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●嵐山駅前の変化、その373(マンション)
いにやらされることが好きな子どもがいるだろうか。筆者は嫌いであった。小遣いをもらえるわけではなし、知らない店に行って買ったことのないものを買うことは苦痛であった。



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だが、筆者しか適任がないとなれば仕方がない。よく覚えているのは小学5,6年生の冬、母が持病の神経痛で苦しみ、その痛め止めの薬を夕方に買いにやらされた時だ。横文字の聞いたことのない名前の薬剤を書いた紙きれとお金を持ち、訪れたことのない多少遠方の店に買いに行った。母はよほど痛かったのか、鬼のような形相で筆者を叱咤し、一時も早く買って来いと言った。母は絶対的な存在で、しかも筆者を含めて3人の子をいつも叱り飛ばしていたが、それで他人に迷惑をかけないきわめておとなしい子どもにはなったが、逆に見ればあまりに内気な性格になった。だが、昔はそういう子どもが少なくなかった。大人と対等にしゃべる子どももいたが、たいていはこまっしゃくれていると言われた。それはかわいらしくないという意味だ。いつの頃からか、TVに見る一般の子どもはみなそのこまっしゃくれた感じを見せるようになったが、そのことは内気過ぎる子どもは学校でいじめに遭い、自殺に追い込まれるということだろう。内気は罪で、子どもは堂々と大人びた話し方をするのが今は歓迎される。それだけではなく、若い女性が平気で男言葉をしゃべり、喫茶店では煙草をスパスパだ。だがそういう女性は本命の男の前ではかわい子ぶり、化けの皮をうまく隠す。それはさておき、筆者の内気は大人になってもそう簡単に変わるものではない。自治会長をするなど、他人と話すことは多いが、内気であることには変わりがないから、話す相手は選んでいる。だが、内気にも度合いがあり、筆者よりそうである人もいる。そのことは子どもの頃からわかっていたので、それが何となく自信につながった。こまっしゃくれた子については家内も子ども時代に周りにいたそうだが、そういう子は中学高校と進むにつれ、目立たなくなって行ったと言う。同感だ。大人に近づくにつれ、こまっしゃくれだけでは世間をわたって行けないことを知って行くのだ。こまっしゃくれとは調子がいいということで、それは軽薄とほとんど同義で、信用されない。信用は大人社会に限らず、子どもの間でもすでに重要な属性で、それが最も大事とも言える。先日ある人から聞いた話だが、京都の有名な学区で長年ある委員を担当していた人がいる。とても信用出来る人との評判であったが、ある年の会計監査で、領収書はあるが、本当に品物を購入したのかという疑問を提出された。信頼の篤い人であるから、まさか空領収書を切ることなどあるはずがないと長年思われていたのだが、指摘した人は疑惑を抱いたというより、気軽に質問し、それで監査役が調べると、何と数万円のお金を委員が着服していることが発覚した。つまり、買ったはずの品物はどこにもなかったのだ。早速委員はお金を返し、委員を辞めたそうだが、それで済む問題ではないだろう。長年の信用は一気に崩れ、おまけにずるい人という評判がついた。高齢になって清廉さを汚してしまったのだが、そういう話は珍しくないだろう。長年の真面目な積み重ねがたった一度の過ちで台無しになる。それほどに信用を築くことは困難で、また持続することはさらに難しい。同じことは人の交際でも言える。たった一言で相手を見る目が変わるということはよくある。筆者は何度もそういう経験をして来ているが、家内にその話をすると人間を見る目が厳し過ぎると言われる。確かにそうかもしれない。だが、幼少の頃に築かれたそういう性質はもう変わらないのではないか。
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 さて、今日は涼しい。天気予報によると、もう37度といった猛暑はなく、秋風すら吹くとのことで、とにかく仕事がはかどる。窓辺に座っているが、クーラーから冷風が吹いて来るようだ。それはありがたいことだが、猛暑が過ぎたとなるとそれはそれでさびしい。天気に関して人間は勝手なもので、ジョン・レノンは1966年の「レイン」という曲でそういうことを歌った。真夏になると同曲が収録されてもよかったアルバム『リヴォルヴァー』を思い出すが、当時も今も、「レイン」と「ペイパーバック・ライター」の2曲を『リヴォルヴァー』のどの位置に収めるといいかとよく考える。アルバムのA面とB面の間にその2曲を挟むというのは最も無難だが、最も面白くない。中学生の頃からそう思っていて、そのことは筆者が無難は最悪と感じていたこと暗に示すかもしれない。無難な人生とは昔からよく言われるように、レールの上を走るようなそれだ。役人になることはその最たる例で、次に有名企業のサラリーマンだ。今も昔もどの親も子どもが安定した人生を歩むことを考え、そのように育てる。つまり無難な人生だ。無難は悪いことではない。それどころか、人間が望む最大の幸福だ。それなのにその無難が退屈であると感じるのはどうしてか。誰もがそうとは言えないが、そう感じている人は少なくないだろう。スリルを求めて賭け事をする人が多いのは無難が面白くないからで、パチンコやスロット、競馬、宝クジは今後も健在だろう。筆者は賭け事はしないから、そのほかのことでスリルを求めているか、それに代わるものをしていることになるが、無難が面白くないという意見が絶対だと思っていると、やんわりと反論されることもある。それは当然だ。無難が絶対的多数を占めているからこそ、危険な臭いのすることも存在出来る。また、圧倒的に多い無難派は、危険派を胡散臭いなどと言って非難するとしてもそれは当然で、また正しい。それはそうと、無難に見えている、あるいは本人もそう思っているのに、危険派っぽい場合もあるし、その反対もあって、無難派、危険派と一概に分けられるものではない。たとえば先に書いた自治会のある委員だ。誰からも真面目で信頼おける人と長年思われて来たことは、無難派の代表と言ってよい。それなのに実際は危険なことをしていた。その反対に、危険派丸出しに見えているのに、実際は無難派という人もあって、人間は複雑だ。女性で言えば、無難派でしかあり得ないと思われる場合ほど、実際は危険派で、裏で何をしているかわからないことが多いかもしれない。遊びまくって来たような派手な女性が処女であったということはよくある話で、どこから見ても処女という雰囲気の女性が何十人もの男性と性体験があったりもする。女は化物で、それは男以上だが、そのことが長命の原因になっているとも考えられ、男は女のそういうところを見倣った方がいいかもしれない。無難な人生に話を戻すと、毎日同じような仕事をしていると、数十年も数日と同じで、さして人間的な向上は望めないだろう。そのことが無難は退屈だと考える理由だ。だが、そういう無難な人生を歩んで来て定年になった人は、絶対的に自分を正しいと思っていることがよくあって、そのことがなおさらその人の退屈な人間性を強化している。それは一言で言えば、無知ということだ。そのことを自覚しないほどに無知で、救いようがないが、そのことにゆっくりとでも気づく人はまだましだ。さて、そんな勝手なことを書き連ねている筆者が無知でないかとなると、知っていることは知っているが知らないことは知らないで、その点はみんなと同じで無知かどうかは誰にも判断出来ない。自分のことはわからないわけで、人は他人のことを常にあげつらうだけだ。無難な危険かと言えば、筆者は真面目で通っているので無難になるが、月給とは長年縁がない綱わたり的な生活で、危険もいいところだ。それで家内がしげしげと言うのは、「うまく私を口で騙して還暦過ぎまで難破せずに生きて来たな」で、筆者にすれば今頃気づいたのかと思いながら、それは筆者の才能でもあって、反省は全くない。ともかく、無難か危険かわからないが、無事にこの年齢までやって来られたのは、無難派であったということになるだろう。では退屈であったかと言えば、そうではない。筆者なりに危険に常に晒されて来たとの思いがあり、そのために心だけは若いと思っている。
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 今日はちょうど1年前に撮った写真を載せる。1年経った現在現場は毎日大型トラックが出入りするなど、工事の真っ盛りだ。来年の今頃はもうすっかり建物が出来上がり、塀も撤去されて様相が変わっている。そう考えると、変化が著しい時代は記録しておくに限ると思い至る。それは個人で言えば壮年期までだ。年齢で言えば50歳までくらいか。筆者はもうめったに自分の顔や姿の写真を撮らなくなったが、それは加齢とともに華麗さが著しく減少していることを実感するからだ。誰でもそうで、還暦を過ぎるとよほどの自信家でない限り、自分の真の姿を凝視したくない。ということは、筆者は阪急嵐山駅前の変化をいろいろと撮り続けているのは、自分の壮年期を懐かしがっているからとも言えるかもしれない。代償行為ということだ。自分の変化はもはや老化、退化があるのみにで、今日の写真のように急速に変化して行くその途上という状態はもう望めない。あっても醜悪さだけで、それはそれで凝視すればいい題材になるが、現代の画家ではホルスト・ヤンセンやロヴィス・コリントがその代表か。どうでもいい話のついでに書くと、筆者はコリントが好きで、彼の分厚い画集を持っているが、おびただしい自画像を見ていると、レンブラントの伝統と言うか、西洋人の現実を見届ける執念を感じ、思わずたじろぐ。それは無難派である証拠とも言えるかもしれない。そうであるから、危険な臭いのするコリントの絵が好きなのだろう。ないものねだりだ。だが、コリントの自画像その他の絵画は何かに憑かれたようなところを感じさせ、それは記録し続けることへの脅迫観念があったかに思わせ、その点はわずかだが、筆者のこのブログは共通点があるかもしれない。だが、そう言い切るには、10年どころか、20年、30年と書き続けてこそで、それだけの覚悟が筆者にあるかとなれば、今は自信がない。それは書くことを何よりも大切と思っていないからとも言える。つまり、徹底していない点で筆者は明らかに無難派だ。先日自治会の大志万さんに男の無難派と危険派の話を少しした。無難、危険の言葉は使っていないが、要はそういうことだ。筆者の考えでは、女は危険な男に惹かれるが、大志万さんは人によりけりだと言った。あたりまえのことで、また専業主婦である彼女とすればそう答えるしかなかったとも言えるが、その話題をもっと続けても話が噛み合わない気がする。彼女の夫は無難派の代表格と言ってよいが、そういう彼女が危険派の男に関心がないとしてもしごく当然で、筆者は馬鹿な話題を向けたことになる。だが、筆者が言いたかったのは、絵を描くことは無難か危険かのどちらに近いかということだ。これも彼女にすれば人によりけりであるはずだが、筆者は前述のように危険派の画家に魅せられる度合いが強い。絵を描き続けることは、人間の社会においては大きな遊びで、それは無難とは本来相入れない。無難なところに留まって無難な作品を生み、無難な人に歓迎されるというのは、無難で退屈なことだ。こういう考えは危険か。そうであっても実際の行動が無難に留まる限り、傍目には無難以外の何者でもない。そう考える筆者は危険な臭いのする作品を作りたい思いに駆られている。
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by uuuzen | 2015-08-11 23:59 | ●駅前の変化
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