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●「TIME OF THE SEASON」
うは習うで、学習時代には模倣は欠かせない。その過程でオリジナルの技術や発想の仕組みを学び、解読出来る。だが、ネット時代になって画像でも文章でもコピーすることが子どもにでも出来るようになった。



それで、大学の教授でも他人の論文をそのまま自分のものとして提出したり、またオリンピックのこのたびのエンブレムのように、本人が無意識か多少は意識していたのかわからないが、自らはほとんど描かずに複写してしまったりする事例が出て来た。コンピュータは便利な道具だが、それに溺れ過ぎる危険を知っておかねばならない。筆者は他人のことに関心がないので、この文章にしても誰かの何かを剽窃することがないが、筆者のブログがほとんど誰からも関心を持たれないので、さして意味があることではない。今回のエンブレム騒動も、それが大学の教授という立場にある人物がしたことであるだけに、ネットでの反響が大きかった。つまり、筆者が同じことをしてこのブログにそのエンブレムを発表しても、ほとんど誰の目にも留まらず、留まっても失笑を買っておしまいだ。このことは、有名人や社会的に大きな肩書きを持った人物は、責任が重い立場にあることをよくよく自覚せねばならないことを意味している。それは当然だ。それだけの収入を得ているし、また偉そうな顔をすることが出来る。ところが、今回のエンブレムをデザインした教授は、経歴のどこかで世間を侮ったのだ。教授となって自惚れたか、収入が増えてそうなったに違いない。それはともかく、今回の出来事は、教授という人種がいかに安っぽいかを世間に知らしめて、溜飲を下げている人が大勢いるだろう。それは、真面目に仕事をしていてもほとんど光が当たらない人たちだ。本当はそういう人たちの中から優れた創造性が生まれると筆者は信じているが、グラフィック・デザインに限らず、美に関する業界では情実や縁故がものを言う社会で、実力など、どうにでも捏造される。それはともかく、日本は模倣から始めてそれを改良することに威力を発揮して来た国で、その歴史は1000年以上も前から続く。つまり日本はパクリ王国で、今回のエンブレム事件もそれが露出したに過ぎないと言える。日本で言う創造性とは、パクリを土台として、それをどう日本らしく改造するかどうかで判断される。それは紛れもない事実であるから、エンブレムをデザインした教授は学生に堂々とそのことを講義し、また実例も示していたのではないだろうか。「絶対にパクリはしていません」という発言は、ある意味では正しい。つまり、パクリをパクリと認識する考えが元からない。なぜなら、それは日本の長い歴史で培われた創造の大法則で、「パクって何が悪い」という本音が心の中にあるからだ。したがって、今回の騒ぎは、ネット住民による妬みが大きな原因になっていると言ってよいが、妬まれても仕方がない教授という肩書を持っているし、またそういう人が子どもレベルの模倣をして来たことは呆れられて当然だ。立派な肩書きを持っている人は、人の何倍も精進し、日々格闘すべきであるのに、残念ながら今の日本ではそういう人材はごくわずかではないだろうか。肩書きに胡坐をかく者ばかりでは、もう国の落日は見えている。かといって、今後も二、三流の俗人がどんどん教授になるはずで、日本のパクリ文化がそう簡単に消えるはずがない。
 さて、今年の夏は最初は酷暑であったのに、いつ頃からか、急に涼しくなって今では雨の日が多く、それが秋雨と言われる。それで今日取り上げる曲も最近また聴き直しているシューマンにしようかと思ったが、先日買った35枚組はまだ2,3枚しか聴いておらず、これから秋が深まるにつれて少しずつ消化して行くつもりでいる。それで今日は今月上旬に盛んに聴いていたゾンビーズの曲を取り上げる。彼らの大ヒット曲はどれも夏向きで、今日投稿しなければまた来年になってしまう。だが、CDかドーナツ盤を買おうと思いながら、そのままになっていて、YOUTUBEで彼らのいろんな曲を聴いている。今日取り上げる「二人のシーズン」のほか、「好きさ好きさ好きさ」、あるいはデビュー曲の「シーズ・ノット・ゼア」くらいしか筆者は知らないが、これら3曲のみでも歴史に残る。日本ではグループ・サウンズのオックスというバンドが「I LOVE YOU」をカヴァーして「好きさ好きさ好きさ」という邦題で大ヒットさせたが、ドラムを叩きながら歌う赤松愛の姿を記憶している人は今は還暦を越えているだろう。彼は急に芸能界から姿を消したが、死んだと思っていると、そうではなくて家業に勤しんでいるようだ。「I LOVE YOU」を「好きさ好きさ好きさ」と訳すのは悪くはないが、いかにも東京的で、関西には馴染まない。かと言って「好きや好きや好きや」では関東人に笑われるだろう。ともかく、日本では「好きさ好きさ好きさ」があまりにも大ヒットし、オックスの歌う姿がTVで繰り返し放送されたので、彼らのオリジナル曲と思っている人は少なくないだろう。家内はそう思っていたらしい。これは強いて言えばパクリが本家を凌いだことになり、さすが日本のパクリ文化の高度さを示す事例だ。だが、原曲を日本語にして歌ったことは本当はパクリとは言えず、きちんと印税から作曲者に支払われたはずで、どこからも文句が出る行為ではない。だが、出来ることならば、オリジナル曲で大ヒットを飛ばすというのが格好いいのであって、カヴァー演奏で人気を得るのは恥ずかしいことだろう。また、カヴァーするのであれば原曲そっくりではなく、自分の持ち味を最大限に出すべきだ。そういうことを本曲当時の60年代はよく行なわれていた。その代表はたとえばセルジオ・メンデスとブラジル66で、ビートルズの曲をかなりアレンジして独特の雰囲気に仕立て上げていた。それを言えばオックスの「好きさ好きさ好きさ」も同じかもしれない。日本では有名歌手の物真似がひとつのジャンルとして成長して来たが、衣装から歌い方、声色まで模倣しながらも、模倣者の個性がそこに歴然と出ているので、誰もそれを剽窃とは言わない。それほどに日本はパクリを悪い意味には取らず、そこに積極的な創造性を認めようとする。たぶん、オリンピックのエンブレムをデザインした教授もそのようなことはいつも考えていたはずで、どのようにネットからコピーして来ても、ほんのわずかに手を加えるとそこに自分の個性が表われると思ったのだ。そういう安易な行為と、有名歌手の物真似は練習や努力の量に雲泥の差がある。グラフィック・デザインも歌手の物真似も同じ芸と言えるが、芸とは練習また練習が前提になっている。ネットでたまたま気に入った画像を取って来てそれをわずかに変える行為で金儲けが出来るというのは、あまりにも芸を侮った態度だ。日本はパクリ文化だが、そういうあまりに安易なパクリは蔑まれる。あたりまえのことだ。パクリにも仁義、道義がある。
 ゾンビーズはあまりに変な名前だが、60年代はそういう態度が格好いい、つまりクールと思われた。ゾンビーズのサウンドはいかにも60年代のイギリスだが、ビートルズにはない響きがある。今日取り上げる曲や「I LOVE YOU」、「SHE‘S NOT THERE」はみなそうで、これらは天才的な閃きによって生み出されたものと言える。ビートルズが逆立ちしても書けない曲で、いかに当時のイギリスの若いロック・ミュージシャンが多様な才能を持っていたかがわかる。ビートルズと比べてどこが違うかと言えば、まずオルガンの存在感だ。それとヴォーカルだが、ドラムスやギターは控えめで、リズムの間合いを取るだけの存在と言ってもよい。だが、ヴォーカルに絡む絶妙なドラムスのリズムは、ビートルズにはない大人のエロスを発散し、聴き手に忘れ難いエロティシズムを感じさせる。「I LOVE YOU」という題名にしても、いかにもストレートな愛の告白で、その剥き出しの表現が若い女性を熱狂させるものであることは男にもよくわかる。日本でオックスの赤松愛の歌いながらの仕草に黄色い声を上げた女性もそれと同じで、60年代のヴォーカルを伴うロックは若い女性を発情させる効果が絶大であったが、その理由は今はどのように解明されているのだろう。いつの時代でも若者はいるし、また彼らを目当てにした音楽が量産されるのに、60年代のようなグルーピー文化が今は絶無とは言わないが、そうとう下火になっているだろう。では若者は性のエネルギーをどこに発散しているか。セックスに関心のない若者が増えているとも聞くが、それも含めて時代によってエロスの全体量つまり性に対する熱気に差があるとすれば、それはどこに原因があるのか。それは色気あるロックが少なくなって来たことと関係があるかもしれない。もっと言えば、60年代のロック・ミュージシャンのような若者が減ったということだが、それは日本に限ってのことかとも思ったりする。というのは、60年代以降、日本ではグループ・サウンズが少なくともTVからは消え、筆者から見れば子ども向きの甘い言葉を用いる歌詞にフォークの延長にあるような柔らかい音と歌声の曲が主流を占めて来たように見え、いわゆる過激と言える雰囲気を持つグループがいなくなって来たからだが、これはTV局がそういうバンドを締め出しているだけかもしれない。また、締め出されば生活が出来ないから、流行の音楽に沿ったものをやろうということになって来たとも言える。ともかく、日本では今日取り上げるような名曲を作り出す世相も才能もないように思う。
 さて、ゾンビーズのヒット曲では「SHE‘S NOT THERE」が声の音域が広くて筆者は歌いたくなるが、裏声の部分はもう出ない。それはともかく、この曲はサンタナのヴァージョンも有名で、サンタナはこの曲をうまくアレンジして自分のオリジナルのように仕上げている。サンタナがこの曲をカヴァーしてアルバムに収録したのは、オリジナルの発表から13年後の1977年のアルバム『ムーンフラワー』で、そこには「ヨーロッパ」と題するギター・ソロの大ヒット曲も含まれている。同曲はザッパの「ブラック・ナプキンズ」を思わせる短調の哀愁を帯びるもので、ザッパが同アルバムを意識したのは間違いがない。それで早速ザッパはサンタナを分析したのか、「カルロス・サンタナの秘密のコード進行の変奏曲」と題したギター・ソロ曲を数年後のアルバムで発表する。ザッパはあるステージでは、その曲の途中で「SHE‘S NOT THERE」のメロディを挟み込み、『ムーンフラワー』を聴いたことがわかるが、ザッパはオリジナルのゾンビーズのヴァージョンをどう思っていたであろう。64年はザッパはマザーズを結成したが、ビートルズを初め、イギリスから押し寄せるロックにアメリカの若い女性たちが熱を上げることを半ば忌々しく思っていたであろう。ザッパの音楽性からすればよりブラックな香りのするリズム・アンド・ブルースを好み、ビートルズよりストーンズを評価したのは当然として、ゾンビーズはどうであったかと言えば、そのサウンドの独創性と魅力は認めていたのではないか。だが、アメリカでも大ヒットした「SHE‘S NOT THERE」をサンタナのカヴァー演奏を通じて再発見したことは興味深い。それはオリジナルの曲の魅力は一応は認めつつ、ギター・ソロにもっと関心があったことを伝える。逆に言えば、ゾンビーズのヴォーカルの魅力は、60年代当時のザッパはひとまず無関係のものと思っていたのだろう。同じ土俵で勝負する必要のない音楽という意味だが、それがサンタナのカヴァー演奏を通じると新たな意味が付与され、そこにザッパが着目したことは、やはりゾンビーズの才能が光っていたためで、原曲の持つ力は他者にアレンジされることで再確認出来ると言える。ゾンビーズの原曲とサンタナのカヴァーはどちらも優れているが、当然原曲あってのカヴァーだ。このオリジナルとカヴァー演奏の関係は、グラフィック・デザインにおけるパクリ問題とどう違うかと言えば、パクッた先を明示しているかどうかだ。日本のパクリの歴史はそれをしているものとそうでないものがあるが、明示していなくても誰が見ても何からパクッたかがわかる場合は、オマージュとして捉えられ、謗られることはなかった。そこが日本の甘さと言えば言え、日本から真の独創が生まれないことが説明出来る。それはさておき、「TIME OF THE SEASON」は日本で誰かがカヴァーしたであろうか。69年の大ヒットで、当時はオックスはデビューして間もない頃で、この曲もカヴァーしていておかしくないが、オルガンのソロがこの曲の持ち味の大きな部分を占めていて、それをうまく模倣するのは難しい。それに、この曲の冒頭の特徴的なドラムスとヴォーカルの溜息は、女性の悲鳴が轟く中で密やかに歌って演奏する雰囲気ではない。歌詞は愛を求めて相手を誘うもので、発情期にある若者ならではものだが、それをいやらしく感じさせない素直さ、可憐さといった感覚に満ちている。そこにはヒッピー文化の香りが濃厚に漂うが、アメリカでヒットしたのはそのせいでもあるだろう。日本ではこの曲のような格好よさは当時の曲では表現されなかったと思うが、パクるにしてもそれがいかに難しい場合があることを示しているだろう。
by uuuzen | 2015-08-31 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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