趨勢を数字化して知ろうというのが国勢調査で、筆者は5年ぶりにまた調査を担当することになって、先日地元の小学校で説明会があって出席した。
2時間弱の説明会は、5年前に要領がわかっているのでさほど目新しい話は出なかったが、今回はネットでの回答が出来る仕組みとなって、まずはそのための資料を配布するので、5年前よりややこしくなった。ネットで回答した人はいいとして、そうではない人について後日役所から報せが届き、今度はその人たちのために5年前と同じような記入用紙を配布する。それだけでも筆者にはネット時代というのに、あるいはそうであるからか、却って作業が増えたように思う。その理由はほかにもある。調査を受け持った全戸一覧表があって、そこにネットで回答した人と用紙で回答した人を区別する記号を書き込む。ま、それだけならいいが、その一覧表は地図上に記した番号と一致させるのは当然として、世帯主の名前も記入しなければならない。これが面倒だ。5年前はそうではなかった。平面図に筆者が記した各戸の番号と配布する資料の番号さえ一致していればよく、名前までは必要がないだろう。名前を知るにはワン・ルーム・マンションでは大変だ。第一、どの部屋に人が住んでいるかどうかも確かめられないのであるから、顔もわからなければ当然名前を知る手立てがない。エントランスにさえ入ることが出来ないワン・ルーム・マンションがあり、そういう場合は玄関の外に設置してある、つまり雨ざらしになっている各戸のポストに書類を投げ込むしかないし、当然そのポストに名札は貼られていない。5年前はそれで往生したが、筆者が採った手段は、手書きの大きなポスターを作って玄関の扉に貼ったことだが、それは入居者は出入りするたびに嫌でも目につく。それでも協力的ではなく、3分の2の住民は結局顔も名前もわからないまま、回答をもらえなかった。それどころか、昨日はそのマンションのそのポストを見に行くと、ポストの蓋に「チラシを入れないでください」と貼紙をし、中には何も入れられないように蓋をしてある。そのような貼紙をしてあることは入居者がいる証拠だが、その人と話したり、顔を見たりする手立てがない。前にも書いたが、管理会社に電話すると、いくら国が言っていても協力する義務はないとのつれない返事だ。国勢調査は強制力がなく、嫌なら協力しなくてもいいのだろう。それに今年はどうも宣伝が行き届いていない。TVやネットで頻繁に宣伝をしない限り、みんな協力しないだろう。これも前に書いたと思うが、筆者は5年前にとあるワン・ルーム・マンションの入居者から回答を得るのに、1日10回も訪れた。ところが、その前の国勢調査で同じマンションを担当した人は、最初から全部無視したと言う。60戸ほどある建物で、その3分の2ほどが入居しているのに、最初から全部無視して調査票を届けなかったわけだ。筆者にすれば信じられないが、それはともかく筆者が担当した5年前は、その5年前の調査状況にしたがって配布書類を送って来たから、そのワン・ルーム・マンションの分がなかった。それで区役所に電話して再度送ってもらったが、筆者の感触で言えば、たとえば80世帯と報告すると、現実は100世帯ある。もちろん都会だけの話だが、日本の人口が1億2000万という結果が出たとすれば、現実は1億4000万と思っていい加減だ。それほどに国勢調査は出鱈目だ。筆者は真面目に調べるが、そうではない人もいる。それでも区役所はわからず、あるいはわかっても自分たちで調べることは絶対にしないから、その誤差が大きいままのデータが国に届けられる。5年先は筆者は自治会の役職に就いていないはずで、別の人が国勢調査員になるが、まともに調査してくれるかどうか、そんな心配はアホらしいので全くしていない。
話を戻して、ワン・ルーム・マンションの居住者の名前をどのようにして知るか。各戸を訪問し、事情を説明して聴き出すしかないが、5年前は中からTVの音が聞こえて来るというのに、何度ノックしても出て来ない場合の方が多かった。来客があるはずがないと思っているのだろうが、それだけワン・ルーム・マンションには孤独な人が多いということだろう。訪問しても駄目、ポスターやチラシを入れても梨のつぶてでは、どのようにして役所に届ける書類に世帯主を書き込めるというのだろう。こういう苦労を区役所がせず、地元住民に委ねるという国勢調査は、日本中でどこもうまく機能するだろうか。ドアの向こうにどういう人が住んでいるかわからないのに、1日に10回も訪問して住民と顔を合わせようとするのは、かなりのストレスで、若い女性が調査員であれば、問題が生じることもあるだろう。国の趨勢がどうであるかを数字化して確認しようというのはわかる。今年は25回目、すなわち100年目らしく、なおさら国勢調査を完遂しようと国は思っているのだろうが、国の勢いがどうであるかは、誰でもそれなりに感じていて、数値化するまでもないような気もする。今回はネット、スマホでの回答が可能となったので、若者はみなそれで回答してくれると国は予想しているのだろうが、スマホ中毒になっている若者が喜んで回答してくれると考えるのはあまりにおめでたい。筆者の予想では3人にひとりは無視を決め込む。そしてそういう人には今度は鉛筆で書き込む書類を届けるが、それも無視するどころか、まとわりつくなと鬱陶しがられるだろう。2年前であったか、京都市は自治会への加入率を高めるためのキャンペーンをした。それで効果があったかと言えば、結果の報告があったのかなかったのか、それすらわからない。そのキャンペーンはチラシを印刷して自治会から各戸に回覧させるもので、そのことを自治会のFさんはえらく批判的に話していた。Fさんは役人が嫌いで、その点は筆者と馬が合う。Fさんが言うには、自治会は完全に役所の無料の下請けで、いいように使われているということだが、確かにそういうところがある。自治会が役所から届けられるさまざまなチラシを回覧し、ポスターを掲示版に貼る。その数が年々多くなって来ていて、役所の印刷代はかなりの額であるはずだが、それは自治会の人たちが回覧したり、掲示板に貼ったりする手間を金に換算したものと比べるとわずかであろう。もちろん役所はそれをわかっているので、毎年自治会から3名の市政協力員の名前を届けさせ、毎月2回各戸配布する市民新聞の量に応じて金を支払ってくれる。それがわが自治会では3人合計で年6万円ほどではないだろうか。それを全額自治会の収入として寄付しているから、役所の無料の下請けという表現は当たっている。
話は変わる。先日書いたように16日に天龍寺に友雲庵で『嵐山らしい水害対策を考えるシンポジウム』が開かれる。わが自治会からはたぶん筆者のみで、連合会全域を合わせても数名の参加だろう。このブログのネタのため、またこれまで参加して来たつごう上、話を聞いて来る予定でいる。洪水の被害から限りなく遠い状態が好ましいのは言うまでもないが、自然相手に絶対的な安心はあり得ず、金との関係で妥協しなければならない。河川法の改正で、これまで以上に日本の一級河川を頑丈なものにするというのは、それだけ日本が金持ちになって来ていることゆえの発想だが、先日のオリンピックのエンブレムの問題からみんながうすうすわかったことは、税金を使ってやることではそれで経済的に潤う特定の人物たちがいるという事実で、河川を大規模に改修して空前の豪雨でも流域に被害がないという状態を謳うことは、表向きはその流域の住民の命や財産を守ることだが、一方では大きな得をする連中がいるのだろう。いや、絶対にいる。そういう裏の仕組みをみんなは気づいているから、大きな税金を投入してくれることはありがたいとしても、あまりにも大規模に環境を変えてしまうことはいかがなものかと思う。嵐山の風光明媚さで商売が成り立っている人たちは、その売り物となる自然を大改造してほしくない。そのように批判する人があるが、一生に一度だけ嵐山にやって来る人も同じ考えだろう。つまり、誰でも同じように思っているはずなのに、御用学者は『それでは洪水の時に命や財産を失いかねませんよ』と脅し文句を用意する。では、100パーセント安心な改修工事はあるのか。あるはずがない。それで100年や200年に一度の大雨で大丈夫なように造り変えましょうということだが、その根拠は曖昧だ。安保法制の問題もそうだが、政治家は一旦決めたことはどれほど猛反対に遭おうとも押し通そうとするようで、そういう現実を知っているか、あるいはお上主義にすっかり染まっている人は、デモをして反対の意志を示すことなど想像の埒外にある。嵐山らしい景観がどうあるべきか、それは誰しもわかっているので、問題はどこまで改造してもいいかの住民の意見をまとめることだ。とはいえ、それは簡単ではない。その簡単でないことを、今後どのようにシンポジウムを開いている人たちが嵯峨と嵐山の全住民に伝えて行くかが問題であるのに、いつまでも同じようなシンポジウムで、その先の考えが見えない。国交省がどのように景観を変えようとしているか、そしてどうすれば国も地元住民も納得行く形で設計図が描けるか。前者すらも大多数の住民は何も知らされていないも同然で、そういう状態でどのようにして後者まで実現させて行くのかとなると、わが自治会程度の小さな区域ならばまだいいが、嵯峨、嵐山全域となると誰がどのように音頭を取ってこの問題に携われるか。金も時間も労力も大量に要するのに、得られるものは反対意見がせいぜいだろう。役所にすれば法律が出来たので、それにしたがって粛々と動きますということで、安保法制の問題も一旦決まると、『そんなこと、聞いていなかったよ』と文句のひとつも言おうとしている間に、どんどん思いもしなかったところに運ばれて行く。今日の写真はちょうど1年前の今日、9月6日の撮影で、阪急は鉄道部門があまり儲からないと思っているのか、不動産の宣伝がよく目につく。駅前ホテルの次は駅前マンションの建設で、その次は駅舎をビルにするのではないかとFさんは思っている。それもこれも嵐山の眺めがいいからで、それが無様に造り変えられれば、嵐山には観光客はやって来ない。それは知ったことではなく、命と財産を失うよりかは安全な川でしょうと住民を説得し、裏で儲けようと企んでいる阪急よりもっと大きな力があるのだろう。その最たる者は、戦争を起こして儲けようとする連中で、どの国にもそういうのがいるが、日本もそういう趨勢にあるのではないか。