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●嵐山駅前の変化、その374(マンション)
き込まれたというほどでもないが、それでも自治会を代表したような形で何度か参加した渡月橋付近の川の断面その他を大きく変えるという工事について、その後1年以上会合が開かれる気配がない。



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そのことを先日自治会のある人から言われて筆者も改めて思い出した。今年1月から本格的に始まった浚渫や護岸補修工事によってひとまず60年に一度くらいの大雨でも2年前の台風18号の時のように浸水被害はないと地元も国交省も思ったのだろうか。その心配がないかどうかを試す機会が先月の大雨で、2年前の渡月橋の冠水と同じような被害があるかもしれないと思っていると、被害をもたらすことなく豪雨は過ぎ去った。その理由は川底を浚渫したことだけとは限らないが、地元はそう思う人が多かったであろう。喉元過ぎれば何とかのたとえにあるように、2年前の台風を思い出させるほどの大雨があっても、大規模な河川改修工事が行なわれたとなれば、誰でも安心する。だが、自然の力は計り知れない。60年に一度の雨があれば100年に一度、200年に一度というように脅威を思えば際限がない。国交省は命に次に大事なものは財産であるから、一級河川は200年に一度の大雨でも堤防が安全なようにしたいようだが、莫大な費用をかけて計算上200年に一度の雨でも大丈夫なような強固な堤防を作ったとしても、300年に一度の大雨ではひとたまりもないから、どこまでの安全を金で買うかを決めねばならない。個人で生命保険に入るのは勝手だが、「みんな」の税金を使ってすることとなれば「みんな」の同意が欠かせない。その「みんな」は、結局は代表者に一任する方が合理的であるし、金も時間もかからないが、その代表者がどこか特定の人物や組織とつながっていれば、「みんな」のためと言いながら、自分たち仲間のためにつごうのよいことをする。政治にはいつもそのような問題がつきまとう。一級河川を200年に一度の大雨でも堤防が決壊しないようにするという案を出すことは、学者が率先する。だが、学者がいつも「みんな」のために考え、行動するとは限らない。それに、「みんな」のためということが可能かどうかだ。「みんな」はみんな考えが違い、「みんな」のためということはあり得ない。それで命に次に大事なのは財産だと、わかりやすい理由を言ってどのような大規模土木工事でも推進しようとする。「みんな」のためにという名目でやられることは、必ず「みんな」が費用を負担するが、それで不平を言う者もあれば、喜ぶ者もいる。福島に原発が出来るという時でもそうで、反対者がいれば推進派がいて、推進派は原発のいいところだけを主張するし、反対派はその反対を思う。それで多数決の考えが持ち出され、反対派の意見はたいてい通らない。それと同じことが渡月橋付近の河川改修工事の問題でもあると言えるだろう。筆者が4回ほど出席した天龍寺での勉強会では、工事反対の人の集まりであったが、3回目にはそうではない人が野次を飛ばし、司会はそれを無視して閉会の辞を早口でまくし立てた。勉強会では福島原発事故の被害を受けた気仙沼から講演者がやって来て、市民が言うべきことを言わなければ必要でもない大工事がさっさと実行されてしまう経験談を話したが、その大規模土木工事のおかげで地元の業者はかなり潤っているから、当然地元では工事反対者と賛成派の確執が生じる。このことを工事反対者は、自分たちが儲かればいいという利己主義だと言い、賛成派は地元に莫大なお金が落ちるうえ、大きな安全が保証されるのであるから、反対する意味がわからないと主張する。
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 「みんな」の税金を使ってやるこは、「みんな」の大部分の理解、賛成を得るべきであるのに、そのようにならないことの方が多いのではないか。それにしても何度か勉強会を開き、そのことで何も決まっていないのに、その勉強会の続きが開催されないのはどういうことだろう。勉強会を主催した地元商店街の人々は、国交省と裏取り引きして国の河川改修計画に反対しないことを約束でもしたのだろうか。そうだとすれば、これはとんでもないスキャンダルになるが、筆者の考えはこうだ。渡月橋付近のみならず、松尾橋までの桂川は、かなりすっきりとして2年前のような洪水の被害は同じ規模の雨でも起こらないことになった。だが、その区間だけの工事で終わりかと言えばそうではない。現在松尾橋からその下流の上野橋までの間を今年末まで工事が続けられている。それより下流は来年になるのかどうか知らないが、今年1月から行なわれた工事は、ちょうど1年要して渡月橋から上野橋辺りまでは、たぶん60年に一度の大雨でも住民に被害が及ばないように竣工する予定だ。ということは、来年になれば国交省が計画している200年に一度規模の大雨でも大丈夫なように渡月橋付近の川幅を広げ、また堤防を嵩上げするなどの改修工事の話が持ち上がるのではないか。2年前の台風18号が到来する直前の桂川の川底の状態があまりにも土砂が積もり過ぎで、とりあえず応急措置として誰の目からも明らかなように川底を浚って水面を清らかに見せることが先決ということに、地元商店街と国交省や京都市との意見が一致したためかと言えば、それもあろうが、実は台風18号以前から川底の土砂を浚えることの要望は地元から出されていた。それを怠ったか、予算のつごうで早急には手をつけられなかったことが、台風18号の被害によって尻に火が点いた形となり、今年1月から工事が行なわれた。地元住民はその結果でひとまず安堵しているが、国交省としてはあくまでも応急措置との考えで、60年に一度程度の雨では住民の金が大きく失われる機会が多過ぎるので、もっと税金を投下して大きな工事をする、つまり現状とは大きく違う状態に改造することが目的だ。ただし、それが実行されたとして、その安全性への思いは切りがなく、次には300年に一度の雨を想定してさらに改修するはずで、永遠に日本は土木工事業に仕事が途絶えない仕組みになっている。税金をどのように分配すれば公平かということは「みんな」を前提にすべきなのに、「みんな」は統一が絶対に取れない集まりで、税金の分配は絶対に不公平だ。そのことをあたりまえのように「みんな」は知っているから、民主主義では大多数で物事を決めるようにしているが、代表者である政治家が大多数の思いを反映しているとは限らないことを「みんな」は気づいている。結局「みんな」はいろんな行動をし、何が正しいかそうでないかの考えが違い、まとまりがつくように見えているのは一時的なことで、人間は本来まとまりとは縁がないと思っておいた方がよい。であるからまとまりに憧れるし、またそうは思わないという人があって、やはりまとまりはつかない。
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 対案を出さない限り、ただの愚痴と言われるが、政府のやることに一市民がどう対案を出し、それを国会に届け得るか。対案は政治家同士の話であって、一市民はせいぜい愚痴を言うしかない。その愚痴がまとまって巨大になれば国会に届くかと言えば、そうなることもあればそうならないこともある。前述の勉強会に出かけた後は必ずその報告を自治会に回覧した。A4サイズの紙1枚にまとめたもので、会合が開かれなくなったので中断したままと言えば、そうではなく、最終回の文書ではもう書かないと宣言した。それは年度が変わるからという理由もわずかにあったが、古老が批判していることを又聞きしたからだ。本人から直接言われていないので気にする必要はないが、なぜ古老が反対したかと言えば、その最大の理由は、国交省を批判するようなことを書いても結局一度国が決めたことはそのまま実行されて行くという考えだ。これはお上を信頼しているというのではなく、国の力の前にあっては個人は無力で、何をしないでおくに限るということで、その古老のそういう考えを筆者は知っている。筆者が報告した文章は、勉強会の司会その他、開催している人たちの主義に賛同し、それを自治会の住民全体に広げ、いざとなった時には地元が一致団結出来るようにとの思いをほのかに思っていたと言ってよい。ただし、あくまでも勉強会の内容のまとめで、それは筆者が代表者として自主的に出席しているのであれば、最低限その会合の意図を知らせるべきと考えた結果だ。そういう思いであったから、1年以上も会合が開かれないことが腑に落ちない。会合を開いた人たちは、嵐山と嵯峨の住民がどの後国交省との話し合いがどうなったのかと訝っていて当然だろう。またそのことを思えば、1年以上も会合を開かないことの理由を文書にして自治連合会に提出するくらいの行動をして当然ではないか。そうでなければ、地元の商店主たちが自分たちの利益につながることを最優先して物事を進めようとしていると批判を受けても仕方がないところがある。最後とそのもうひとつ前の会合では、今までは少数で議論して来たが、今後は地元住民全員にこの問題が伝わるようにするということで話がまとまった。正確に言えば、そのように発言した人がいたが、それは簡単に言えば筆者とFさんが出席していたからだ。それで筆者は会合の内容を地元住民に伝えてよい、あるいは伝えるべきと考えて行動した。ところが、会合は開かれず、あるいは開かれても筆者には伝わって来ないのか、筆者はほとんどその問題を忘れかけている。ただし、筆者が配った文書はしっかりと読む人もあって、そういう人は筆者と会えばその話題を出し、その後どうなっているのかと訊く。筆者は最後の報告文書で、渡月橋を中心とした区域で計画されている工事については地元住民に何らかの形で文書が回覧されると思うので、その時は各自その工事についてどう判断し、どう行動するかの参考にしてほしいといったことを書いた。つまり、自分の役割はひとまず終えたとの宣言だ。年内はたぶん天龍寺での会合はないだろう。あるいはあっても地元住民に伝えず、商店主たちだけ集まって今後どう話を進めて行くかの相談だ。息の長い話になりそうだ。今日の写真は1年前の8月19日の撮影。
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by uuuzen | 2015-08-19 23:59 | ●駅前の変化
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