人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●神社の造形―月讀神社
氏がどこから来たのかは諸説あるようだが、京都では松尾大社と伏見稲荷大社という、盆地の東西にある大きな神社を創建したとされる。それに太秦という地名にも「秦」が入っている。



●神社の造形―月讀神社_d0053294_21420375.jpg
太秦の広隆寺はもちろん秦氏の寺で、所蔵される国宝第1号の弥勒菩薩が同じ時期の仏像には使用されない赤松を用いていることから、朝鮮半島で作られたものではないかとの説がある。筆者が京都に出て来て何年か経った頃、梅図の梅の宮大社のすぐ近くの友禅工房を任された形になって、何人かを雇う必要が生じた。その直前、まだ年配の主宰者がいた当時、長崎出身で漫画家志望の若い女性が面接に来て雇われた。彼女は2,3年いたと思うが、広隆寺の弥勒菩薩の話になった時、筆者は前記の説を話題にしたところ、何が気に障ったのか、彼女はきつい言葉で意見を述べた。あの優しい弥勒菩薩の顔は絶対に朝鮮人のものではないというのだ。赤松は朝鮮から輸入し、日本の仏師が彫ったに違いないし、それを否定する材料もないと言った。筆者はそれ以上話をしなかったが、筆者には今も広隆寺の弥勒菩薩の顔、特に目や口元、頬は典型的な朝鮮人女性のそれに見えるし、朝鮮半島で作られたものが日本に持って来られたからといって、その仏像の価値が減じるとも思えない。彼女は朝鮮を蔑視することに何の疑いも持っていなかったようだが、同じような人はどこにでもいる。西洋崇拝の一方でアジアの後進国を侮るというやつで、日本は朝鮮や中国とは無関係にこれまで国家が存続して来たと思い込んでいる。島国であるので大陸や半島の影響を受けるとしてもごくわずかであるはずで、ましてや日本人のDNAに中国朝鮮のそれが幾分か混じっていることなど、けがらわしい空想に過ぎない。そういう思いがたぶん日本の右翼と呼ばれる人たちには強く、それが現在の日中、日韓関係に影を落としている。それはさておき、京都にはたくさんの天皇陵があるが、どれも発掘が許可されず、日本の古代史は不明なことがあまりに多く、真実を知りたい学者は想像で補って自説を唱えるしかない。秦氏のことについてもユダヤと関係があるなど、荒唐無稽と思える意見まで飛び出し、日本はよほど中国や朝鮮と縁があっては困ると見える。秦氏が中国の秦の末裔か、それとも朝鮮半島にルーツを持つ人たちであったのかは今後も解明されないが、海の向こうからやって来た集団であるのは確かで、その彼らが京都の梅津や太秦に住みついたと想像するのは面白い。平安京が出来るもっと以前のことで、断続的に日本のやって来たであろうから、文書などに記録されていないはるか昔から大陸からは人がやって来て住みついていたのだろう。そんな大昔のことはさておいて、秦氏とわかっていることに限っても松尾大社や伏見稲荷大社、それに前述の梅の宮大社もそうだが、有名な神社を創建した時、朝鮮半島の何らかの建物などの造形を部分的にしろ、適用したと考えることはさほど間違っていないだろう。形というのは案外そのまま長年受け継がれる。長年というのは1000年単位だ。新嘗祭の時に祀られる五穀の円柱形の供物は、韓国ドラマをよく見ている人にはわかるが、韓国の現在の先祖を祀るチェサの時に作られるものと全く同じ形と色合いをしている。新嘗祭は現在の日本人には全く無縁のもので、完全に天皇家だけのものとなっているが、その祭りとほとんど変わらないことを現在の韓国人の家庭が毎年何度も行なっていることは、天皇家が大昔に朝鮮半島の祭りを取り込んだことを物語っているだろう。だが、どのようなことにも反論は出来るから、先の長崎の女性は、日本が始めたことを朝鮮半島で模倣され、その後、朝鮮では残ったが日本では宮中のみとなったと言うだろう。
●神社の造形―月讀神社_d0053294_0501067.jpg
 筆者は学者ではないので、真実を突き留めたいとも思わないし、古代日本の東アジアの人々の交流もほとんどどうでもいいが、つい先日から見ている韓国ドラマ『輝けスングム』があまりに面白く、また興味深い場面があったので、つい日本と朝鮮の似ている部分を思ってしまった。話が脱線するが、似ているところとは、1953年当時の韓国では、正月には子どもは大人に挨拶をし、お年玉をもらうことや、また大人が作った凧を揚げることだ。それに餅搗きやお雑煮を食べることなど、多少日本とは形は違うが、風習は同じだ。日本統治時代にお年玉や凧揚げ、餅搗きの風習が朝鮮に持ち込まれたと主張する人が多いかもしれないが、朝鮮半島の文化が日本にわたって来たこともあり得る。凧は日本のそれとは形が違って、四角であればその中央に円形の穴が開いているし、餅搗きの場面では韓国では臼と杵ではなく、大きな俎板の上で餅を搗いていた。ただし、それは朝鮮戦争当時のことで、臼が韓国にないのかどうかはわからない。それはともかく、風習が日本とほとんど同じかと思えば、日本ではないのもある。それは年最初の満月の日は外出してならず、家で特製の手料理を作っておとなしく過ごすというものだ。今日見た『スングム』にはそういう場面があった。韓国の人たちにはよくわかる風習なのだろうが、日本では首をかしげる。そういう場面を見ると、似ているようでも似ていない日韓を思う。毎年最初の満月の日は外出を控えるべきという風習を今も韓国が守っているとはとても思えないが、朝鮮戦争当時の田舎ではまだ健在であったようだ。満月の夜を忌避することは、西洋で満月をあまり喜ばないことに似ているが、日本ではどうなのだろう。天皇家ではそういう風習があるのかもしれない。満月は明るくて美しいが、何か不吉なことが起きそうな気がするのは、本来暗い夜を明るくするため、また満月と新月は大潮で、干満の差が大きくなるためであろうが、海辺の人たちならわかるが、そうでない場所に住む人にとっても潮が生活に影響を及ぼすのだろうか。満月の夜に男が狼に変貌するというアメリカの白黒ドラマを筆者は昭和30年代に見た記憶があるが、満月は美しいだけのものではないことを知っておいた方がいいのかもしれない。そんなまじないめいたことを筆者は信じない方だが、前述のように韓国ドラマで初めて1月の満月の日は目立った行動をしないでおくに限るという風習を知り、満月は喜びで迎えるものではないかと多少考えを改める気にもなる。だが、筆者が昨日の投稿のように、毎月の満月の写真を投稿するのは、満月が見られて嬉しいということだけではない。むしろその反対で、満月を見ることは悲しい。つまり、満月の写真を載せるのは、一種の厄祓いのつもりでもある。さて、今日は去年2月21日に撮った松尾大社の摂社である月読神社の写真を載せる。撮影当時に書いたが、この神社と満月を一緒に収める写真が撮影出来ないかと思い、その下見に出かけた。結局月読神社の鳥居の奥に満月を捉えたのは3年前のことで、その写真は「ムーンゴッタ・2014年7月」に載せた。残念であったのは、鳥居の下にある石段を上り切ったところで撮影出来なかったことだ。満月が見られる頃にはもう門は閉まっているからで、本当は今日載せる写真の石段上に広がる境内から撮りたかった。500メートルほど北に松尾大社があり、その境内からの方が本当はよさそうだが、筆者がこだわったのは「月読」という名前だ。月読神社から満月を見るというのがよい。なぜそういう面白い名前がついたのか。月読みは潮の干満を読むということではないか。筆者にはそれしか思い浮かばない。そして海となれば朝鮮半島よりも日本の方が縁が深い。海に囲まれた日本は船によって海外から文物を持って来ることで文化を発展させた。そのためには潮の干満やその流れを正確に読み取る必要があった。月読神社は元は壱岐にあったとされる。境内にはいろいろな神が祀られているが、その中に航海の神がある。金毘羅を思い出すが、壱岐となればやはり半島や大陸との交易であろう。最初から松尾大社の摂社であったのかどうかは知らないが、梅津にあったものが河川の氾濫のために現在の山手に遷座されたようで、やはり元は秦氏が創建したのであろう。
●神社の造形―月讀神社_d0053294_0502513.jpg
 嵯峨の住民で今年は自治会長を担当しているOさんは、先日「風風の湯」のサウナ室で話してくれたところによると、嵯峨も松尾大社の氏子で、毎年2回の依代の配布があるとのことだ。これは筆者が京都にやって来て梅津に住んだ頃に知った。はがきの半分の大きさの小さな紙袋に人間の形をした薄くて白い紙が1枚入っていて、それに家族全員の名前を書き、息を吹きかけたうえで袋に収めて糊で封をするが、重要なことは、現金を入れることだ。一家庭100円であったと思うが、もちろん多いほどによいし、今は500円が基準になっているかもしれない。筆者が多少驚いたのは、大覚寺の奥、直指庵辺りまでもが松尾大社が氏神になっていることだ。あたりまえと言えばそうなのだが、松尾大社の氏子の範囲がとても広いことを今さらに知った。京都は伏見を覗けばそのほかに八坂神社、伏見稲荷大社、そして上賀茂、下賀茂神社が勢力を持っていると聞いたが、一番大きいのは松尾大社だろう。そう言えば筆者は京都に出て来てからずっと松尾大社の氏子の範囲に居住している。梅津から嵐山に転居しても、先の依代は自治会から配布されて来たが、これは強制ではない。それで自治会長の判断に委ねられ、わが自治連合会では14の自治会のどこもが依代を配布しているとは限らない。筆者が知るところによれば、わが自治会はこの依代配布を止めた。その理由は筆者の前の自治会長によれば、松尾大社に寄付したい人は個人で訪れて賽銭を投げればいいという考えだ。筆者はそれを受け継いだが、松尾大社は何も言って来なかった。嵯峨のOさんから聞いて知ったが、その依代から1割ほどが自治会に戻されるらしい。つまり、自治会で集めるからには、松尾大社は自治会に幾分か還元する必要があるとの考えだ。Oさんは自治会費の収入につながるので、依代は今後も続けるだろうと言っていたが、信仰の自由の考えから、自治会から神社への寄付を強制されるのは御免だと思う人もある。それに経済的理由もある。年2回だったと思うが、2回で1000円ほども支払うとなれば、よほど神社好きでないことには今後の若者はそっぽを向くのではないか。氏神を大切にするという考えがこれからの若者にどれだけ受け継がれて行くかとなると、マンションが増加している現在、難しい問題だ。地元で子育てをしても、サラリーマンはいずれ遠方の故郷に戻って行く。Oさんは代々嵯峨に住むので、松尾大社の依代に疑問を抱かないが、筆者のような新参者は氏神という意識がほとんどない。それに神社も商売であり、実際Oさんの話によると、依代では納得行かないことがあるらしい。それでもそこは大人の社会のことで、誰しもわかっていても目をつぶるということだ。松尾大社の氏子の範囲の中に西京極が含まれている。西京極は松尾大社の膝元のわが自治連合会の区域とは違って、面積が大きく、金持ちも多いそうだ。その西京極に氏子代表者が何軒あるのか知らないが、そのひとりと先日久しぶりに長話をした。その人は郷土を誇りに思っている。それで氏子代表になっているのであろうが、とても面白い人で店の屋号に地元の古い名称の一字を用いている。その一時は秦氏と関係するほど古いもので、その人の思いの中には古代の京都があるようだ。詳しく書くと多少まずいことがあるのでこれ以上は書かないが、先日の話で印象深かったのは、ある学者が在野としてとても有名で、慕う人が多いという話だ。以前から聞いていたが、その日は心に留めた。帰宅後早速その学者の本をネットで購入した。学者の在野は筆者にはイメージしにくいが、世間でよく知られる、つまり売名行為に熱心は人物ではないとの意味で、大学の教授であることは当然だ。大学の教授でなければ学者の名前に値しない。話が脱線し過ぎる。月読神社の境内は山の斜面を整地したのか、さほど大きくない。そのことは今日の写真からわかるだろう。ほかにも撮ったが、梅の宮大社や松尾大社と同じように舞殿があるのがよい。3枚目の左に見えるのがそれで、右奥には社殿が見えている。全体に松尾大社を小さくした感じで、摂社であることがわかる。そうそう、わが自治会は松尾大社の依代とは縁が切れているが、毎年5月の同大社のお祭りでは子ども神輿を出し、それは自治会内から渡月橋近くの檪谷宗像(いちたにむなかた)神社にまず全員で詣りし、その後一旦法輪寺の地蔵さん前まで戻り、午後から松尾大社の舞殿脇まで巡行する。檪谷宗像神社も松尾大社の摂社で、そこに子ども神輿を運び入れるのはわが自治会のみだ。自治連合会の北端に位置し、松尾大社からは最も遠いのだが、檪谷宗像神社には最も近く、松尾大社とは縁が切れない。檪谷宗像神社は舞殿はなく、月読神社の半分もない大きさだが、桂川がどれほど氾濫しても浸水する心配のない高台にある。そのため、境内の樹木の隙間から眼下に桂川を見るのはなかなか楽しい。
●神社の造形―月讀神社_d0053294_21430281.jpg

by uuuzen | 2015-08-01 23:59 | ●神社の造形
●ムーンゴッタ・2015年7月... >> << ●神社の造形―八坂神社の玉光稲荷社

 最 新 の 投 稿
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?