなど、まずは地元住民が誰しもこの問題に気づくことだ。そのための文書作りや配布を司会者が所属する保勝会が率先すべきと思うが、商売に忙しくてとてもそこまで手も頭も回らないのだろう。
天龍寺の事務総長が最後に少し言ったことの中に、渡月橋上流で山にトンネルを掘って、そこに水を流すと、豪雨時に中ノ島付近の水嵩が減るというのがあった。この考えも以前に書いたことがあるが、嵐山通船の社長はこの問題が起こった当初からその案を出している。ところが国交省はあまりに大規模な工事になって、とても現実的でないと頭から聞き入れようとしない。渡月橋付近は川幅がとても狭く、現状ではどうしても50年に一度の雨で橋は冠水する。そこで、川底をもっと掘り下げる案や、中ノ島を半分削り、その分渡月橋を数十メートル延長するといった案があるが、渡月橋付近を現状のままにするには、少し上流でバイパスを造ればよい。右岸側にシールド工法でトンネルを掘り、松尾橋下流当たりで桂川につなぐ。距離は2キロもない。それが数千億かかるとしても、日本を代表する嵐山であれば、税金を投入すべきだろう。嵐山が日本のどこにでもあるような無粋な水門を造ったり、橋を大きく造り変えたりしてしまえば、京都にやって来る観光客が激減する。そういう計算をすれば、一見無謀と思える案は最も現実的であることがわかるだろう。あるいはそのような金がないというのであれば、現状のままで50年に一度、2年前のような被害を蒙ればいいだけの話ではないか。地元商店主はみなそう思っているだろう。ところが法律という問題がある。この3,40年の間に、河川法が順次変わって来て、今は昔想定した雨量の倍以上を流せるような川の横断面積が求められている。そういう法律が出来たのは、それだけ日本が経済的に豊かになり、道路と同じように、河川も整備して、金を費やそうとう考えからだ。これはゼネコンなどの土木建設業者を食わせるためでもある。つまり、嵐山嵯峨の住民は今までどおりでいいと言っているのに、国の方がおせっかいで、今のままでは50年ごとに水浸しになり、また法律によって現状維持は認められませんよということだ。だが、先日の茨城の豪雨の被害を思えば、日本は近年気候が大きく変化して来て、ゲリラ的集中豪雨が増え、確率降水量が当てにならなくなって来ている。そのため、2年前の京都の豪雨は、来年またあるかもしれない。そのためにも渡月橋の下を流れる秒当たりの最大流量を2000や3000トンという数値で考えねばならないと、国交省側の意見が住民に認められやすくなって来ている。2年前の台風18号の時の倍ほどの秒当たりの水が渡月橋に流れて来ても地元が浸水しないためには、渡月橋付近一帯を大改造するしかないが、何度も書くように、それでは300年に一度の雨で地元は壊滅的な被害を受けることは間違いない。それなら50年に一度多少の被害を受ける方がまだいいではないか。あるいは法律の適用を厳密化するならば、嵐山にトンネルを掘ってバイパスを造るしかない。天龍寺もそう言っているのであれば、地元はその方針で運動を起こして行けばいいではないか。オスプレイを10機ほど買う金で実現出来るはずで、軍事に金を回すのもいいが、景観にもっと使うとなれば、外国人はさすが日本と賛美するだろう。それが税金の無駄遣いというのであれば、何も手を加えず、現状のままでいい。さて、今日の写真は去年の今日撮った。工事が始まっているが、これは建物を建てる前の最後のしっかりとした整地であった。