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●神社の造形―三輪神社、福光稲荷社
ではしたが、小雨が降ったばかりで全体が濡れていた。今日の2枚目の写真の福兔だ。まだ新しいもので、人を呼ぶために近年設置されたのだろう。



●神社の造形―三輪神社、福光稲荷社_d0053294_23262520.jpg

大須商店街でもらった地図で存在を知ったが、珍しい「三輪鳥居」があるというので、また商店街からすぐのところなので、立ち寄った。三輪神社と言えば奈良だが、昨日紹介した富士浅間神社とは違って今度は西に縁が深い名古屋を示してくれる。奈良の三輪神社は三輪山を御神体とするが、その鳥居が独特の形をしていることは知らなかった。いつか訪れたいと思いながら、もう10年、20年と経っている。同じように奈良で気になるのは談山神社で、これはシュマイサーが銅版画に描いているが、オレンジ色が目立つ配色で、秋の紅葉で有名なことを印象づける。友人Nは死ぬ数年前にこの神社を訪れたことを酒を飲みながら話してくれた。それがとても意外であったのは、神社と言えば生家の大阪の住吉大社か、恵比須神社くらいしか縁がなかったからだが、TVか何かで談山神社の紅葉の美しさを知り、それで車で出かけたのだろう。それにしてもNにはそういう趣味はなかったはずで、なぜ行く気になったのか理由を訊いておけばよかった。話を戻して、なぜ名古屋市内に三輪神社があるのかと思えば、そこは当然歴史をたどる必要があるが、ネットで簡単にわかる。先日書いた石神社の奥に小さな清浄寺がある。その南西100メートルのところに三輪神社がある。三輪神社を含むこの寺の一帯は、まず460年前に小林城が築かれた。20数年で廃城になった後、清浄寺が建立され、矢場地蔵尊として徳川家の祈祷所になった。小林城を築いたのは牧若狭守長清で、故郷の三輪明神すなわち大神神社の大物主大神を祀ったが、大物主大神は大国主神で、因幡の白兔を救ったとされるから、境内に御影石の福兔を置いたのだろう。ひょっとすればこの新しい像の以前に古いものがあったかもしれないが、せっかく新しく造ったのであれば、小さな土人形で兔を象って授与すればいいのではないか。商店街のすぐ近くにありながら、境内は静かで、またさほど大きくなく、お詣りする人は少ないように思う。最初の写真を撮ったのは、通りに面した三輪鳥居の全景を収めるために可能な限り後方に下がり、ほとんど向かい側のビルの壁に体をつけた。また写真の左端に車が少し写り込んでいることからわかるように、路上駐車する車が列をなしていた。写真左端の車は人が乗っていてエンジンを吹かし続けていて、その背後で写真を撮るのは多少怖かった。筆者の姿は見えにくいはずで、車を動かす時にバックすれば筆者は轢かれることになる。また、その車のために理想的な角度で撮影出来ず、写真が多少鳥居の中央から右寄りになっていることがわかる。どの街でもそうだろうが、車が路上駐車して平気で、それが神社の真正面であっても気にならないらしい。またそれほどにこの神社は人が訪れないのだろう。写真でわかるように、境内にはかなり大きな樹木があって、数百年の樹齢を重ねているだろう。最初の写真の鳥居の奥7、8メートルほどに、両脇に高さ1.2メートルほどの石柱が見える。そこに彫られているのは「徳川家」で、三輪神社ということで奈良に近いと思わせられるのに、一気に江戸すなわち東京に縁が深いことを知らされる。牧若狭守長清は信長の妹を娶ったが、徳川家の時代になると神社も変わる。それはさておき、2枚目の福兔は、この2本の石柱のうち、右手の奥7,8メートルほどにあって最初の写真に直方体の土台がほんの少しその柱の陰に見える。
●神社の造形―三輪神社、福光稲荷社_d0053294_23263941.jpg 2枚目の写真を撮るのに、背後の朱塗りの鳥居を写し込むことを考えた。この鳥居は最初の写真では右端奥にあるが、この神社は正面の鳥居をくぐって右奥へと開けていて、自然とこの稲荷の社に足が向く。福光稲荷社とあって、福光は福兔に関連してのことか。3枚目の写真もどのように撮影しようかとしばし考えたが、家内がしびれを切らして待っているので、さっさと決めねばならない。先日書いたように、筆者のデジカメの撮影可能な残り枚数はとても少なく、この三輪神社では今日の3枚しか撮らなかった。そのため、なるべく多くのものを捉えようと考えたが、3枚目のそういった点は、左端奥に見える白黒の的だ。これが何かわからないながら、面白いものがあるので、写真に収めることにした。もうひとつ重要と思ったのは7列の鳥居の奥にある朱塗りの燈籠と狐の像だ。そして最も手前の鳥居の扁額を収めることで、この1枚でこの社の雰囲気はよく捉えられたと思う。福兔、福光と、福に縁がある神社だが、奈良の三輪神社と比べると鳥居の背後はビルの山で、日本の神はどんな場所にでも住める自在性がある。ただし、神社の境内は掃き清めて清潔さを保つ必要がある。これはきれいにしている場所であればどこでも神が宿ることであって、わが身を振り返る。つまり、身の周りをきれいにしておかねば、神も福も逃げて行くということで、いくら多くの神社を訪れても御利益とは縁がない。とはいえ、筆者はつい最近、めったにない運のよさが巡って来ていることを実感している。ただし、それは実現するかどうかわからない。実現しなくても、想像だにしなかったことが相次いで2件もあって、それはここしばらくは多くの神社を訪れていることの御利益かと思うことにしている。神社好きな人は知らない土地い行けば神社を訪れると思うが、それが単なる趣味としても、そういう目的を持つことは思い出が増えてよい。たとえば筆者はこのたびの名古屋訪問では、以前なら美術館を訪れることのみを目的としたが、このブログの投稿のために神社の写真を撮ろうとしているから、今まで知っていた地域でも、歩いたことのない通りに入り込んで神社の前に立ち、また境内に踏み込む。その時に感じる気配はみな違うが、いかに繁華な街中にあっても境内は静かで、また樹木のために薄暗い雰囲気がある。そしていつも思うのは、地面や祠をきれいにする人たちがいるために荒れずに済んでいることだ。何事も当たり前にそこにあるようでも、その存在の背後には世話をする人たちがいる。荒れた神社があれば、それはその地域全体の雰囲気に通じているとみなされる。そのことで思い出すことは、先日書いた法輪寺にあった稲荷社だ。2,3年前に石の鳥居もついに撤去されたのでもう新たに社を造ることは無理だろう。わが自治会の料理屋を経営する老人は、費用を全額負担するので祠を新調し、また昔のように商人が伏見稲荷に行かずとも地元でお詣り出来るようにしたいと言ったが、最初の費用はさておき、今後誰がどのような形で世話して行くかとなれば、自治会長の一存では決められない問題だ。その老人に言わせれば、法輪寺の中腹に緑に囲まれて朱塗りの鳥居や祠が見えることはとてもきれいでよかったらしい。確かにそうだろう。だが、かつて法輪寺にあった稲荷社は嵯峨に大勢いる商売人がお詣りしたもので、今も彼らの子孫は経済的に潤っているから、商店街の主たちが中心になって進めるべき問題であろう。ところが、今の商店街の主人たちは、親や祖父世代のように信心深くはない。そのため、いつまでもあると思っていた社が、いつの間には世話する人がいなくなり、忘れ去られて朽ち果てる。それは地元の恥と思う古老もいれば、一方ではそのような社があっても気づかない者が大勢いる。それほどに神社は普段は気に留めないもので、気づけばそこにあったというのが誰しもの思いではないか。大きな神社は今後もなくならないとして、商売繁盛の稲荷の社は、商売人の栄枯盛衰で存在が左右される。それと世代間の断絶で、余暇が増えたのにかえって多忙になった現代の若い世代は、自分たちがお詣りする稲荷社でも気に留めない。小さな社が消えても、またいつか誰かが造ればよく、神はいつでもどこでも簡単に出現する。
●神社の造形―三輪神社、福光稲荷社_d0053294_23265421.jpg

by uuuzen | 2015-09-11 23:59 | ●神社の造形
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