箔がつくこととは何か。男と女とではその思いが違うだろう。韓国ドラマを見ていると、一代で大金持ちになった男は必ずその後に政界に進出しようとする。日本でも同じかもしれない。
居酒屋チェーン店で成功した男性がとにかく国会議員になりたく、一度落選した後、今度は別の政党から出馬して当選した。つまり、主義などどうでもよく、議員になることだけが願いであった。金儲けはもう充分したので、今度は金では買えない議員バッジがほしかったのだ。そして議員になりさえすれば経歴に見事な箔がつくと思ったのだ。スポーツ選手やタレントが議員になることも同じで、箔がつくと同時に収入も目当てなのだろう。議員をジャガイモに見立てて風刺画を描いたのはドーミエだが、いつの時代、どの国でも箔をつけたがる連中の最たるものが政治家だろう。たまにTVの国会中継を見るが、やっていることは自治会の会議とあまり変わらない。ということは、自治会長も箔をつけたがる者がやりたがるということになりそうだ。筆者のこういう考えは多分に母親の影響を受けているが、筆者の辛辣な物の見方は家内に伝染し、家内は妹との談笑の中で意見を述べると、妹はなぜそういう見方をするのかと首をかしげるらしい。これはもっと優しく他者の行動を見よというたしなめだが、筆者も機嫌のよい時はそのように思うことがあり、義妹の言うことがわからないでもない。だが、義妹の意見が家内や筆者にはとても理解出来ないことがある。これは大分昔のことだが、経団連の土光会長がNHKのTVでその生活ぶりを見せる場面があった。有名な場面で今でもごくたまにその箇所の映像が流される。それは、土光会長の好物が干物のめざしであったことだ。義妹は主人が寿司屋を経営していることもあって、魚については毎日贅沢しているが、義妹はめざしを食べる土光会長の姿はきっとは撮影のための演出で、普段はとても高価な刺身を食べていると言い放った。それに対して家内の兄や姉などはみな賛成したが、筆者は内心そうではなかった。というのは、めざしはとてもおいしく、筆者でも刺身とめざしが並んでいると、必ず刺身を食べることはない。あるいはめざしの方が高架でもそれを買うこともあるだろう。土光会長がめざしを好んだのは、清貧を旨としたからでもあろうが、いろんな魚を食べて来て、結局めざしが一番おいしかったからではないか。高価な刺身がおいしいと思うのは一種の幻想で、味覚は人によりけりだ。筆者が義妹が言い放った意見に賛成し兼ねたのは、箔をつけたがる俗物議員とは違う風貌を感じていたからだが、義妹はめざしを食べる大金持ちなどいるはずがないという思いから、土光会長を鼻持ちならない俗物と思ったようだ。つまり、筆者だけが辛辣に人を見るのではなく、また辛辣に人を見る筆者の考えが理解出来ないという義妹は、筆者から見ればもっと辛辣だ。政治家のすべてがジャガイモのような俗物ではないかもしれないが、選挙に勝たねば議員にはなれないから、関心事の最大は他者のために役立つことをするというより、どうすれば次回の選挙で当選出来るかということだ。そういう立場にあれば、どうしても俗物になる。
今日は去年8月4日に撮影した駅前のマンションの建設予定地の写真を載せるが、前回書いたように、現在は鉄筋コンクリートの建物を建設中で、その土台のコンクリート打ちが終わった段階だ。塀のてっぺんから建物が顔を覗かせるのは2か月ほど後ではないだろうか。そうなれば頻繁に撮影したいが、現在はあまりの暑さもあり、1か月に一回くらいしか撮っていない。それでも季節の変化がわかるだけで、塀の奥は見えず、工事の進み具合はわからない。それを示すには、いつもの撮影場所とは違うところに立てばいいが、新たな定点撮影場所を作るのが面倒で、今のところその気がない。それは、この新しいマンション・シリーズは写真を4枚と決めているからで、それが5枚や6枚になると文章の段落数をその分増やす必要がある。写真4枚では3段落で済むが、段落ひとつが原稿用紙4枚分ほどになっているので、3段落でも書くのに苦労する。それで今日は少し短めの段落にする。塀で囲まれた建設現場であるのに、1か所だけ塀がないので現場が丸見えの場所がある。今日の2枚目の右端より10メートルほど右にわが家の裏庭の向こうを流れる小川がある。2枚目はその川に架かる橋の上から撮っている。工事の様子を見せないのであれば、小川沿いにも塀をすべきなのに、用地はその小川ぎりぎりまであって、筆者の見るところ、小川沿いに塀を建てる用地がない。そこは土盛りをしてその一番下には、整地業者が雨水を流す小さな開渠を設けたが、その上に塀を建てることが出来ず、また開渠の手前に建てると用地が狭くなって建物の建設に不便だ。つまり、用地はとても狭く、その狭さを最大限に使ってマンションを建てる。2枚目の写真からもう少し後ずさりし、また橋の上流側に立つと、建設現場は塀がないので、内部は丸見えで、先日は若い女性がそこに立ってスマホで工事の様子を撮影していた。筆者もそこを新たな定点撮影場所とすれば、土台から塀の高さまでに積み上がって行く建物の様子を順次撮影出来るが、何となく最初に決めた4か所以外に新たに設けたくない。それはひとつには、筆者の最初の読みが間違っていたことを示すためだ。橋の上ではなく、もう少し阪急嵐山駅前寄り、つまり橋ではなく、道路上から2枚目と同じ角度を見れば、小川沿いに塀がない写真を撮ることが出来たが、塀が川で途切れている様子は4枚目からわかる。右端近くで工事用の柵が途切れているが、そこが小川で、また柵は小川沿いに上流に向かって設置されていない。ただしその様子は4枚目からは見えない。この柵が現在はもっと背の高い、真っ白な鉄板の塀に変わっている。塀の途切れの間近から工事の様子を撮影したくない別の理由は、4枚目の写真で言えば左端に現在はトラックの出入りなどを見る警備員がひとり立っているからだ。気にせずに撮影してもいいが、警備員は現場周辺の変化を見ることが義務で、カメラを持って現場を覗き込んでいる筆者を見れば不審に思うだろう。そう思われてもいいが、そう思わせるのが嫌だ。つまり、相手に面倒なことを思わせたくない。これは筆者の優しさと言えるだろう。筆者は政治家には辛辣だが、いかにも肉体労働者として長年働いて来たような、顔が赤銅色に焼けた貧相なおじさんにはそういう眼差しを向けることはない。そのような人はたとえば梅津には少なくないと思うが、嵐山地区となればうんと少ないだろう。だが、ゼロではない。また、ワンルーム・マンションに住み、自治会に加入していない高齢者が多いと聞くから、嵐山地区も梅津とさして変わらないかもしれない。自治会に加入していない貧しい高齢者の実態はわからないが、地元に何代にもわたって暮らす人の中に、経済的にあまり恵まれない独身の熟年がいて、また社交性がないこともあって、自治会のいろんな役割を担当してもらいにくい場合がある。自治会はみんなが平等といいながら、実際はそう割り切ることが出来ないのだ。もちろん筆者はそれがわかっていたので、2年前に作った自治会の規約では、いつか会員全員が会長や副会長、会計のいずれかを担当することになる仕組みを作りながら、そうした大きな役割は自薦が可能なようにもした。そして、現在は自薦者で運営しているも同然だが、それは筆者の本意ではない。規約どおり、新しい人が2年ごとに重責を引き受けるべきで、またそのためには自治会の運営をわかりやすく、また簡素化し、どのような人でもあまり問題なく任務を遂行出来るように、いろんな角度から筆者は副会長を務めながら考えを巡らせているつもりでいる。その最大の行為は、簡単に言えばムード作りだ。そのためには懇親を深める場を増やす必要がある。それには金がかかるから、出来る限りこれまでの支出を見直し、少しでも金を使わないようにして来ている。だが、そういう筆者の労苦が他の人に伝わっているかと言えば、決してそうではない。筆者はあまりに楽天的なのだろう。政治家といった権力者には辛辣でも、一般人には疑いの気持ちを抱かない。そうでなければ筆者の顔や態度に鬱陶しさが露わになる。それでは自治会のムードが悪化する。
さて、楽天的過ぎるというのは、ここ3か月の実感だ。ただし、そのことはここでは書けない。筆者は自分が人間通ではないことがわかったが、それは見方を変えると進歩と言える。また、そのように思わないことにはストレスが溜まる。先に自薦について書いた。筆者は自治会長を死ぬまでやってほしいと言われたし、また自治連合会からの誘いも受けている。それはそれだけ人間好き、社交性があると見られているからだろう。だが、筆者は本当は人間嫌いかもしれない。自治会長を死ぬまで続けることは筆者にすれば簡単なことだ。だが、それは無責任と思っている。同じ人物が何十年もの間自治会長をすると、自治会としてまとまりが保てるか。そうかもしれないが、そうでないとも言える。みんな同じ金額を出し合っての自治会であり、役割も分担するというのが筆者の考えだ。でなければ、筆者の前任者のように、会長のほかに各種委員を3,4つも引き受けるということになる。それは定年退職した人でもほとんど不可能な責務だ。同じ人物が長年会長をすることで、周囲の人は楽を決め込む。もっと悪く言えば、『その人は好きで会長をしているから、そのままやらせておけばよい』という考えだ。会長だけならいいが、各種委員のなり手もいなくなる。それではまずいというので、規約を作り、2年ごとに会長や副会長、会計が変わる仕組みを作った。そのことで、今まで何の役もせずに済んで来た人たちは、幾分かは自治会を脱退し、幾分かは尻込みし、幾分かは積極的になった。筆者は陰ではかなり強引に物事を進める人と思われた、思われているらしいが、後戻り出来ないという思いがあるし、また自治連合会の他の13の自治会では長年出来ていることがなぜわが自治会のみが出来ないのかという考えによってみんなを説得している。だが、それは甘い考えのようで、嵐山地区で最も古いわが自治会は、独自の仕組み、慣習があってよいと考える古い考えの持ち主がいる。そういう人からすれば筆者は新参者に過ぎない。結局、せっかく作った自治会の規約を反故にしようという意見が出ている。みんなにアンケートを取って作った規約であるから、それを廃止するにも一苦労で、また会員全員に迷惑をかける。それでも筆者のやり口が気に入らないというのだろう。筆者は無責任と思われるのが嫌で、そのためにも規約どおりに今後もうまく自治会が動いて行くようにと、会長職を4年で退いて今は補佐に回っているが、筆者の思惑どおりに事が運ぶとは限らない。そのことを実感したのはここ3か月だ。筆者は会社員ではないので定年はないが、それは忙しくなれば何歳になってそうであるということで、時間の多少の融通は利くとしても、それは結局大切な時間を潰していることで、規約を作った時点で筆者の任務は終わっていると思うべきだ。その規約を早速全く新しいものに変えようとする動きがあっても、それは見て見ぬふりをすべきかもしれない。つまり、それほどに自治会というものは、政治の世界と一緒で、箔をつけたがる者も混じっている。筆者が会長をしていた4年間は、自分でそのことが箔をつける行為とは思わなかった。そんなことで箔をつけずとも、ほかにつけることがあるし、また箔などどうでもいいではないか。むしろ筆者は肩書きなし、無冠で充分で、自分で満足出来ればよい。だが、誰しもそうだと思っていると足をすくわれる。むしろ誰しもそうではない。それで最近筆者が考えていることは、来年は少年補導委員でも1年担当し、その後はもう目立たないように過ごすことだ。簡単に言えば自治会の職務から足を洗う。筆者にはやるべきことがたくさんある。そのために自治会から足を洗うと言うと、きっと『あの人は金儲けのために自治会を放り出した』と噂する人が出て来るだろう。筆者のやりたいことは金儲けではない。金をたくさん儲けた後は政界に進出するといった俗物とは違う。